2003年04月の投稿

陶磁器のわがまま展覧会-5

津和野綾焼き

 友人は、津和野には有名な陶器はないと言う。しかし、有名な陶器がすべてではないと思っている私にとって、近隣の萩焼きまではいかなくいとも、それぞれの地域には根ざした陶器の思想と主張とたびたび出会う。そして「やったぞ」と心からうれしく思う。ただ、今回の問題は津和野と言う有名な場所に負けない、小細工のない主張があるかが問題となる。なぜなら、有名な名を借りることによって、単なるお土産になってしまう危険性があるし、その失望は数限り無い。それは、陶器の特産地においてもしかりである。
 津和野の街を友人の車で通っていた時、陶器の店を見つけた。雑貨の延長線上にある店構えではない。飛行機の時間もあったが、無理を言って店に入らせていただいた。6畳ぐらいの展示の奥に、店主が作成するロクロも置いてあった。少し凝り過ぎかなと思ったが、少し店を眺めて、濃い緑色の特徴のある作品にいくつか出会った。緑の中に「ホタル」のように飛び交う点々。「ホタル」ではなく、湧き水とともに浮かび上がる気泡にも見える。
 その名は綾焼き。まだ知られていないことは確かだが、それが日常に埋没するか、それとも光を放つかは、時が解答するであろう。「山陰の小京都と呼ばれている津和野は、山に囲まれた静かな城下町です。こんな町の青野山の山麓に小さな窯があります。時の城主、亀井の殿様の遊んだ焼物がお庭焼きと言い、綾焼きと呼ばれたものです。その作品は町の郷土館に展示してあり、私が綾焼きを再現しようとして初めました。古来の伝統技法により、自然の木やワラの灰を使って青の色を中心に現代に適応した作品をと念じながら作陶に精進しております。」(青山窯)

大切にしたいカップである。

中霧陶苑

 山田町のパンフレットに、地元陶器と書かれていた。そこで、町社協の人にお聞きすると、地域を御案内いただける過程で、立ち寄れるとのこと。「かかし」という町の宿泊所の隣にあった。今ではめずらしいと思うが、段々になっている窯も見せていただいた。

 陶器の特徴は、軽いこと。デザインや色も気に入ったが、持ちやすい重さであることも気に入った。高いカップが約15cm、直径6cm、低い方が高さ約7cm、直径8cmほどであり、後者はそばを食べる時にも使える大きさ。ちなみに、今は私の元にはない。いつのまにか、妻のお土産に変身していた。

阿波大谷焼窯元森陶苑

 徳島の友人に連れていっていただき、徳島市街から数十分の森陶苑に行った。とても広い敷地に、販売店と窯がある。

 段々となっているのぼり窯もあったが、近隣との関係で今は使っていないとのこと。とても大きな釜を創っておられる場所も見学させていただき、2人がかりの作業に思わず立ち止まって見入ってしまった。この釜は、焼酎の製造につかわれるとのことで、恒常的に注文があるとのこと。
 私がもっとも気に入ったのが、一滴づつ落ちる水が、ピーンという音を発する壷。この大きさは様々であったが、私は60cmほどの高さの壷が気に入った。面は、細かい糸が積み重ねられているような紋様。元使っていた窯の中に置いてあり、そのとてもすばらしい響きに聞き惚れた。
 買いたいと思ったが、4~50万円するもので、買えるような値段ではなく、また家では使えないので、諦めた。今度、それが置かれているところで、ゆっくりとその音色を楽しみたい。
 私が買ったのは、60cm程の真っ青な大皿。知り合いの方の口利きで、安くしてもらえたが、今は3階の物置きに置かれている。妻の許しがこれからの課題であるが、皿の色は、自然の青空を連想させ、その器の深さからは、澄み切った池を思い出す。それがいつの日か私たちの生活に定着することを期待したい。

陶磁器のわがまま展覧会-4

綾町探検(2003年3月末)

 宮崎空港の1階にあるホールで、宮崎県内の新進気鋭の作者による陶器市が開催されていた。出発時刻が迫っている時、市の開始時間前だったので、私は外から見ていた。準備のため、店鋪では陶器を並べていた。私は、お願いして展示の準備中の店鋪を見ながら、気に入った作者から名刺をもらった。その一つに、綾町の八衛門窯があった。
 再会の機会は、1年後に訪れた。夜には、翌日の打ち合わせがあったが、12時前に宮崎空港に到着し、近くでレンタカーを借り、綾町に行くことにした。たまたま出会った陶器を求めて、夢は広がる。
 宮崎市内を通過して、約1時間ぐらいであろうか。綾町の中心部についた。町役場の隣の綾手作りほんものセンターの前に、「工房ひむか色」と書かれた看板が見えたので、入ってみると、沢山の陶器や生地が並べられていた。それぞれが、なかなか個性的なもの。思わず足をとめる。そして、陶器のお話を聞くと、何軒も窯元があるとのこと。地図をもらい、できるだけまわってみることにした。そして後で気がついたことだが、丁寧に教えてくださった女性が、最後に立ち寄った「大原陶苑」の奥さんであった。
 綾セレクションという焼酎、針葉樹林、花時計等で有名であり、宮崎県でも元気な市町村の一つである綾町では、窯元、木工、織物店がたくさんあり、一つの地域文化をつくっていたことを、私はまったく知らなかった。私の窯元めぐり旅は、「八衛門窯」→「綾川陶苑」→「元町陶苑」→「陶房八十一」→「大原陶苑」へと続く。

工房ひむか色
工房ひむか色 内部

「八衛門窯」は、役場からほど近くの一軒家である。清楚なたたずまいの家は作品の展示場になっており、離れに窯があった。作品は、青くうつくしい空をイメージさせる色が特徴である。「日常の生活を楽しく演出してくれる器づくり」を目指す泰田氏の主張が、店内いっぱいに輝いていた。豊かな土を彷佛させる茶系統の器、口元が広がる癒しのコーヒーカップ等々、展示室に楽しい世界が広がる。私は、気に入った陶器を2つ買い求めた。一つは高さ約20cmの花瓶。もう一つは、約15cmのカップ。いずれも美しい色彩が、使う人の心に夢を与える。

八衛門窯
泰田氏

 次に川沿いの「綾川陶苑」に行った。一番古い窯元である。ペンション風の建物が見えた。階段を登り、展示室の前に行くと、「御自由にお入りください」との看板が見える。店主はいないが、陶器が客を待ち構えるように並べられている。しばらく作品を手にとりながら、時間を忘れるような一時。いろいろな作品の中で、平凡かもしれないが、とても温かみを感じる茶わんが私の心を放さない。作品には相性がある。気に入ったので、店主を探すが、どうやら奥に窯があるようなので、近くに行き、器に彩色をつける作業をしている店主がいた。陶器のいずれにも名前が書かれていないので、その理由をお聞きすると、「手間がかかるから」との返事。「陶工の生涯は、土と焔との対話にあけくれる・・・しかしものをいわぬ相手だけに気苦労も多い」という作風を形づくる人柄を感じた。

 次に川をわたり、「元町窯」に行く。「『手造り・手描き』という器本来の姿を見詰め直し、伝統の心と技に現代の感性を取り入れた器の創作に日夜研鑽している」という窯元。部屋は確かにもてなしの心に満ちている。玄関に薪を置き、「元町窯」の大きな看板。明らかに、存在感がある。しかし、一歩中に入ると、畳の部屋に作品が並べられ、とても優しい雰囲気がある。そしてお茶を出していただき、いろいろ作品の説明をしていただいた。新作を教えていただこうと、綾に来てはじめて名刺を渡すこととなったが、それが意外な展開に。日本福音ルーテル宮崎教会で宣教師をなさっておられた方の娘さんが店主の日高さんの御夫人とのこと。私の大学の恩人であり、かつ関係の深い方である。突然に大学と教会の歴史がよみがえる。買い求めたものは、木の幹の味わい茶わん。宮崎という温暖な県で、寒い冬に暖を与えられる木の器を手に入れることができた。その陶器には、かじかんだ心をとかす、温もりが込められているような気がした。

 「陶房八十一」を探し、たどり着いたところにきれいな花が咲いていた。そして坂を登ると窯元があった。確かに展示室は決して大きくないが、はっきりとした黒の器、絹ような温かみのある白い器、そして淡い肌色のような器と、ポリシーが徹底している。焼き物のことをお聞きする陶元が説明するやさしい言葉とは別な、陶器の強い個性を感じた。私は、白の陶器を買い求めなかったことを、今としては後悔しているが、その時には強い黒の茶わんと、その個性を中和する淡い色の茶わんを所望した。「普段の生活に潤いを与える、そんな器造りを心がけています」とする興梠氏の意図が良く分かる。

 「大原陶苑」にたどり着くには、なかなかの努力を必要とした。そして、その作品に出会ったのは、最初に立ち寄った「工房ひむか色」であった。そして、熱心に綾の窯元の説明をしてくださった女性が、「大原陶苑」の窯元の夫人であったこと。作者のポリシーは湯のみ茶わんを見ていただければ一目瞭然。照れながら説明くださる窯元の作品のイメージには、発想を大切にしようとする姿が伺える。そしてその発想の原点を、私は自然の美しさと変化、そして厳しさと感じた。生活の拠点である自宅に、いろいろな作品が並べられていた。何か、プライバシーに踏み込んでしまった気がして、申しわけなくも思ったが、自分の作品を見ながら、家族と食事をするなんて、なんて贅沢だろうかとも思う。宮崎市までの道順を教えていただき、充実した探検を終えることができた。「時間とはつくるもの!!」

綾町の様子は旅日記にものせています。

陶磁器のわがまま展覧会-3

松の火の粉がついた皿

 田園調布教会に講壇奉仕で行った帰り、東急の駅までの間に、いくつかの陶器の店があった。駅から南に歩き、右に一つめの店で、この皿に出会った。お願いした説明書は、数年たっても届かないが、この緑の深さと赤い斑点に気持がひかれた。初めて見た時は、決して手が届かない値段ではないが、気持を固めなければ買えない値段であった(1万円から3万円の間)ので、まずは退散。もしそれでも買いたくなったのなら、買おうと思った。しかし、これを欲というのか、数日して、神奈川県の仕事で横浜に行く時、思いがつのった。そして、もし帰りに寄れたら買おうと思い、結局買える時間に田園調布駅に着いた。
 まだ、その焼き物は、私を待っていたかのように、飾られていた。いくつもの支店がある店なので、その皿に関するもう少し詳しく、丁寧な説明がなされた方が良いと思ったが、良いと思った私の責任で、喜んで買わせていただいた。
 今、大きさから、その色から、また波のように押し寄せる表面から、実は妻からもっとも好評な皿として使われている。20数センチ四方の皿は、家の癒しになっているのである。でも、飾られていた方が、威厳があり、輝いていたと思っているが、親しみは今の方が大きい。

萩焼

 萩焼は、私がもっとも好きな陶器の一つ。名前においても、全国区である。1に焼け、2に土、3に作りと言われる。その焼き具合は、「ざっくり」と、または「かたく」焼かれたもの、窯の中で変化を起こす、すなわち窯変と、それぞれ趣きがある。私は、この写真のような、独特の青色の陶器が好きである。

何度も、山口県では宇部、徳山、下関等に行ったことがあるが、時間の制約もあり、萩に行くことはできなかった。そしてこの萩焼を手に入れた所は、青森市。それも、青森県の特産物を豊富に置いてあるセンターの展示場で、出会った。展示されていた各種の焼き物を見ていて、光り輝いていたのが、大屋窯窯元濱中月村氏作の萩焼。本州の最北で、本州の最西のすぐれものを手に入れた。これを出会いと言う。

行くことはできた「大久保窯」との出会い

 何年前になるだろうか。宮城県の仕事の後、栗原郡へ行き、講演が終わった時、担当の職員のSさんから、近くに有名な窯元があることを教えていただいた。知識の乏しい私は驚いて、「何焼きですか」とお尋ねしたら、大久保窯とお答えになった。そして時計を見ると、まだ約2時間の余裕があった。「行くこと<は>できます」という御厚意に甘えて、お連れいただいた。
 畑を見下ろす丘の上に大久保窯があった。そしてその門に立って、しばし立ち止まった。なんとも大きな古い家。そして整然と自然の中に立っている家。入ってしばらく探索するも、作品の多さと、中の雰囲気のすばらしさに、思わず私の時間が止まった。そして村上世一氏がおられ、作品のお話をたくさん伺うことができた。しかし、実際の時間は止まらない。職員の方から促されるまで、とても楽しく、充実したひとときを過ごすことができた。同時に、「行くこと<は>できます」という意味が痛い程よく分かったひとときでもあった。

 私は、1階の茶をいただくテーブルの前に飾られた中から、しょうぶの花が優しく描かれた直径45cm程の大皿と、中2階にあったひとまわり小さな皿を並べ、値段をお聞きして、どちらにしようかと大いに迷っていたところ、「どうぞお2つをお持ち下さい。最初に申しました1皿の値段で結構です。そしてこの本も差し上げます。」との御厚意。しょうぶの花の大皿は学長室に、もう一つの皿は、自宅の2階の棚に置かれている。

青岩窯

 私の父は、西洋の陶磁器が好きだった。でも、私に残したものに、意外な陶器がある。青自硫唐草文皿(快山造作)と青岩窯(糸ニ関作)と読むのだろうか、その2つである。その良さは、言うまでもないが、母からもらったかたみとしてのこの陶器は、私にとって、理解ができにくいものである。なぜなら、その美しさは私好み。父の趣味とは違う。たまたまのことかもしれないし、父の遺言かもしれない。
 大切にしたい。

撮影 渡邊 亜希子氏

陶磁器のわがまま展覧会-2

ほたて釉の湯呑み

 青森県に、県の仕事で来させていただいた時、帰りに寄り道をして、市内の陶芸の店に立ち寄った。店の裏に電気窯があり、店主が創り、販売する。「陸奥美(むつみ)焼」という。店内には、いろいろな陶器があった。「ほんのりピンクの<りんご釉>、ほたて貝の粉でつくった<ほたて釉>、炎がおりなす自然の美しさ<焼締>等々」
 ほたて釉は、青森県で特産の帆立貝から大量に出る貝殻の利用をめざしたもので、貝殻の粉とともに他の原料をまぜ、1,300度で焼き上げたものである。そこで平内の帆立がとてもおいしいと思っていた私は、さっそく買い求め、そして同じサイズのりんご釉ができたら、送ってくださいと約束して帰った。
 その湯呑みの高さは約20cm。なかなか重宝している。

虹色の花瓶

 岡山市にもたくさんの陶器店がある。そしてその陶器店を分類すると、3つに分けることができる。1.高価な数々の陶器を並べ、頑に質の勝負をする店。2.展示に工夫をしたり、備前焼に留まらす、幅広く陶器を集める店。3.備前焼の特徴を前面に出しながら、ある程度値段を抑えた土産物としての陶器を中心に販売する店である。1の店は、情熱をもって、なぜこのような値段になるのか、品物の価値と、店主の目利きの良さを語る。非常に勉強になるが、なかなか帰るきっかけをつかめなくなることがある。2の店は、デパート感覚とでも言えようか、特定の関係者とのネットワークを活かしながら、展示の方法や、ライト、会場の雰囲気に工夫をこらす。店主は、客の通行人感覚を大切にしつつも、客の買いたいと思うタイミングを逃さない。3の店は、奥のガラス棚に高価な作品をいくつか並べ店の品位を保ちつつ、旅行客を狙い、決して手の届かない値段の陶器を置かない。観光客の、思い出を持ち帰りたいというニーズに、手頃な値段の陶器で応えようとする。
 私は、仕事の谷間の昼休みや夕方、または仕事の終了後に、陶器店に立ち寄ることが楽しみである。ある年の夏のまっただ中、岡山県社協の2日間の仕事の合間に、会場の近くにある陶器店に行った。2階が展示室になっており、定期的にテーマを変えながら、陶器を揃えているそうだ。
 2階に上がって、ある花瓶が目についた。私は、まず展示会場の全体を確認する。7~8畳の展示会場のほぼ中央に、その花瓶が置かれていた。いや、私を待っていたというべきか。虹のような配色と、空と地面を描いた、自然のすがすがしい空気を感じた。
 國造焼窯元3代浩彩の作品、焼錦窯変花瓶である。鳥取県倉吉市にあり、明治中期に、初代がその土を生かし、生活の形を造り続けた。面識はないが、3代目は、1949年生まれで、私と同世代でもある。その繊細な作風が、私がイメージする備前焼とは好対象で、それだからであろうか、夏の熱い日に、緑葉がいっぱい茂った木立の下で、すずしい風を受けているように感じた。他にも数々の陶器が並んでおり、それぞれのデザイン、色彩、そして大きさや値段等を確認したが、今にして思うと、高さ約23cm、直径約8cmの虹色の花瓶を手に入れるための手順のようにも感じる。

備前焼きとの出会い

 私にとっての出会いは、時々岡山に仕事で来て、岡山市内の陶器店。そして始めて買ったのは、吉祥寺の東急イン前にある陶器店である。そこで、備前焼きの話を聞かせていただいた。戦前は、今ほど人気がなかったと聞く。それが、山陽新幹線が開通した頃、一気に窯元が増え、窯友会所属の窯元約20件、作家は会員以外も含め、400人に達しているそうである。
 私は、備前焼きの美しさは、大地の豊かさと、窯の中で火がつくり出すその偶然性、個性にある気がする。何でもオートメーション化し、そして規格化し、個性を失うか、もしくはあまりにも個性的な商品が寸分も違わず大量生産される。しかし、備前焼きは、鉄が散って黒々としたものや、レンガ色の模様が黒い地面に浮き出ているものが、高価であるともお聞きした。それも、KKD、すなわち経験と勘、そして度胸の世界でもある。高価なものは、天井知らずだから、私でも買えるもの、そして私が気にいっているものをお伝えする。

 私にとって、それぞれに思い出があるもの。一つは、備前焼き始めて吉祥寺で買ったもの。日本社会福祉学会全国大会のシンポジストの責任を果たし、翌日ほっとして倉敷を歩き、出会ったもの。竹の筒に入れて焼いたと聞いたもの。友人からもらったもの等々。今も、忙しくてあまり使う機会はないが、時間が出来ることを楽しみにしている。何故なら、備前焼きは使い込む程に味わいが変化すると聞いているから。

津軽金山焼

 それぞれの地域には、それぞれの窯があり、作者の個性と、土と火を生み出す自然がある。津軽金山焼は、私にはあまり馴染みのない名前であったことは事実。私が陶器を好きなことを知った青森のある方が、講演の感謝のメーセージを添えて、大皿を送ってくださった。陶器の入れ物の蓋をあけて、思わず息をのむ。たたくと響きわたる「音」と、厳しい自然の中の「風」、そして生命をはぐくむ「土」を感じた。
 津軽金山焼は、釉薬を使わず、金山の大溜め池の底に堆積していた粘土と、風雪に耐えてきた大量の赤松を使い、1300度の高温でじっくりと焼く、「焼き締め」の手法が用いられているそうだ。
 とても良い出会いであった。

陶磁器のわがまま展覧会-1

私が各地で出会った、思い出の陶磁器たちをご紹介していきます。

肥後小代(しょうだい)焼

 最近、熊本市を訪れる機会が多くなった。しかも、健軍教会において、学校法人、社会福祉法人、宗教法人間の連携が具体的に話されており、新たな歩みの始まりとなる場であることを願う。
 市電で健軍に向かう途中、肥後小代焼という看板が見えた。それ以降、時間があったらと思っていたが、何度目かの時、見に行く時間ができた。一人、うきうきしながら店を探した。とても品のある、旧家を改造した家に見えた。
 中には、作品がいっぱい並べられていた。そもそも小代焼は、1600年代に肥後の藩主であった細川家の御用窯として創設されたという。「器形素朴、垂釉は古雅でかつ鮮麗、高尚な郷土の銘陶」として、特に茶器として珍重されていた。しかし明治になってその伝統は途絶え、昭和初期に近重治太郎によって復興され、現在にいたっている。
 これは、本来の小代焼の代表的な茶器ではない。しかし、その粘土が流れ出るような模様と、それをしっかりガラスで押し込んだようなデザインに興味を引かれた。なかなか味わいの深い湯呑みである。

天領窯

 熊本空港で、大山陶苑天領窯と出会うことができた。何気なく歩いていると、通りの奥に、いくつも並べられていた。とても綺麗な色と、斬新なデザインに関心をもち、しばし立ち止まって見ていた。
 天領窯は、地底から湧き出た天然の山錆を釉薬に使い、赤色は、炎の渦巻きによって自然にできる熔変色だと言われる。
 クリスタルのワイングラスを陶器にしたよう。時代は異なるものの、オランダやポルトガル等との交流があった時代に、日本人の好みを追求したデザインのような気がする。またワインカラーがコップの口許を彩り、それと対照的な土の土台が支える。
 私としても、気に入ったコップである。

陶片木

 松本に、確か15年前に来て、ホテルに泊まり、原稿を書いた。それが、『差別と人権 高齢者』(雄山閣)に納められている「老人福祉サービスの現状と課題」であったと思う。出版社からの矢のような温かい依頼に意を決して、2泊3日集中して書き上げた。なぜ松本にしたかを、正確に思い出すことはできない。多分、涼しい場所で頭を冷やすと原稿が書けるのではないかと、思ったような気がする。
 疲れて街中を歩いた。当時の駅は、今と比べると確かに情緒があった。雪山のバンガロー、ペンション、山小屋のような情緒がかもし出されていた。古い街並を歩くと、そこには「陶片木」という看板があった。中には、店主が全国回って集めたもの。茶器はとても高かった記憶がする。そして、何かドンブリのようなものが、何十万もすることに驚き、どこが良いかと店主に聞くと、「作者の名前と実績による。但し、本人が良いと思うものが一番本人にとって良い」とのアドバイス。当時で、5個1セットで約6,000円を支払ったと思う。気に入り、私としては精一杯の贅沢であった。でも、「本人が良いと思うものが一番本人にとって良い」という教訓は、今でも生きている。

 2002年に県社協の仕事で松本を訪れ、夜、友人たちと街を歩いた。そして陶片木の前に来たら、多分店主と思うが、2階で創作していた。「自分が納得するものが一番良いのだろう。」そこに趣味の原点があるような気がする。

ギャラリー土夢

 茅野市内を通り抜け、蓼科に向かう途中に、突然看板が見えた「ギャラリー土夢」に立ち寄った。私は陶器や磁器が大好きで、時間が許せば窯まで行く。条件反射的に入ると、皿、湯呑み、動物等々が飾られていた。動物もユニーク。それぞれ趣は異なるが、イメージをいくつかあげると、古代壁画、中近東風、晩年のピカソのデッサン等。窓の外にも作品が並べられており、私は、まさにギャラリーとして十分楽しんだ。ちなみに買ってきたのは、写真の湯呑み。

 但し、これは神奈川のお蕎麦やさんから頼まれて造っているお椀とのこと。でも湯呑みとして使っている。蕎麦の風味も楽しみながら。

黄瀬戸

 思いがけず、岐阜市で黄瀬戸と出会った。県から講演の御依頼を受け、前夜に長野から中央本線に乗り、岐阜に来ていた。ゆっくり景色を見ながら移動しようと、グリーン車券を買ったが、外はあいにくの曇りで、暗くてまったく景色が見えない。そして時々見えるのは、通り過ぎる駅と街の灯かり、そして時として併走する車のライト。明らかなことは、私が乗っている列車は、こうこうと光がともり、外からはっきりと見えること。まさに水族館のくじらのよう。しかも、残念なことは、特急列車が揺れるので、仕事はできなかった。突然開いた「まったくの空間」。明日に期待すれば良いと、居直った。
 期待した明日が、まさに当日で、空はまっ青な晴れ。ひとり出歩いていると、目についたのが、高島屋で催されている陶器展。作者は、30代より心機一転、芸術としての陶器の創作の世界にはいる。そして、黄色の世界を開拓する。私は、この黄瀬戸に出会い、奥深い味わいに立ち止まった。そして、1セット5皿を買った。

 瀬戸市が私の母の故郷であり、たびたび休みに遊びに来ていた私としても、人間国宝であった人の作品以外は、思いあたる作品はない。はじめて自分で納得して買う瀬戸である。
 彼は、日本橋三越でも個展を開き、私も妻と行ったが、どうしても私が買える値段ではなかった。気に入る作品は、どんどん遠くなるのか。またどこかできっと会えるだろう。

備前焼大皿

 岡山に仕事で行く機会がたびたびある。その時、時間があると、私は倉敷の街並を歩く。そして、たくさんある店をまわったが、一軒の店が私のお気に入りである。陳列された陶磁器の特色、店の雰囲気、店主の対応、そして値段設定が微妙に違う。頻繁に訪れることはできないので、店の人は多分私を知らないが、機会があると手頃な1つは買うことにしている。
 30歳代後半になってから、陶磁器への嗜好が変化した。それまでは、模様がはっきりしたもの、磁器のように、ある意味で光が反射されるようなものが好みであった。
 しかし、今は焼き方、窯においた場所と熱によって模様に変化を見せるもの、光を反射するのではなく、受けとめるような土や自然のような印象を与えるものが好きである。その代表の1つが備前焼である。現在、300人近くの陶芸家がいるとお聞きした。
 数年前になるが、私はその店で、ある皿に出会った。確か30cmの皿であった。その模様が気に入り、店主に「これより1.5倍程の大きな皿がありますか。申し訳ないですが、予算は限られています。」とお聞きした。その当時は、大きな皿に関心を持っていた。店主は、「分かりました。今店にはありませんが、この陶芸家の山下譲治さんにお聞きして、可能でしたら御連絡します」と答えてくださった。
 それから約半年。時間とともに期待が薄らいできた時に、店主から電話があった。「お約束のものができあがりました。本来店頭に並べますと、お約束の値段の3倍になりますが、結構です。遅くなりましたので、郵送費も私の方で負担いたします」と。
 届いた作品が、写真のものである。縦29cm、横52cm。そして波打つ模様。私にとって、とても思い出の深い、自然の大地の温もりと息吹きに抱かれた作品と出会うことができたのである。

肌色の備前焼花瓶

 土の色が備前焼であると思っていた私にとって、この花瓶を始めて見た時は、とても驚いた。素人であるから、正確かどうかは分からないが、竹の筒に入れて焼くとこうなるらしい。窯の火の強さから、炭になった竹が守ったのかもしれない。瀬戸の「しの焼」を思い出したが、釉薬も色合いの違い、むしろ自然な創作になっていると思う。
 あえて言うなら、化粧のしない人肌。土色の備前には、生命を生み出す力が秘められているとしたら、この花瓶には、熱い血が流れているようだ。そして竹が灰になってもそれを守り、生み出し、そして花瓶が優しい輝きを放っている。
 作者は、黒田儀男氏である。