2024年10月の投稿

青山学院大学相模原校舎 メッセージ 2024年10月18日

『最も小さい者』

「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ第29章40節)

<東日本大震災発災時>

2011年3月11日14時46分、学長室で事務長と打ち合わせをしていた私は、強い地震に見舞われました。何が起こったかわからず、つけたテレビには、津波に襲われる東北の日本海側の惨劇が繰り返し映されていました。また続く余震に呆然としていた自分が思い出されます。しかしたくさんの学生、教職員が大学に残っていることを知り、我に返り、その晩を過ごす場所、食事の対応を始めました。また、その夜、被害に遭った市町村に住む友人に携帯で連絡をとりましたが、一切通じませんでした。連絡が入ったのは、それから5日後で、「先生、生きているから大丈夫。被害は甚大で、復興はたいへんだと思います。でも、頑張っているから」という友人からの電話に、ひとまず生きていることがわかり、思わず電話口で「よかった、よかった」と言っていました。

<被災地支援>

私は、翌月、海外の支援を受けて、教会関係者と宮城県に入りました。宮城県、福島県を中心に訪問しましたが、あまりに被災地が大きく、一人ではすべての支援は無理ですので、私は、死者・行方不明者が約4000人に達し、住まいや働く場所、学校や道路や港等が大きな被害を受けた石巻の復興支援に入ることを決めました。ボランティアとして、社会福祉協議会で仕事をさせて頂き、活動計画の作成、被災者の生活支援、現地のボランティア活動支援等をバックアップしました。その支援は2020年3月まで続きました。なぜなら、支援してきた団体が年々撤退していき、それを見送る人の気持ちを私なりに理解し、また完全に復興していない現実を無視できなかったからです。

<当初の戸惑いの中から生まれた明日への希望>

震災直後からしばらくは、何をどこからしたら良いのかわからずに、被害の大きさに圧倒されて、市街地を歩いていると、ある看板を見つけました。そこには、「始めることから始めよう」と書かれていました。また、石巻市を流れる北上川の河口から遡ること4キロ上流にあった大川小学校があります。津波は川を遡り、橋に堰き止められて戻ってきた津波の両方に襲われ、全校児童108人中死者64人、行方不明10人が犠牲になりました。夏には向日葵が飾られていました。その向日葵の意味を、ある時、知りました。「ひとつぶの小さな種が、千つぶもの種になりました。 そのひとつぶひとつぶが、 ひとりひとりの子どもたちの、 思い出のように思えました。また夏が来たら会おうね。ずっとずっといっしょだよ。」『ひまわりをうえた八人お母さんと葉方丹』親は、亡くなった子どもたちのことを忘れません。今は、震災遺構として被災した当時のままの建物が残され、伝承館が建てられています。このように、震災で家族や友人、そして家や生活基盤を失った住民の思いの出会うたびに、その悲しみに私の胸も掻きむしられました。

しかし、石巻には、全国から、たくさんのボランティアや支援者が応援に駆けつけてきました。石巻専修大学のグランドには、たくさんのテントが張られていました。医師や看護師、ソーシャルワーカーは避難所や、地域住民の支援にあたりました。自衛隊により行方不明であった方の発見も増えてきましたし、業者等によって壊れた建物は徐々に撤去され、道や建物が整備されてきました。その中で、自分たちで、コミュニティを再建しようとする、明日への希望を灯す地域の活動も生まれてきました。

<なぜ、被災地に心が向いたのか>

率直に言って、いてもたってもいられなかったから。今まで当たり前に思っていた生活を自然の猛威によって突然奪われ、また人間として当然の機会である学び、成長、安定等の機会と可能性を奪われた方々がおられた。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ第29章40節)と書かれている方々に、私は『もっとも小さい者』の姿が重なったのです。そして、2、3ヶ月に数日現地で活動していましたが、今までの大切な絆を断ち切られ、悲嘆しておられる方々の存在を神が守ろうとその方のそばに立って私たちを招いておられると思いました。

<たくさんの学びがあった>

何度も石巻を訪問する中で、私は生きていくことの尊さ、その日々の歩みを学んできました。自らも被害を経験した住民やボランティアが、一人暮らしの方々が集まれる場を提供し、またCSC(コミュニティソーシャルワークコーディネーター=地域福祉コーディネーター)が配置され、当初の仮設支援に始まり、復興住宅支援、地域支援に関わりました。ちなみに、10数名いるCSCの半数は、県外から応募してきた方でした。。当事者が困難に直面して思わず後ろをふりかえった時に、このような悲しみに寄り添う方々が多数おられた。たとえ長い道のりでも、今を誠実に歩むこと、他者との絆を確認しながら、ひたすら今を生きていくことによって、明日が拓かれいくことに何度も出会いました。支援する者だと思って活動を始めた私ですが、石巻での支援を通して多くの方々に教えられたのでした。

<最も小さい者は、私自身でもある>

今、どこに地震や大雨等による洪水が起きても不思議ではありません。そして、引きこもり等の関係性の危機、貧困という経済的危機等が深刻化し、私たちは厳しい生活環境にに直面しています。私は、今でも複数の行政計画や地域活動に関わっていますが、解決する手段が見つからない困難さを感じています。そして、倒れている「最も小さき者」に駆け寄って助け起こしたら、その人は私自身であったことに、何度も気が付かされます。最も小さい者は、自分自身であることを知る時、そこに共感が生まれるのです。だからこそ、共にもっている痛みの共感から始まる地域を描いていきたいと思います。

<それぞれが、生きる道、生きていく道を大切に>

私は、いくつもの行政、社会福祉協議会、社会福祉法人等と関わる中で、3つの重点課題を言っています。①自らの働きを問い直す、②地域・地域ケアのあるべき姿を描く、③協働した取り組みを目指すです。その呼びかけ応えて、たくさんの方々が取り組んで下さっています。感謝です。

私は、講演や会議において、キリスト教のことを決して申し上げません。一緒に困難な生活課題に直面する方々を支援していこうとする気持が一致しているからで、それで十分です。ただ、私の生き方として、この聖句が根底にあります。

皆さんは、これからどのような社会を築きたいですか。どのような生き方をしていかれますか。私は皆さんに期待したい。その答えを求めて、さまざまなことに出会う機会を大切にしてください。

一本の木を植えなかれば、砂漠の緑化は始まらない。

★以上は、当初予定していたメッセージの元原稿です。ただ、私は、参加者の表情を見ながら、アドリブや内容を多少変更して話しますので、このままお話ししたのではありません。

『実践者・開拓者であれ!信州の地域福祉の歩み』(2023年)

みなさん

お元気ですか。

私も、年齢に相応しく元気にしています。そして、私は幸せ者で、今まで一緒に歩んできたたくさんの卒業生、友人がおります。その方々のそれぞれの思い、働きが今の福祉の取り組みを築き、さらに未来を切り開いていく原点になると確信しています。だから、今までの実践や実践者の思いを、歴史の中から掘り起こし、光を当てていきたいと思っています。

最近は、今まで一緒に地域福祉等の向上に挑戦してきた仲間と一緒に『人生100 年時代の地域ケアシステム―三鷹市の地域ケア実践の検証を通して』NPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構(2019年)、『練馬パワーアップカレッジの歩み』(2019年)、『実践者・開拓者であれ!信州の地域福祉の歩み』(2023年)として、活動の思いと実績をまとめました。

今回、NHKの元記者であり、福祉や市民活動にとても詳しい町永さんが、『信州の歩み』のコメントをしてくださいました。町永さんの書評は、本を一緒に企画し、執筆した仲間にとっても、励ましになります。

皆さんも、よろしければ、お読みください。

長野の方々の熱い思いが詰まっています。

ちなみに、町永さんは私を評価して下さいましたが、私は呼びかけとバックアップしかしていません。主人公は、地域福祉を推進した当事者の方々です。町永さんが書いてくださった私の評価は、私にとって、過分なものと思っています。

どなたにも、今を自分なりに誠実に生きることによって、それが接木となって、明日が開らかれていくことに感動する時が必ず来ると思います。今の私のように。

PS.信州の歩みを企画し、自らも歩みを執筆し、本として完成させた仲間の一人が、この夏、お亡くなりになられました。素晴らしいソーシャルワーカーでした。本当に悲しいですが、彼女の思いは、必ずや後継者に受け継がれていくと思います。