2024年07月の投稿

お二人の恩師にお会いできて、心より感謝いたしました。

前田ケイ先生、阿部志郎先生の存在は、私の宝であり、力の源です。

『狛江市第1次再犯防止推進計画』

7月12日に北多摩南部ブロック社協会長等役員総会があり、「「再犯防止と生きづらさ~社協としてできること~」をテーマに、小林 良子 氏(公益社団法人東京社会福祉士会立ち直りを支える地域支援ネットワークづくり事業部副部長)の講演をお聞きしました。そして、所属社協の狛江市社協の方から、『狛江市第1次再犯防止推進計画』のことをお聞きしました。まだ分析をしていませんが、資料としてお伝えします。

監督・撮影信友直子『ぼけますから、よろしくお願いいたします』

宮城県民生委員児童委員協議会代表者研修の2日目の最初の講演者は、『ぼけますから、よろしくお願いいたします』という作品をの監督・撮影を行なった信友直子氏であった。衝撃的なテーマであり、私は、帰宅後、すぐにDVDを注文した。

以下、映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』の紹介文を引用します。

広島県呉市。この街で生まれ育った「私」(監督・信友直子)は、ドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター。18歳で大学進学のために上京して以来、40年近く東京暮らしを続けている。結婚もせず仕事に没頭するひとり娘を、両親は遠くから静かに見守っている。
 そんな「私」に45歳の時、乳がんが見つかる。めそめそしてばかりの娘を、ユーモアたっぷりの愛情で支える母。母の助けで人生最大の危機を乗り越えた「私」は、父と母の記録を撮り始める。だが、ファインダーを通し、「私」は少しずつ母の変化に気づき始めた…
 病気に直面し苦悩する母。95歳で初めてリンゴの皮をむく父。仕事を捨て実家に帰る決心がつかず揺れる「私」に父は言う。「(介護は)わしがやる。あんたはあんたの仕事をせい」。そして「私」は、両親の記録を撮ることが自分の使命だと思い始め−−−
 娘である「私」の視点から、認知症の患者を抱えた家族の内側を丹念に描いたドキュメンタリー。2016年9月にフジテレビ/関西テレビ「Mr.サンデー」で2週にわたり特集され、大反響を呼んだ。その後、継続取材を行い、2017年10月にBSフジで放送されると、視聴者から再放送の希望が殺到。本作は、その番組をもとに、追加取材と再編集を行った完全版である。娘として手をさしのべつつも、制作者としてのまなざしを愛する両親にまっすぐに向けた意欲作。

また、2作目には、副題に〜おかえりお母さん〜とかかれていた。

映画の紹介を引用します。

東京で働くひとり娘の「私」(=信友監督)は、広島・呉市に暮らす90代の両親を、1作目の完成後も撮り続けた。18年、父は家事全般を取り仕切り、日々奮闘しているが、母の認知症はさらに進行。ついに脳梗塞を発症し、入院生活が始まる。母に面会するため、外出時には手押し車が欠かせない父は毎日1時間かけて足を運び、励まし続け、「いつか母が帰ってくるときのために」と、98歳にして筋トレを始める。その後、一時は歩けるまでに回復した母だったが、新たな脳梗塞が見つかり、病状は深刻さを極めていく。そんななか、20年3月に新型コロナウイスが流行し、病院の面会すら困難な状況が訪れる。

予告編は、穏やかなピアノの曲が流れるなか、愛らしい笑顔で話す父の姿から始まり、「認知症になった母を90代の父が支え、ふたりで暮らす物語。――それには、こんな続きがありました」と、信友監督の語りが見る者を“物語”へと誘う。入院することになった母が、見舞いに来た父にかける「手がかかるようになってごめんね」という言葉。病床の母に、父が伝える「ありがとね。わしも、良い女房をもらったと思っています」という感謝。セリフではない、自然と発せられた何気ない言葉の端々から、お互いを気遣う優しさと愛がにじみ出ている。

場面写真は、林檎を持ってポーズをとる母や、筋トレをする父など、夫婦の人柄が伝わるものをセレクト。現実を冷静にとらえようとするドキュメンタリー監督としての立場と、実の娘であるというふたつの立場で葛藤しながら撮影を続けた信友監督が、「人生の最終章は悲しいだけではありません。お互いを思いやり、かわす笑顔もありました」と語る通り、それぞれの写真から、ふたりの楽しい日々と、深い絆が伝わってくる。

高齢期は、喪失の時代と言われます。具体的に喪失とは、身体的機能の喪失、友人や親族の喪失、役割の喪失、そして死の危機を言います。誰もが直面するかもしれない認知症、加齢より増し加わる困難な状況。72歳の自分の、これから始まる本格的な老いの状況を考えると、高齢者福祉の専門職と自負していた私も、正直不安になる。

私がこの映画を見て思った感想を述べたい。

老夫婦の生きていく姿を見て、率直に感動しました。妻が認知症にかかり、進行する中で、今までできていたことができなくなっている妻を支える夫。夫自体も高齢のため、聞く力は衰え、腰は曲がり、様々な困難に直面する。さらに妻が脳梗塞を発症し、入院となりました。しかも、症状が改善するする前に、再度の脳梗塞。徐々に会話も難しくなります。しかし、妻の回復を願い、家庭でケアすることを目指す夫。夫婦が長年培った労りの気持ち、愛情が自然な形で表され、私は、当事者の生き方に引き込まれました。

 どうして、それが可能であったのでしょうか。私は、娘の信友氏の存在が大きかったと思います。東京での仕事と親がいる呉市を行き来し、どこまで自分の介護を悩む日々。そのことを知って、自分たちで生活しようとする両親。映画ができて公開される時に、観客の方々に、娘のことをお願いする老親の姿を見て、信友さんと親の絆を見ました。そして、介護の節目で、いつも信友さんが登場して撮影している。ご両親は決して孤立することなく、地域の医療機関、商店街等からもバックアップされている。また、娘が撮影者・監督だから、家の中をすべて見せたし、生活の状況を明らかにしたのでは。

 介護問題は、本人及び介護者の孤立問題だと、改めて確認できた映画であった。

 また、地域ケアに長年携わってきた者として、いつも教訓にしていることは、利用者に介護を受けることに罪の意識を持たせないこと。お母さんは、脳梗塞の病の床にあって、お父さんに迷惑をかけてしまうことを詫びた。また、何もしてあげられない自分を責めた。この状態に置かれた方々に対して、専門職が一緒にいること、悩むことなく、その方々の足になり、手になって、日々の生活を安心して送って頂くために私たちがいることを、どのように理解して頂くか、担い手の真価が問われることになるのである。

2024年宮城県民生委員児童委員協議会会長研修会

2024年7月16日・17日に、同研修会が開催されました。私は、たびたび会長研修にお招きされてきた。ふりかえって、2011年3月11日の前も、また東日本大震災以降はさらに、宮城県内の民生委員児童委員協議会、社会福祉協議会、市町村との私の関わりは続いてきました。震災当時の大混乱の時にあって、絶望の底から這い上がってこられた方々の姿を、2020年3月に、石巻市社協と石巻市の地域福祉アドバイザーをやめるまで、10年の間、私は見てきました。ですので、その行動に、心から敬意を表し、たくさんのことを教えていただきましたことを改めてお礼を申し上げたいと思います。私の今は、この経験によって築かれています。

特に今回は、「災害に備える民生委員児童委員活動について」というテーマを与えられ、私は何をお伝えすることができるか、大いに迷いました。宮城県内の多くの被災地の民生委員児童委員の方々が来られており、軽率な発言は、参加者に失礼になるからです。そこで、私は、10年近く関わった経験をふりかえり、実際、それぞれの地域で体験したことをまとめることにしました。まだ、その評価を頂いてはいません。荒い経験でしかないかもしれませんが、勇気をもって、お示ししようと思いました。

https://www.dropbox.com/scl/fi/x2fgp4x6x0kuoykrvm8jd/2024.pptx?rlkey=k1zwhit0wkwg1g0ysbwafxdh4&dl=0

ご出席頂いた方々には、今後とも、ご指導賜りますことを、お願いいたします。

私の小さな挑戦

私の家は、小学生が通う道にあります。聞こえてくる子どもたちの声が、1日の始まりを告げる合図のようです。

その日は、久しぶりに晴れて、すがすがしい朝でした。私は、ほとんどの子どもたちが通り過ぎた時間に、プラスチックゴミをもって、外に出ました。私の家はT字路の右にあり、写真の道は、右の道です。子どもたちは、その道をしばらく歩いて左に曲がり、しばらく歩いて道路を渡り、小学校に入っていきます。

ところが、ほぼ小学生が通り過ぎた時間に、低学年であろう男の子がゆっくりと戻ってきました。足下が少しおぼつかなかったので、私は心配して見ていますと、案の上、躓いて転び、顔や手をぶつけたようでした。私は思わず掛けより、抱き起こして土を落としていると、消え入りそうな声で、「忘れ物をして、家に取りに行きたいの」と話してくれました。子どもは、低学年のA君でした。

すぐに妻を呼び、A君の手についた血を濡れたティッシュで拭き、出てきた鼻血の止血をしました。大声で泣くことはしませんでしたが、涙が何度も溢れてきました。少し落ち着いてきましたので、一緒に家に行こうかと問いかけたところ、頷いたと思ったので、何度も確認しながら、歩いて行きました。心配で、ほっておけないという気持が私には強くありました。

私はお母さんに会って事情を説明しました。A君は安心したのでしょうか。大きな声で泣きながら、帰ってきた理由を告げている様子が外にも聞こえてきました。また、私は、小学校の担当が心配するいけないので電話し、A君のこの間の事情を説明し、私の名前と住所も告げました。

私は、一人で戻ってきて転び、痛みと不安で体を震わせていたA君の姿が忘れられません。いろんな思いが心の中を駆け巡ります。

私は、多くの子どもが直面する問題を知っています。ただ、繰り返しになりますが、体を震わせていたA君のことが心に残っています。確かに、誰もが経験する成長の出来事かもしれません。しかし、誰もがそのような経験をして、育っていくなら、一人で歩くことができるまで、あくまで限界があるとしても、少しはできることをしてあげたい。例えば、一週間に1回、子どもが通り過ぎる間中の午前7時40分から8時20分まで、自分の家の前に立って、子どもたちとおはようの挨拶をする。そんなことを考え続けていました。

そこで、私は、まず私が住む東部地域を担当する地域福祉コーディネーターに相談しました。そして、①地域における子どもの生活状況、②小学生の登下校の見守りをしている、例えば老人クラブ等の活動の有無、③子ども食堂や世代間交流等のボランティア活動の実態、④ゆるやかな見守り活動、顔の見える相談・お話相手、イベントの開催等を行う「ほのぼのネット」の活動、⑤支え合いの仕組みづくりをめざす諸団体・関係機関やボランティアと行政との「地域ケアネットワーク」の活動、⑥各学校に設置され、保護者や地域住民が、学校とビジョン(めざす子どもの姿)を共有し、協働しながら地域ぐるみで子どもたちの成長を支える「コミュニティ・スクール委員会」の取り組み、⑦駐在所のお巡りさんの取り組み等を調べて頂き、6月に2回打ち合わせをしました。その結果、7月より、月曜日の朝、午前7時40分から8時20分の間、家の近辺の掃除をしながら、子どもたちに声かけをすることにしました。

皆さんは、どう思いますか。じいさんの出番ではないかもしれません。しかし、見守りをしながら、子どもたちの成長に貢献したいというちょっとした思いが実現できる地域でありたいのです。もし、子どもたちに迷惑がかかったり、子どもたちが不愉快な気持になるようでしたら、すぐに撤退します。

人生100歳時代を賢く生きる

2024年7月6日(土曜日)、三鷹産業プラザ7階で、早稲田稲門会三鷹支部の総会があり、その後、三鷹市の河村孝市長が市政報告を、市川が講演を行った。私の3時50分から4時40分の50分の講演の間中、外では雷鳴が鳴り響き、大量に降り注ぐ雨の音が聞こえていました。

内容は、どうぞ、私のレジメをご覧下さい。嵐を呼んだレジメですが、三鷹の稲門会でしたので、三鷹のサービスを中心に、私が信条としているごく当たり前のことが書かれています。72歳を迎えた私自身の思いでもあります。ただ、可能であるかどうかは、不安もあります。

https://www.dropbox.com/scl/fi/1b2y3vytkkvdtljst15xs/2024.7-100.pptx?rlkey=o4ii3ynojwigxrdknfxozkt36&dl=0

終わった時には、雨はやみ、次の会場には、傘もささずに移動できました。