2012年02月の投稿

熊本ライトハウスを訪問して

2011年12月、熊本市にある、熊本ライトハウス(社会福祉法人慈愛園が経営する盲ろうあ児施設)と熊本ライトハウスのぞみホーム(知的障害者更生施設)を訪問することができた。個々の利用者の生活を大切にするハード、ソフト面の配慮を目のあたりにして、私は、北欧の福祉国家で見学したホーム・ハウスを思い出した。揺るがない信念が日常生活に築かれ、また国の政策の基軸となっていた。

 日本においては、福祉予算が切り詰められる時代にあって、ハウス・ホームで生活なさっておられる方々が、どのような状態にあっても、一人の人間として守られ、大切にされるという福祉の使命を、何とかして継続していこうとするライトハウスの意気込み、使命感に、私は、感動したのである。

 室内は広々としており、天井も高い。それぞれの部屋には、生活する人の個性が見られる。視覚に障害があっても、それぞれの方々は、広い生活空間を体験し、木の温もりと響きを実感し、そこで働く職員の心を通して生きていくことの温もりを味わっておられると、私は感じた。ある利用者のカラフルなデザインの布団カバーは、家族の思いが込められていた。

 ライトハウスルーテル教会に関係する社会福祉施設である。これからも、伝統ある社会福祉法人慈愛園の一つの有力なハウスとして、輝き続けていただきたい。ライトハウスには、目指すことができる、立ち戻ることができる、ルーテルのミッションがあるのだから。ご案内して下さった施設長山口初子氏に心より感謝したい。

 以下、るうてる法人会連合が出版した『未来を愛する 希望を生きる―共拓型社会の創造をめざして』(人間と歴史社)の文章を紹介する。

熊本ライトハウスミッション

  「わたしは、神がそのみ業を演じられる偉大な舞台の袖に立っておられると、

しばしば感じたものです。愛の種が、荒れて耕されていない土にまかれました。

わたしたちはそれに水をそそぎ、神が育ててくださいました。そして何という

収穫を、神はこの小さな園に働く人々にお与えくださったのでしょう。

この41年間、わたしがしたことではなく、わたしの主エスが世の終わりまで、

わたしと共にいるとのお約束をお守りくださったことを誇りたいのであります。」

※昭和37年(1962)モード・パウラス先生の慈愛園辞任の辞

社会福祉事業に従事する私どもは、パウラス先生の神への愛と奉仕の業に倣いまた、慈愛園の定款にも明記されております「イエスキリストによって示された、愛と奉仕の精神に基づき多様化な福祉サービスがその利用者の意向を尊重して総合的に提供されるよう創意工夫することにより」を目指し、クリスチャンワーカーとしての使命感を常に覚えたいものです。

【 まかれた種 】

 大正9年(1920) 熊本で開かれた日本福音ルーテル教会第1回総会において、「社会事業創始の件」について熊本に施設を設立する決議が行なわれ、その委員長にモードパウラス先生が就任されました。就任後パウラス先生をリーダーとした仲間の愛と奉仕の業は、子どもやお年寄りのお世話をする「慈愛園」を創設し社会福祉分野での事業の取り組みは広範にわたりましたが、その中で視力に障害を有する子どもたちへの処遇が課題となっていました。

 その課題に取り組むため理事長のパウラス先生を始め潮谷総一郎園長、視力障害の石松量蔵神水教会牧師と九州女学院英語教師のマリアン・パッツ先生が加わり4名の障害児福祉サービス研究会が発足し、昭和24年(1949)日本福音ルーテル教会第26回総会において障害児施設の設立が決議されました。

【 めばえ 】

慈愛園から2キロほど離れた三菱重工所有の家屋を買収し、理事会はライトハウス設立を決議し、「ライトハウス」の命名者潮谷総一郎先生が初代園長に就任。

昭和28年7月1日(1953)県下唯一の盲ろうあ児施設 熊本ライトハウスの設置が定員40名で認可されました。

【 あゆみ 】

  昭和31年(1956)7月には潮谷総一郎先生の尽力により、慈愛園は全国に先駆けて熊本目の銀行も発足しました。昭和33年(1958)門脇トミ2代目園長は、慈悲に満ち誠実で祈りの人でありまた、目や耳に障害を持った子どもたちに対して使命感に燃え、施設運営の基盤作りに懸命に取り組まれました。

子どもたちが障害を有しているため社会経験に乏しくなることから、社会性と心身の鍛錬を目的に創立3年目の昭和30年からボーイスカウト活動が開始され、日本最初の盲児・ろう児によるボーイスカウト熊本14団が誕生し、その後ガールスカウトも結成され日本アグーナリーの基礎ともなりました。

これまで子どもたちは与えられた建物で大集団の生活を余儀なくされ、盲学校や聾学校に通っていましたが、昭和40年(1965)7棟の新らしいホームを頂き家庭的な雰囲気の中で生活指導や役割分担と責任など、個別の人間形成に大いに役立ち福祉施設の小舎制の先駆けともなり、クリスマスプレゼントとして児童・職員ともども嬉しい思い出です。

 昭和46年(1971) 山口拓爾3代目園長は実践行動の人でありました。入所児童の人格形成はもとより広くボランテイア活動をとおして障害福祉の分野における貢献は、施設内外を問わず全国に及び地域の夜警や清掃奉仕活動も30年を超える活動が続けられました。

その後入所児童数も昭和48年(1973)94名をピークに減少していきました。

【 成人棟の誕生 】

 少子化は入所児童も例外ではなく、視力や聴力の単一障害児よりも知的な発達の遅れや自閉的傾向など、いくつかの障害を併せ持ったいわゆる重複障害児の存在が注目されだし、平成3年(1991)年には18歳を超えた入所者19名の中に11名の重複障害者が20歳~25歳という現状でありましたので、その子たちの生活の場を求めざるを得ず成人施設の設置という課題となり、保護者・職員をはじめ関係者の懸命な働きにより平成5年(1993)知的障害者更生施設(盲重複障害者施設)熊本ライトハウスのぞみホームとして定員30名で開設され、悲願でありました児童施設年齢超過児の解消として関係者の大きな喜びとなりました。また、地域への社会貢献のひとつに平成元年(1989)からは市社会福祉協議会からの委託事業として、地域老人の給食サービスふれあいランチとして約100食を月2回提供する事業も現在まで続いております。

障害を有している子も普通の子と同じように、教育や福祉のサービスを受けその子らしく生きていかれる社会を構築することが求められ福祉施設の存在はそのような使命を託されているのです。心身の状況により、自己主張や自己の権利を表現できない社会的に弱い立場の人々に対して、イエス様が誰にでも分け隔てなく、殊に重荷を負っている人々にイエス様自から歩み寄り手を差し伸べ導かれていることは、社会福祉事業従事者のミッションとして忘れてはならないものです。

 最後に、80数年前にパウラス先生を日本に送り出されたアメリカのルーテル教会の継続された祈りと献げものに感服し、感謝申し上げますとともにこれから私どももそのスピリットを継承し、日本福音ルーテル教会と近隣教会のたゆまぬお支えによりいま福祉制度の大きな転換期にも各自与えられた場において、クリスチャンワーカーとして愛と奉仕の業に励んで参りたいと願っております。

天空から見る雲海

12月の中旬、早朝の飛行機で熊本に向かっていました。当日の天候は悪く、離陸の際に揺れましたが、不安定な大気を過ぎると、安定した飛行になりました。

 私は、何度も飛行機に乗っていますが、窓からの景色は決して単調ではありません。ただ何気なく外を見ていた私に、見えた雲の姿。それは、山々の間をおおう雲の姿、すなわち雲海でした。雲が、穏やかな海のように、静かに、やさしく地に広がる。高い山も、雲海の上では、丘のようです。私は、しばらく、手前の海と同じように広がる平坦な空間を見つめていました。

 自然の営みを私たちは支配することはできません。自然現象を分析することはできますが、何故今、雲海が出るのか、私が雲海を見ることができたのか、そのことを問うことは意味がないし、不可能だと思っています。意味があるならば、それは、私たちが自然に抱かれていることを知ること。自然の恵みに活かされ、自然の猛威に戸惑う。またある時は自然の美しさに感動し、ある時は自然の厳しさに圧倒される。その繰り返しが、人間の歴史であったことを確認することです。自然に抱かれ、自然に感謝し、自然の恵みを分かち合い、生きていくことの大切さを再確認することではないでしょうか。

 雲海の下で、私は生きています。雲海は、しばらくして消えていくでしょう。その後、太陽の光が降り注ぐでしょう。だれもが同じように、自然の営みの中に生きています。自然の前に、私たちは平等なのです。ならば、この日本で、自然の災害にあった方々と共に、自然の恵みを分かち合い、助け合い、生きていくことも平等でありたい。

 雲海を見て、私はその思いを強くしました。

                            2012年1月3日