2003年09月の投稿

思い出記2003年度(旅日記)-6

松江城

松江城は、宍道湖をのぞむ亀田山にあり、天守閣と石垣のみが残る城である。5層6階で、高さが約30メートル。景色が良いだけでなく、とても涼しい。私の好きな城の一つである。

松江城
城から見る宍戸湖

松江城堀川めぐり

 飛行機の時間まで約5時間。2度目の松江城に登る前に、お薦めの観光スポットを教えていただいた。松江城堀川めぐりである。宍道湖に伝わる川もあるが、これはあくまで松江城を囲む堀川を、船が約45分かけてまわる。お堀であるので、松江城が見えるスポットは限られている。しかしいたるところに橋があり、また横を走る道には、武家屋敷、小泉八雲の旧居等の名所が見える。なかでも私が気にいったのは、橋の数々。橋の下くぐりの旅でもある。数カ所では、船の屋根が低くなり、乗客も頭を低くする。また船が橋桁を擦りながら進む所もある。その橋の上には、車が走り、人が歩く。松江の文化を下から見るようで、とても楽しい。観光客シーズンには、15分ごとに船が出る。水の涼しさと、堀の高さ、橋の美しさ等を楽しむことができる。

下から見る雲と、上から見る雲は違う。下から見るより近いからかもしれないがさまざまな雲に出会う。出雲から東京に向かう飛行機から見えた雲のじゅうたん? のような雲を横切って着陸するには、大きな揺れを覚悟しなければならないのだが、離れて見ると、なかなか居心地の良いじゅうたんである。7月中旬。

雲の上の夕焼け

大分は晴天であったが、関東は大雨が降っているという情報が届いた。このような天候は、飛行機がとても揺れる。覚悟を決めて飛行機の乗る。
 外を見ていると、雲が地上を覆っている。確かに、雲の下は雨だろう。雨雲を横切る時は、パイロットを信頼し、覚悟する。
 「しばらくしたら、降下を始める」とのアナウンスがあった頃だっただろう。横に夕日が輝いていた。思わずカメラを取り出し写したが、雲がなければみられない風景。これも自然がつくり出すメッセージである。

宮崎の自然

思い出記2003年度(旅日記)-5

函館から津軽海峡を越えて見える津軽

函館の地に始めて来て、驚いたことの一つは、晴れている時には津軽海峡を通して、津軽が見えること。北海道の住民から、時々本州を「本土」と聞く。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」という歌は、多くの思い出を「本土」に置いて、新たな旅に出る歌だった気がする。
 津軽海峡は、人生において越えなけれならない海峡だとするならば、私は冬の荒波の海峡ではなく、晴れた見晴しの良い時に渡りたい。このような天気の時に。

朝市はあくまで一部-函館の街並み

宍道湖の夕焼け

日没と、夕日と、夕焼けがどれほど違うものか、今まで気がつかなかった。東京の空には、日没はあっても夕焼けはない。青空を濁らす雲はあっても、青空の中に湧きいでる入道雲もない。あるのは、その時を刻む日没と、生活の始まる日の出である。
 昨日まで、強い雨であった松江で、夕焼けが見えるかどうかは不安であった。私にとって、松江が生活をする場でないため、もし有名な夕焼けを見る機会を逸したなら、もしかしたら数年間待たなければならないかもしれない。
 そんな不安を背負って、研修が終わった夕方、宍道湖の県立美術館に来て、岸を歩いた。県立美術館は、冬を除いて、日が沈んだ30分後に閉館するという、内部のすぐれた作品の他に、自然の美しさも作品に取り入れようとする、意欲的な美術館である。
 夕焼けは、7時前から始まり、7時30分になった終わる。空がほんのり赤くなり、そして太陽がその輝きを誇るのが7時まで。その後は、雲と空を焦がして、夕焼けが始まる。この美しさは、見たものしか分からない。雲が焼け、空が焼け、見ている者の心が焼ける。まわりの空は、ある所が赤く、そして水色の海に光が写し出されるように、整然と夕焼けを見つめる。

日が沈んだ後でも、赤い残光が残り、次第に暗闇が宍道湖を支配すると、対岸の温泉街の光が写し出される。

夕焼けとは、太陽の熱い光とともに、雲が焼け、空が焼け、見ている者の心が焼けること。そして春と秋は湖の中に日が沈むとのことであるが、山に沈む夕焼けの美しさで、十分すぎる程満足である。宍道湖の夕焼けは、決して私たちを不満にさせない。天候が許せば。

県立美術館内にあるレストラン

は、ほんとうに眺めも良く、お茶やビールをのみながら、また食事をしながら、宍道湖の美しさ、夕焼け、対岸の夜景を見ることができる。
 そして料理もおいしく、値段も手頃で、またサービスも良い。通常は美術館終了後9時頃まで食事がとれるようだが、夕焼け後、お客さんがいないと、店を閉めるとのこと。なかなか落ち着いた良いレストランである。

思い出記2003年度(旅日記)-4

伝統を守る津和野

 津和野を訪問する機会をいただいた。まず、山を下る車道から、赤い鳥居が見え、そしてはるか先の山の頂きにある津和野神社には、幾重にも鳥居が並んでいた。荘厳な雰囲気がただよう街を予感した。
 確かに建物は古く、よく整備されていた。そして伝統的な日本菓子や紙細工は、良き時代を写し出す。また鷺舞いの銅像は、川のそばにあり、まさに水に親しむ踊りを表している。

 車をとめ、石畳を歩いていくと、古い建物の役場があった。建築上、クーラーを使えないそうであるが、暑さを紛らわすようにまき水をして、そして風流を醸し出している京都の面影がある。いや、その姿は、西の都とでも言うべきか。

津和野町役場

 酒造りの店、味噌造りの店、和菓子屋等々、なかなか風情がある。そして気がついたことは、鷺舞いの銅像の方から歩いた方が絶対に風情があると言うこと。そのまま役場、教会を横に過ぎて歩く方が、鉄筋のビルも目立たず、私は好きな通りである。

 たまたま、津和野駅を通った時に、蒸気機関車を見た。山口まで行くそうである。木々に囲まれた山を登っていく蒸気機関車を、人々は煙を追いながら見ているそうだ。私も実際に見て、逆境に立ち向かうその姿を連想し、明日から歩もうとする心を強められた。
 ゆっくり時間をかけて、時にはお茶をたしなみながら過ごすには、もってこいの特徴のある街である。

乙女坂

津和野には、乙女坂と言う有名な場所がある。明治維新に長崎で多くの隠れキリシタンが発見され、その中から、何十人ものキリシタンが津和野に連れて来られたそうである。津和野はそもそも優秀な神道の学者が生まれたところ。そして歴史もある。キリシタンから離れるかどうかのきつい取り調べと、厳しい決断を迫られたとのこと。そして、転ばなかった者を受刑者として厳しい罰に処した。あるキリシタンが、狭いおりに入れられ、身動きできない状態に置かれたが、彼の言った言葉は、「私はまったく辛くない。なぜなら、マリア様がいつも来て下さるから」。それが乙女坂の由来だと言う。

 乙女坂を登って行きながら、その路に生えているコケを見た。私自身が足をけがしていたので、何とか登れはしたが、正直無事に降りられるか不安だった。お連れくださった小山さんが、「大丈夫ですよ。路は小石が出ており、滑りにくくなっていますから」と言って下さったが、不安だった。そして今にして思う。私の不安は、これだけの強い信仰を私自身が持ち合わせているか。
 日本も、西欧も、宗教に対しては虐殺の歴史を背負っている。今、私自身が、日本に住むものとして忘れていけないことの一つは、虐殺の歴史である。

 津和野にはカトリック教会がある。神道の強い地域において、その十字架が輝いてい た。そこには、津和野のふところの広さと、歴史の重さがある。また来よう。

それぞれの雲

 飛行機は、退屈だと言う人が少なくない。ただ、時間が短縮されるので、退屈な時間に耐えられるそうだ。しかし、私は、自分で仕事をしながら、また本を見ながら、時々外を見て、驚くことがたびたびある。雲一つとっても、様々な姿が写し出されるからである。
 一つは、東京から宮崎までの空路で見た、湧き水のような雲、もう一つは、那覇空港から関空に向かう飛行機から見たあられのような雲。自分としては、それぞれにおもしろい。

(2003年7月初旬)

宮崎空港

宮崎空港では、いつも工夫をこらした催しをしている。そしてそれが、とても印象的である。今回は、陶器である。前回名刺をもらって、訪ねたところもあり、何人かの作者の顔が浮かんだ。宮崎空港は?の空港に比べて、はっきりと公共の場と言う意識を持っている。そもそも公共の場を英語に直すと「パブリック」。そして元をたどれば、皆が集う「パブ」である。御覧あれ。

沖縄の熱さと美しさ

 人材研修センター・福祉人材センターの全国研修会が沖縄で行われた。早朝家を出て、9時発の飛行機にのり、11時30分に沖縄に着いた。そして、まずその暑さに圧倒される。確か私が初めて沖縄に来させていただいたのは、10年程前の12月。福祉大会があり、約2~3000人の方々を前に話させていただいた。その時は、東京が寒かったので、コートとジャケット、それにチョッキも着ていた。私は思わず、コートとチョッキを鞄に隠したことを思い出す。ほとんどの人が、まだ半そでのシャツを着ていた。
 今回で何度目になるだろうか。でも覚悟はしていたが、その思いをはるかに超える熱さ。そして何より、日射しが肌をさす。県民の方は、昼間は日陰で静かにしているとのこと。炎天下に海辺で過ごす「本土の人は、変わり者」という声が聞こえそうである。
 あいにく、きれいな海を見に行く時間はなかった。しかし、飛行機から見る海の水の色は、十分その美しさを堪能させてくれる。いつか、気温が落ち着いたら、海を眺めて過ごしたい。息子たちは、もう一緒に行く気持ちをこれっぽっちも持っていないから、誰を付いて来てくれるかわかならいけど、水遊びをさせてやりたいと思った。
2003年7月

思い出記2003年度(旅日記)-3

倉吉市の「白壁土蔵群」

 鳥取県市町村社会福祉協議会の講演で、倉吉市に招かれた。鳥取空港から車で約1時間ぐらいのところに倉吉市がある。講演が終わり、飛行機まで数時間あったので、時間をいただき、タクシーを頼んで街並を探索する。全体的に落ち着いた雰囲気の市であるが、特に「白壁土蔵群」は伝統文化の継承を念頭に、古くからの建物をそのままにしたような雰囲気がただよう。

 またトイレの美しさは、市のテーマであると、私がもっていた旅行案内には出ていたが、タクシーの運転手も首をかしげた。

 それでもタクシーを予約して20~30分の市内名所見学は、3000円ぐらいの出費になったが、川の広さと橋の美しさ、自然に囲まれた情緒ある街並と、思い出として残った時間であった。
2003年6月

踊りは文化である

徳島の阿波踊りに匹敵する高知の祭りはよさこい踊りであろう。
 地域福祉学会の全国大会が開催され、高知県民のおもてなしとして、よさこい踊りをたびたび見せていただいた。伝統的なものから現代風のものまで、そして高齢者から幼児まで、すばらしいリズムで踊る。踊る習慣が染み付いた県民性なのかもしれない。踊りは文化である。

2003年6月

六日市町の温泉

2つの講演が終わり、温泉に連れていっていただいた。とても広いので、建物の由来をお聞きしたら、駅として準備していたが、廃線になったので、再度手を入れて町民向けの温泉にしたとのこと。入浴料は300円だったと思う。でも、全体的に赤字とのこと。私は思う。適正な経営がなされ、かつ町民の福利厚生となったいるところが、赤字だとしたら廃止すべきか。そのマイナスの影響の方が大きいのではないだろうか。
 土曜日にとても多くの家族連れが来ており、笑い声が絶えないこの場所こそ、まさにパブリック。公共の場である。

六日市の夕焼け

六日市は、有名なホタルの場所でもある。夜8時頃、川に行くと、ホタルが舞っていた。そしてその数が頂点に達した時、ホタルの川のようになり、ホタルの光で周りが明るくなるそうだ。残念ながら、今回はそこまでのホタルは現れなかった。しかし、何十年も前に東京にある小石川で、ホタルを見た覚えがあるが、それよりも、範囲が広く、そして優雅であった。残念ながら、何枚も撮った写真に写っているホタルは2匹だけ。ホタルが住めるこの自然の宝庫に、また来たいと思った。

益田海岸

萩・石見空港から東京に帰る予定であった。空港に向かう車の中で、「是非美しい海を見ていただきたい」という御配慮をいただき、益田市の日本海に面した海岸を御案内いただく。そして、私の期待は驚きに変わる。私の海岸とは、多くが大平洋に面した海岸である。そして交通の便は良いが、残念ながら海の水はきれいとは言えず、かつ人の人数に圧倒され、駐車場の確保に奔走し、宿泊するホテルの値段の高さにため息がもれる。しかし、これが当たり前の生活である。唯一、子どもの笑顔が救いであり、そのために高い出費を覚悟する。
 この海岸を見て、どうしたら、都市部の人も、ゆっくりと自然を堪能できるのか考えてしまう。それだけの価値のある海。そして泳げる海岸である。日本全体の生活の質に関わる構造改革を考えられるならば、これは列島創造論である。

萩・石見空港

 羽田空港から広島空港経由で島根県六日市に入り、そして翌日の夕方、萩・石見空港から羽田空港に飛び立つ予定であった。萩・石見空港は、羽田→石見→伊丹空港→石見→羽田という便があるのみとのこと。でも、整然と空港の周りは整備され、憩いの場としても優れている。空港ができた経緯は知らない。しかし、これは、大きな可能性を秘めた社会資源に思えた。それを活用できるアイデアと人が生まれるかが、左右するだろう。来て本当に良かった。神秘的な風景が記憶の中にいつまでも残るであろう。

思い出記2003年度(旅日記)-2

小泉八雲の家

 熊本市内でラーメン店を探していると、小泉八雲が生活していた家にたどり着いた。ビルに囲まれた公園にある。静寂さと、背中にそっと吹きつけるような冷たい風を感じた。

車窓から

 日没は、明日への希望である。三重県の経営セミナーで話させていただき、帰りの新幹線から見えた夕日は、社会福祉施設の将来とともに、いやそれ以上に、利用者の生活が向上し、利用者一人ひとりの喜びにつながるならば、私にとってもっとも大きな役割を担えたことになる。この夕日は、ねぎらいか、もしくは厳しい励ましか、今は分からない。ただ、私に分かっていることは、明日も歩み続けること。

雲のネッカチーフ

 高知に向かう飛行機から、富士山を見ると、その頂きに雲がかかっていた。富士山は、その時々に、姿を変える。青い空に囲まれた晴天の富士山。厚い雲に包まれた恥じらいの富士山。そして夕日に照らされた赤光の富士山。それぞれに美しい。梅雨入りも近づく6月の晴天の今日、富士山は、雲のネッカチーフをつけていた。

「日本三大がっかり」

 高知に立ち寄った旅人なので、高知ではなにが一般的なのか、生活文化なのかわからない。ただ気がついたことは、「はりまや橋」は、どの地図にも載っている、中心的場所であること。そして乗ったタクシーの運転手のほとんどが、「はりやま橋」の話をすると、「日本三大がっかり」の一つだと付け加える。第1は「はりまや橋」、第2は「札幌の時計台」、第3は「沖縄の○○」だそうだ。私が直接行った場所ではなかったので、沖縄の名前は思い出さない。確かに、20年近く前に高知に来て、「はりまや橋」を見に行った時には、その存在を通り過ぎて知った。でも、今は人工的でも川が流れ、なかなかの風情。そしてその近くに、たくさんのおいしい店がある。その中心が「はりまや橋」である。そして、「はりまや橋」を渡って走ってきた路面電車だと思うが、その電車の行き先の掲示を見て驚いた。その行き先は、「ごめん」。

高知空港の夕日

 日本地域福祉学会全国大会が高知で行われた。理事会や特別部会での報告の責任を終え、帰りの飛行機に乗る時、夕日が目についた。とても穏やかな夕日、高知女子大学の先生方の大奮闘と学生の礼儀正しさ、もてなしの配慮を企画や運営のいたるところで感じていたことを思い出した。感謝である。

瀬谷の紫陽花

 講演の後、今回の報告者であり、町内会の会長である方に、紫陽花が群生している川辺に連れていっていただく。
 確かに様々な色の紫陽花が咲いていた。赤い紫陽花のためには、石灰が必要(アルカリ性の土を酸性にする)で、そうすると紫陽花が青くならずに、赤くなるとのこと。
 紫陽花の花言葉は、○○。地域福祉にふさわしいかもしれない。

2003年6月

思い出記2003年度(旅日記)-1

さまざまな景色をもつ庭園

午後の岡山県市郡町村社協事務局長会議での講演の前の少しの時間、岡山後楽園を散策した。岡山駅から歩いても20分ぐらいであろうか、街の中の庭園である。
 林、芝生、畑、池、川、小さな丘、茶室、能の舞台、そして丹頂鶴の住まい等がテーマごとに整然と、かつ自然につくられている。正門から入り歩くと、まもなく丹頂鶴がかわれている場所に着く。そしてその横には、桜の枝を屋根にした一本の道があった。静寂の中、桜の花の宴の跡のように、道肌が桃色に染まり、周りの緑のコケや草とのコントラストが美しい。そして、そこから少しもどり、光の注ぎ込む方に歩いていくと、視界が一気に開け、きれいな芝、ツツジに囲まれた丘、池と川が見え、道の先の樹木の奥に、岡山城がそびえ立つ。

いたるところにベンチが用意され、好きな場所を選んで、一人静かに景色を眺めることができた。そして1本の木でも、見るところによって、まったくイメージが異なる。

時間が少しおありであったら、是非行かれることをお勧めする。

岡山市内の銅像

今まで、岡山市には何度も来させて頂いた。来るたびに、趣が違ってきたように思う。そして、ゆっくり歩いたことはほとんどなく、仕事間際に着いて、終わるとすぐに帰ることも少なくなかった。
 今回は、講演までに数時間の余裕があったので、岡山後楽園にバスで行き、帰りは歩いて岡山駅まで行く。
 そしてふと気がついた。銅像が多いことに。街全体はわからないので、私が紹介する銅像は、ほんの一部だと思う。川添いにある交番の近くの銅像である。

岡山市の市電

聞くところによると、岡山市内の市電は、延長計画をもっているそうである。そして、廃止した電車を引き取り、その意味では全国区だと聞いた。

ペンションストリート

プレイゲンス先生の別荘開きの前日、近くのペンションに泊まった。4月末なので、高原の少し肌寒い朝、散歩していたら、とてもたくさんの花に出会った。今までは、気がつかなった。花がこんなに、自然に、うつくしく、それぞれの個性を主張して咲いているとは。