2006年04月の投稿

さなえ窯

 駒ヶ根高原美術館に行った。ルオー、ゴヤ、ロダン、池田満寿夫、藤原新也等の作品が各部屋に展示され、それぞれが強烈な個性を放ち、見る者に衝撃を与える。きれいに洗練された建物の中に、強烈な主張が詰まっている。

最後に販売部にたどり着いた。そこで売られていた「さなえ窯」の作品の素朴な美しさに心を引きつけられた。これも、美術館のコンセプトかもしれない。以下の文は、ご本人の自己紹介。

「私は、本州で一番小さい村として知られている愛知県北設楽郡富山村出身です。結婚後、美濃焼の産地で有名な岐阜県土岐市下石町に移り住み三人の子供をもうけ、仕事と家庭を両立しながら無我夢中でこの30年間ものづくりに励んできました。忙しい中でも常に<こだわり>を持ち続けてきたのは<お客様主義>の姿勢です。どういう器なら末永く好まれ続けられるのか?どういう器なら家庭が食卓を囲んで楽しく食事ができるのか?私は常にお客様の目で物を見て考えてやってきました。これからも先ずっと<お客様のこだわり>をもって<さなえ窯>で頑張ってやっていきます!」

確かに使いやすく、温もりが感じられる。ちなみに、美術館に展示されていた藤原新也の作品に気持ちを引きづられ、写真集を買った。そこにはこう書かれている。「ひとがつくったものには、ひとがこもる。だから、ものはひとの心を伝えます。ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い」

会津慶山焼

夏の真っ最中、35度近くの灼熱の中を歩いていると、会津武家屋敷と飯盛山の間に「会津慶山焼」の窯元がある。

歴史は1592年にさかのぼる。唐津の技と結びつき、植木鉢、丼鉢、煉瓦、そして茶器等へと発展し、現在の道筋は、日常用品の製作である。昔ながらのロクロ、手びねり、灰釉(灰を原料にした、つやを出す薬)を伝統的に守っている。

店構えの奥ゆかしさと、中に入った時の涼しさ、さらに作品の一つひとつに清涼感を感じた。比較的気安く買い求めることができる値段であるが、手作りであるため作品は一つひとつ形や色が異なり、自分が納得するまで、選ぶ機会を与えてくれる。特に、流れるような釉をきれいに収めた清楚なうつくしさに、私は心を惹かれた。

私は、直径7?と6?の小振りの湯飲み茶碗を所望した。幾種類もあり、手にとって、外の光にも照らしたり、とても楽しいひとときであった。

冷たいお茶をいただき、心身とも癒され、外に出た。

伊豆の醍醐味

東伊豆の中央から、下田、波勝崎、堂ヶ島温泉、土肥、修善寺を通り、東伊豆にもどる1泊2日の車の旅が、本年の最後の旅である。前日の雨が嘘のように、空は青く、陽射しが強い。

<ペリーロード>

何度も東伊豆には来たことがあり、熱川での同年齢の研究者たちの研究会は、慰労会に変わったが、約25年間続いている。一気に下田に南下し、ぺリーロードで食事をすることにした。伊豆急下田駅から近いところにあるのだが、私たちにとっては、はじめての場所。黒船のペリー長官に由来がある。

川に沿って、古い建物が並ぶ。いくつかの店の西洋の雰囲気と、やなぎが葉を揺らす日本的な趣とのバランスが、なかなか個性的である。

<波勝崎>

次に波勝崎に向かう。言うまでもなく、猿を餌付けしている場所。大学生の時に、ボランティアで小学生の修学旅行に同行し、車椅子を押しながら自分の方が興奮していたのは、今から約30年前。でも、餌をやる小屋があったかどうかは、定かでない。1匹のボスを中心に、たくさんの猿が群れをなし、秩序がたもたれている。

小屋からのみ、餌をやることが許されているが、外から見ると、おりをはさんでどちらが主人公かわからない。「餌をあげている」のか、「餌をもらっていただいている」のか。そして餌をあげ切って、小屋から出ると、今までのことは一切記憶から消え去り、猿と人はあくまで他人の関係。なにしろ、餌をあげている人も、ボス以外は見分けが付かないし、猿も餌を見ているのであって、誰がくれるかに関心がない。淋しい気もするし、さっぱりとした関係も良い。

<エキサイティング・ロード>

波勝崎から西伊豆の道路を北に向かっていく。その風景は、まさにバラエティに富む。東伊豆が、海岸と遠方に見える大島、初島などを見ながら、風景を楽しむことができ、天候の良い時は癒しのロードである。これに対して、西伊豆は、富士山や雪の積もる山脈が、突然対岸に現れ、その意外さに驚かされるエキサイティング・ロード。あたたかな気候の西伊豆に対比される対岸の自然の厳しさに出会い、思わず声をあげてしまう。また夕日が丘から見ると、海は一面に広がり、太陽が海面を照らし、キラキラと海が光る。そして一筋の光のじゅうたんが地上と太陽を結ぶ。夕日でなくとも、十分満喫できる。


海に沈む夕日

遥かなる昔から、太陽が昇り、そして沈む時が繰り返されている。これは、自然にとって、きわめて当たり前のことであり、地上の生命体は、その繰り返しに応じた生き方を身につけた。夜は休み、夜露をため、そして日中の熱い日射しに耐え、光合成という生命のメカニズムによって生命力を得る植物、夜に活発化する動物や昆虫、そして当然、夜を休息の時として日の出を合図に仕事を始める人々等々、日の出と日没は、大切な自然の体内時計である。

東京に住む私にとって、太陽はいつも陸から昇り、陸に沈む。そして夕日を見て、ある時は喜びの気持ちを抱き、ある時は悔しい気持ちをぶつけ、ある時は明日への夢を委ねる。ただ、いつも丘に沈む。いつから夕日と言うのか、定かではないが、私にとって、太陽はまぶしく輝くもの。夕日は心で受けとめる赤い魂。

今年最後の旅に、私たちは西伊豆を選んだ。堂ヶ崎温泉ホテルに宿泊し、海岸を見ると、まさに3つの丘があり、その狭間から、夕日が海に沈む。沈む速度は同じはずなのに、なぜか夕日は、最後の時、急に速度を速めて海に吸い込まれるように感じる。そしてその時の輝きが、一番美しい。

夕日が見えなくなってから、数10分の間、赤い炎が地平線いっぱいに広がり、海の中から燃え尽きるまで輝いていた。

自然の混乱から生み出された心の出会い

前日のJALの混乱は、私にとってはじめての経験であった。時間の余裕をもって到着した第1ターミナルには、たくさんの人で身動きのできない状況。北国の大雪と前日から日本列島を通り過ぎた熱帯低気圧のため、混乱が起きることはやむを得ない。しかしアナウンスが不徹底の中で、情報を待って床に座っている人々、長蛇の列をつくっている人々。携帯電話も繋がらない状態。私も2時間待ったが、疲れ果て、諦めて帰宅することとなった。

結局、翌日は早朝4時40分に家を出た。5時発のバスに乗り、都合良く、羽田空港に1時間前に空港に到着した。そして第2空港ターミナルのラウンジに座っていると、海岸が段々赤くなってくる。そして、6時40分頃だろうか、太陽が顔を出す。その中を、飛行機が列をなして飛び立っていく。その美しさは、言葉ではあらわせない。

 私の日程は、いつもほんとうにタイトだが、そこで出会う時々の景色は、もうけもの。その日から始まる宮崎県西米良村、西都市の仕事を全うしたいとの気持ちが、自然との出会いから生まれる。やはり、自然の、人では計り知れない奥深さが、私の心を支えている。

今日も、すばらしい出会いをした。

五色沼探索

7月末、曇りがちで雨が降るかもしれないという不安の中、毘沙門沼から五色沼自然探勝路に入った。すれ違ういくつもの小学生の集団と挨拶を交わしながら、自然の中を歩く。「あと、10分で着くから頑張って」「もう少しだよ」という言葉から、最後は、「すばらしい自然を楽しんで」「道のりは長いが、気がついたら着いている。それぐらいの美しさだよ」というように、励ます言葉が変わっていった約1時間20分の歩きである。  毘沙門沼は、五色沼では一番大きい沼。ところどころから磐梯山が見え、また苔や水草の集落を楽しめる。また、自然が沼の水面にうつり、静けさがそれを包み込む。そしてボートをこぐ人々が見え、自然の絵画のよう。  しばらく毘沙門沼にそって歩き、一度は山道を歩いていくと赤沼が見える。酸性の強い水だそうで、空色に見える沼の水に生えるヨシの根元が赤くなっている。植物と水との共生が織りなす現象で、酸化した鉄分が付着したからだそうだ。  次の代表的な沼が、深泥沼。異なる水草が群落を作っており、所々で見える景色は、それぞれが違う。全面的に沼が見渡せるというより、生い茂る樹木の間から見える。水の色が、それぞれの景色で異なり、絵画館のようだ。  沼にたどり着く道程で、滝のように沼に流れ込む激しい川に驚かされ、比較的ゆったりと川から涼しさとこれから歩く力を与えられ、美しい百合の花を見えたり、紅葉が点在しており、なかなか楽しめる道である。  弁天沼と、屈指の透明度を誇るるり沼を過ぎ、沢を登ると神秘的な青沼がある。その水は、青く輝き、その色から様々な創造が生まれる。私は、水に溶け出した青い珊瑚礁のような気がした。水際の白い模様は、カルシュウムが付着したものだそうだ。  最後に、柳沼に着くが、その一つ前の沼?を見て、衝撃を受けた。静寂の中に、自然の激しい姿があり、屍のように木が倒れていた。まさに暗黒の世界への入り口のようだ。しかし、柳沼は、とても落ち着いた姿を見せ、対面の木々がその暗さをうち消すかのように、空に向かったまっすぐに生え、空からは明るい光が注いでいた。まさに明と暗である。

毘沙門沼

赤沼

深泥沼

弁天沼

るり沼

青沼

倒木

柳沼

会津御薬園

会津松平藩の二代目正経が、1970年に園内に各種の薬草を栽培したことから始まる。そして1959年に藩政時代の薬草栽培地跡を整地して薬草標本園として発足した。静かなたたずまい、見慣れた花が植物園に植えられ、思わずその効果に驚く。また国指定の名勝庭園として手入れもされ、私にとっては極楽の場であった。確かに、食材を紹介する際に、身体によいと言われる、みんな良いに決まっている思い、疑心暗鬼ながらも、食が進む。そこには、自然の力が働くという信仰があるからである。

しかし、このように、その根拠が実際に示されると、とてもうれしいし、すなおになれる。夏の熱い日差しの中、その日は、決して観光客が多くなかったが、私にとって御薬園は、まさにオアシスとしての意味を持っており、その場所自体が、身体によい薬草園である。

自然の輝きとそこ知れぬ空間

磐梯山

弥六沼からの磐梯山

檜原湖からの磐梯山

毘沙門沼からの磐梯山

夕方から翌日の昼にかかる2日間、福島県にある磐梯山を見る機会が与えられた。裏磐梯高原から磐梯山の姿との出会いであったが、それぞれが十分すぎる感動を与えてくれた。表磐梯から見る景色が穏やかな顔とすると、裏磐梯から見る表情は、底知れず厳しい。噴火の際に、地域にとてつもなく大きな被害を与えた顔である。

弥六沼に面した庭から磐梯山を眺めていると、雲が突然あらわれ、流れては消え、そしてまたあらわれる。その激しい動きはとても幻想的。時に、磐梯頂上を包み、高い空へとつながる。その動きは、あたかも噴煙がたっているかのよう。

しかし、日没まぎわになって、今まで包み込んでいた雲がはれ、頂上が赤い夕焼けに照らされた。ものすごい噴火の跡を今も残す山肌が、美しい舞台とかわる。そして突然、虹の橋が山頂から天にのぼる。5~6分のすばらしい光景が浮かび上がり、暗闇が一気に磐梯山をつつみ込んでいく。

自然の輝きとは、このことを言うのだろう。底知れぬ空間がそこにはある。

米の分かれ道

バスで猪苗代駅に向かっていた時、運転手さんが、親切に米の違いを教えてくれた。バスが走っていた農道を境に、米の質が違うとされ、一方は特に料亭向きに使われ、値段に大きな開きがあるとのこと。会津の米とお酒、味噌は天下一品であることは、全国でも知られていること。いつもおいしく食べている。しかし、気候も、太陽の恵みもまったく同じなかで、違いは水とのこと。一方は表磐梯からの水で、他方は裏磐梯から水だとのこと。いささか戸惑うところであるが、教育にたとえても同じことかもしれない。小手先の技術に走った教育は、先が見えている。しかし、人間理解、社会の創造をめざした考え方、個々人の生活と文化の違いを個性としてとらえる視点。それらのいずれも、表だっては見えないが、しかし水のように根源的なものであり、多くの人、出来事との出会いが、その吸収を早め、人を育てる。そんな教育を行っていきたい。今までと同じように。

会津の街並み

仕事先で、旅先で、時々気が付くことがある。文化的に保護された街並みとは、特別な空間であることを。古い建物、白壁、蔵、格子戸等々、共通点も多い。しかし、そこには、人が住んでおり、織りなす雰囲気はそれぞれ異なっている。

会津の街並みは、日常生活と同居している。一本道の両側にかたまって店や家があるのではなく、比較的広い地区に点在している。そして、観光客とともに、自然に住民が行き交い、買い物をしているし、ビジネスマンが食事に行く。そして近くに新築の建物、ビルもある。

会津の人は、なかなか心を開かないが、信頼する人に対しては、とても強い絆ができると、前日、地元の人から聞いた。私をまだ信頼していないという意味かとも思うが、その街並みの伝統を日常生活の中で活かし続けることは、とても辛抱のいることであり、誇りがなければできない。そして、その街並みから、さらに地域への愛着が生まれるかもしれない。会津の人の心意気を見た気がした。もちろん、文化財を保護するための行政からの補助はあるかもしれないが。

大型店舗が郊外にでき、商店がたてなみ閉店し、昼間でもシャッターが降りている街、すなわちシャッター街が全国に広がっている。そこでは、地域へのこだわりと愛着が薄れる。なぜなら、そこは、生活の拠点としての意味が壊れているからだ。東海のある市に行き、伝統的な繊維関係の商店の姿に驚かされた。10近く年前から感じていたことではあったが、ほとんどがシャッター街になり、とても寂しい。街おこしは、生活と密着することも必要であると私は思う。

3つのGood Message

 大型台風18号が九州、中国地方を経て日本海に進んでいる影響で、東京の空も異常に荒れた。風が夜空にうずまき、雲が猛スピードで通り過ぎていく。雨が突然地上を打ち、そして何もなかったかのように消え去る。その晩は、きっと熟睡できないだろうと覚悟した。その理由は、この天候だけではない。翌日は、とても大切な2つの結論が出されるから。1つは、義母の手術があること。2つ目は、ルーテル学院大学大学院臨床心理学専攻の審査結果が出されることである。いずれも午後3時以降。そして宮崎行きの飛行機の出発は午後4時45分。だから、キャンセルも選択肢として考えていた。

当日は、朝から、落ち着かない。そして、飛行機の時間も迫ったきた。しかし、離陸の約20分前に、時間を合わせたかのように、ずっと手に握っていた携帯が震えた。妻からのメールが届く。「手術成功」。そしてその数分後に、文部科学省に行った職員から電話が。「教員審査全員合格」。優秀な教員をそろえていたこともあり、私は強い自信をもっていたが、自信は確信となった。

飛行機に乗り込む間際に届いた2つのGood Messageをもって、飛行機は、ほぼ予定通りに離陸した。台風が日本に近づいていたこともあり、窓から見える景色は、一面、厚い雲のじゅうたんである。私が、ぼんやり外を見ていると、ふと太陽が降りてくることに気づいた。機上から見える太陽は、だんだん雲の中に沈んでいく。窓には、氷がついてきたが、確かに太陽が見える。そして最後には、赤く燃え、雲の中に隠れた。雲に覆われて、地上では見えなくても、自然は繰り返されているのである。

真っ赤な夕焼けを見ると、明日の天気が良いことを予想し、期待する。雨や曇りの日は、夕焼けは地上から見えない。しかし、いつも明日を迎えるために、夕日はいつものように沈んでいる。ただ、私には見えないし、気がつかないだけ。雲に包まれ、光が見えない暗い今だからこそ、「いつも夕焼けを見つめ、明日への期待をもとう」と、雲の上の夕焼けを見て感じた。それは、偶然に見た夕焼けがくれた3つ目のGood Message。