思い出記

トロッコ列車

 宮崎県北部の高千穂と延岡間を走る電車に乗ることができた。日之影町で勉強させていただき、日之影温泉駅(駅の2階が温泉浴場になっている)から延岡経由で宮崎に向かう、約2時間30分の旅である。昨日の大雨が嘘のように空は快晴、日の下は汗が吹き出るような暑さだが、日陰はことのほか涼しかった。
 1日の数本のトロッコ列車(400円の追加料金)が走る。日之影町のお計らいで、トロッコ列車に乗ることができた。列車は、川の両側を、たびたび橋で渡りながら、滝、見上げる大きな橋、急な流れ等々の見せ場を通過する。特に、川を渡る時の風景のすばらしさとそれぞれの橋の個性に、私は強く引きつけられた。対岸から川を渡り、向こう側の緑の中に一気に吸い込まれていき、そしてしばらくして視界が広がり、川の流れと人々の生活に出会う。それぞれの橋には、名前があるのだろうが、私には、眼鏡橋、黄金の橋、ブロック橋等々、思い出橋の風景が心に刻まれた。また、見上げると、川面まで数百メートルありのだろうか、いくつもの大きな橋が丘と丘を繋ぐ。
 トロッコ列車は、私たちの夢をのせて、いつまでも走ってほしい。自然の中にあるコミュニティと、巨大都市という仮想コミュニティとを繋ぐ貴重な架け橋のように思えてならなかった。互いの求めることが見つかれば、きっと未来への架け橋になる。

空の上の夕焼け

北星学園大学において開催された日本地域福祉学会全国大会を終え、帰路につく飛行機の中に、外から赤い光が差し込んできた。多くの乗客は寝ていたので気がつかなかったようだが、私にははっきり、それが夕日であることがわかった。あいにく、地上には強い雨が降ってきており、千歳空港では、空は厚い雲で覆われていた。しかし、飛行機が離陸して、しばらくして真っ白な雲の中を突っ切った時、そこには、快晴の空があった。

このような夕焼けを私は時々見るのだが、今回の場合は少し違っていた。だんだん沈み、そして赤さを増したその時、雲の中から山頂が突き出ていたのだ。

山の名前は知らない。また、その山頂の下は、きっと、雨と風で荒れ狂っているに違いない。しかし、平然と顔を出し、夕日を眺める山の雄大さに、言い尽くせない驚きを覚えた。山には人格があるわけではなく、意思があるわけでもない。それはあくまで自然現象だが、その姿から感じ取る自然の豊かさの源は、どこから来るのだろう。

生きていくことは、山の頂に向かって、一歩一歩、時には立ちどまり、時には降りたくなり、そして抱えられながら登っていくことだと思う。もうしばらくして始まる私の老年期は、山の頂に向かって歩む時としたいと思っている。特に、このすばらしい夕焼けを見られるならば。

須木村(現小林市)

宮崎市から高速も使い、約2時間。山間地すばらしい空気と水にあふれ、栗、椎茸、ゆずの収穫が盛んで、これらを活用して多種の加工品を開発している。何度も通わせていただいたこともあり、私もお金を払って栗のオーナーになっている。須木村に訪問したときには、わざわざ園主の方が来てくださった。昨年は台風で大きな被害を受けられた。園主から、事前に「台風の影響で栗が十分とれませんので、お金をお返しします」とのお問い合わせ。私は、「お金を返していただかなくても結構です。収穫できた分だけいただきます」とお答えした。でも、満足のいく栗が届けられた。多分ご苦労なさったのだろう。今年も、すばらしい栗が届くことを楽しみにしている。加藤建夫村長は、とても行動的な方で社会福祉推進者としても有名である。同時に町おこしのために地場産業の活性化を推進しておられる。高齢者もサービスを受ける側にとどまらず、地場産業を生み出す生産者である。
 地域福祉座談会を、サービス利用者を対象に下田地区センターで、サービス提供者、自治会、婦人会を対象に須木村ふるさとセンターで行った。特に、午前中は寒さが厳しく、下田地区センターも冷え切っていた。でも、地区の責任者の方々も含め、たくさんの方が集まってこられた。そこで出されたことは、1.町村の将来と生活への不安、2.一人暮らしの増加、3.地域のつながりと見守りの大切さ、4.診療費の高騰がもたらす町の財政難、5.特に子どもの問題=少子高齢化、6.後継者問題、7.役員のなり手、活動者の問題等である。真剣に課題を共有化し、可能なことに一つひとつ取り組んでいこうとされる住民の方々の真摯な生き方に私は共鳴した。
 そこでお話ししたことの一端を紹介する。
<5つのSが1つのSをつくる>
 参加(地域社会の創造への貢献)、診断(地域の可能性を掘り起こす)、すりあわわせ(それぞれの役割の合意)、支援(必要な活動への支援は何か)、支え合い(協働した地域づくり)が、すばらしい須木村の明日を築く
<タ行の活動>
  <タ>多様性、<チ>地域性=強み、生活拠点、<ツ>つながり(ネットワーク・助け合い=やってみる+タイミング)、<テ>手間を惜しまない工夫=工夫は、利用者に買わせるより、利用者を買いたい気持ちにする、<ト>とまってみんなで考えること、場が必要
 須木村の内山地区を訪問させていただいた。町の中心から3〜40分あるだろうか。社協の入浴車に乗り、ひたすら曲がりくねった道を走る。そこには、集落があった。小中学校は、生徒が20名未満と聞いた。また、保育所とデイセンターが併設された施設。子どもたちがとても輝いていた。
 大都市型の社会福祉では、まったく対応できない地域が全国の90%以上ある。地域に根ざした工夫が求められている。自然環境も、生活の質であり、資源である。朝の吊り橋からの風景を見て、心が澄み通るようだった。また夜に食べたイノシシ肉、天然ウナギの天ぷらをご紹介する。いずれも天然物。これは須木村に行かなければ食べられない。
 今、小林市になったが、須木村の伝統と強みが継承されてることを切に祈る。

宮崎県山田町

2005年1月、いかに宮崎といえども、手がかじかむ1月17・18日の両日、山田町と須木村の調査に入った。山田町は、南部の都城市と合併することが検討されている。美しい自然と温泉、そして平坦な土地が続く。野菜や米もとれ、豊かな自然の恵みに生かされている町である。しかし、冬は寒い。山田町を見下ろす霧島山が、凍えるような風を吹き下ろしてくる。また町の各所に由緒のある地蔵があり、古くからの自然への感謝と信仰を残している。
 浜之段公民館ではサービス利用者、住民を対象に、山田町総合福祉センターではサービス提供者、自治会、婦人会を対象に地域福祉懇談会を開催した。
 数年前に地域福祉計画に関する講演をお引き受けし、山田町総合福祉センターの同じ部屋でお話をさせていただいた。別の部屋で打ち合わせをしていた町の担当の方は、「十分広報ができなかったので何人が来られか」と不安顔。部屋を出た私は、集会室の前方のドアにあるスリッパを見て、その少なさから一抹の不安を抱いた。また、開いているドアから見える部屋には、まったく人影が見られない。今回は、数人で輪になって語り合おうと覚悟を決めた。しかし、集会室に入り呆然とした。たくさんの住民で部屋がいっぱいになり、待っておられた方々の笑顔、笑顔。
 自転車で通り過ぎる中高生たちは、身も知らぬ私と会っても、必ず挨拶をする。
 懇談会の参加者は、肩を寄り添って私の話を聞いておられる。人と人の関わりが近く、どんなに厳しくても、一緒に生きていこうとする姿を見ることができる。なんで、他人のために助け合いやまちづくりが当たり前になっているのだろうか。そこには、一人ひとりに山田町への強い愛着があり、住民に対する互いの信頼があると感じている。住民は、他人でなく、隣人なのだ。
 この夏、山田町のサロンのリーダーから、ものすごく大きなスイカが届く。私は忘れていたが、送ると約束してくださっていたらしい。人情とは、互いの信頼を守っていくために、約束したことを守ることなのか。
 私は、大好きな信州から、お礼のりんごを送らせていただいた。互酬とは何気ない関わりから生まれるのかもしれない。
 ちなみに、山田町は、現在都城市になった。伝統的におおらかな人間関係、また各所に地蔵が置かれ、それぞれに由緒がある。さらに、屋根の瓦が見事な家もあり、眺めていて格式を感じる。それらの文化が継承され、今までのようなまちづくりがなされることを祈っている。

人工の光がなくとも、夜空は明るい

ルーテル学院大学の卒業生の家に泊めてもらった。長野県下伊那郡豊丘村の民家を借り、宿泊場所を提供し、また自分でも農作業をしている。西多摩にある児童養護施設の職員を6年間勤め、自分らしい生活をめざして、今の家に移り住んだ。10分程度下ると、きれいな川にたどり着く。風呂はタイルで囲まれた、私にとって贅沢な五右衛門風呂。料理は薪で創られ、水は横井戸からとられたもので、とてもやわらかい。自分の便も、野菜の肥料として用いられ、循環型生活を満喫できる。さらに看護婦の資格のある奥様の料理は、一切の動物性の材料を使わない、都会では考えられない健康食。しかも、とてもおいしい。

家の周りには、確かに電灯がない。聞こえるのは、川の流れ。虫の鳴き声。そして鳥のさえずりや、風で木々が擦れ合う音。そして雨の日には、雨粒が絶え間なく屋根をうち続ける。

でも、空は夜でも光を与えてくれる。都会の陰からは想像できないほど、空にはあたたかい温もりがあり、そして雲が空をおおっても、雨雲が月をおおっても、いつも雲から光が照らされている。その奥には、地上に生きる私たちを照らす自然の光がある。夜は街灯が道を照らす街で生活しているからこそ、私はそのことを忘れていた。

今、人工の光だけが、経済発達の賜物であり、勝利のシンボルのように思われていないだろうか。1日中陰がない都会だけが、多くの夢を生み出す場なのだろうか。しかし、たくさんの人が心の渇きに苦しみ、それを癒すために街中をさまよう。自然が与える癒しと厳しさに、多くの若者が目を背けているのではないだろうか。でも、その結果が、異常な気温の上昇と「切れる」現象。私の老いた母を含めて、たくさんの高齢者が、その恐ろしさに直面している。たくさんの人が、ストレスの中でうめいている。

私が借りた別宅は、光り輝いている。外に電気がまったくいないから、眼を覆いたくなるようなまぶしい光でなくとも、昆虫の興味の的になる。その友人が、「かやを張ります。そして蚊取り線香を使ってください。そうしたら、ゆっくり休めます。窓を開けると、涼しすぎて風邪を引きますよ」と言った。確かに冷房はまったくいらない。自然の気温に委ねられる。そして、この文章を書いている間中、小さな虫が入り込み、コンピュータに向かっている私の体にぶつかる。何十年ぶりに蚊帳を張った寝床で寝ることなった。よく見ると、コオロギが、布団の「かや」にとまっていた。蚊取り線香から、コオロギを守るために、コオロギを捕まえようとしたが、10数分の格闘がまっていた。外にコオロギを逃がし、またコンピュータにむかうと、目の前に大きなクモが足早に走り去っていく。家でクモを見つけると、夫の威厳を取り戻すために、駆除にかかる。しかし、ここでは、それはあくまで自然のいとなみ。「蚊を捕まえてくれよ」という親しみがあっても、憎しみは全くわかない。なぜなら、ここは、彼らの領域であり、そこに住ませてもらうのが、人間だからだ。

いつからだろう。人間が何もかも支配できるし、できていると思いだしたのは。都会のいたるところで、カラスが増え、ネズミが地下を行きかい、ゴキブリが繁華街を支配する。

なお、翌朝、この家の蚊取り線香には殺虫効果はなく、蚊が来ないようにするものと聞いた。私は、かえってコオロギに迷惑をかけてしまったかもしれない。

自然の営みの中から、自分を取り戻す時が、今。井上時満君が提供する生活を味わいたいのなら、0265-35-6973に電話をなさると良い。飯田線の市田から10分程度の谷間にある。

すぐ下の川

ふたばの畑

蚊帳の中のこうろぎ

雨の中の井上家

「駒ヶ根」との3度の出会い

30数年前に、駒ヶ根に来たことがある。桐ヶ丘療護園の子どもの卒業旅行に伊豆まで数日同行し、東京に帰った夜、夜行で信州に行くことにしていた。しかしあいにく、松本行きの最終電車に乗り遅れ、新宿の映画館で夜を過ごすことにし、朝、始発で松本に向かう。

列車に揺られ、うとうとしているが、なかなか松本に着かない。聞こえてくるのは、聞き慣れない駅名だけ。心配になって乗務員の聞くと、辰野で後ろ三両は切り離され、飯田線を走っているとのこと。私は、すぐに列車を降りたが、その駅が駒ヶ根。

初雪が舞い、寒さでかじかむ手をさすりながら、町の人に教えてもらった寺を訪ねる。木々は、年輪を重ね、地上から空へまっすぐ、しかも太くのぼる。苔が木の皮をおおい、さらに雪がそれを包む。さらに、寺の奥には、三〇余体の地蔵尊をまつる「賽の河原」があり、「幼な子を亡くした親たちが、その追善供養に」と石が幾重にも積まれていた。そして本坊から見る庭園の美しさに、思わず寒さを忘れて見入っていたことを思いだす。

駒ヶ根との2度目の出会いは、山口で行われた全国社会福祉協議会活動者会議でのこと。長野県は、大規模コロニーを地域小規模施設へと転換することとしたが、いくつもの反対運動に直面した。反対運動は、施設の存在が住民の生活圏域と重なり合う時に起こると言われている。しかし、駒ヶ根には、複数の施設が建てられた。その背景には、住民が日頃の活動を通してつちった、利用者と社会福祉への理解の深さがあったと聞く。

そして2004年8月の出会い。飯田線の市田に向かう途中、時間があったので、時刻表を開き、駒ヶ根で降りることを決めた。探索の選択肢はいくつかあったが、休日であったため、千畳敷で有名な駒ヶ岳への登りのロープウェーは90分待ち、下りは60分待ちだった。私は、かつて訪れた寺の名前を思い出せなかったが、観光案内の人が勧める寺に行くことにした。菅の台バスセンターでおり、駒ヶ池、大沼湖畔を通り、別荘地をぬけて、奥から寺に向かう。途中、苔が両側に生えた道をぬけ、林道を下った。

長野県・県宝の三重の塔、本堂のすばらしさに驚きながら、以前に来た寺かどうか、記憶と重ならず、わからないまま「賽の河原」を訪れ、また本坊から庭を見た時に、確信した。かって来た寺は、光前寺だったと。あの時は、石垣の石の間に生え、「光線に反射して美しく神秘的な光を放つ<光ごけ>」のことも知らずに、木々に囲まれた一直線の参道を歩いていた。

時期は違うが、光前寺は、私の期待に背くことなく、すばらしい寺。三十年前の思い出が一気によみがえり、また新たな出会いが生まれた。

本堂に続く道

庭園

駒ヶ根美術館

ひかり苔

長野県上田市近郊と福島県会津若松市の屋根

7月中旬は鹿教湯に、7月末は裏磐梯高原に行く機会があった。上田駅から鹿教湯温泉へ行くバス中から、ふと外を見ていると、屋根の上に屋根がある。確かに一部地区にはその家が多い。蚕を養っていたためか、もしくはいろりの煙を逃すためか、またはおしゃれか分からないが、とても気になっていた。帰りのバスの中から必死で撮ったのが、以下の写真。今は使っているか分からないが、とても気に入った。換気にはもってこいなのかもしれない。また裏磐梯高原から猪苗代駅に向かうバスで、運転手の方が教えてくれた。茅葺き屋根を維持することがむずかしく、それを囲うために新たに屋根をつくっていると。確かに会津若松市には、いたるところでそのような屋根に出会った。確かに茅葺き屋根の面影を残し、過去と現在の折衷点のような屋根。そこに趣が現れている。

歴史を大切にすることは良いこと。そして、日常生活に大切にしてきた伝統の面影を残すことを、生活への愛着と言うのかもしれない。

鹿教湯温泉

2004年7月の暑い日、仕事で鹿教湯温泉に泊まる機会があった。上田駅から丸子を通って約1時間。湯治場という雰囲気の村にある。おみやげ物屋が数件、そして寿司屋を含む食堂や軽食店が数件があるが、八百屋、酒屋も兼業しているような所もあり、生活の音が聞こえ、ゆったりと時間が過ぎていく。歓楽街とはまったく異なる、安らぎの空間である。私は、前日に食べたトマトの美味しさを忘れられず、翌朝、トマト1箱(もぎたての約25個、980円)と朝摘みのブルーベリー4箱(1箱380円)を買った。運ぶことの手間をまったく無視して。 また約1時間に1本の間隔で運行されるバスの発車時刻までしばし時間があったので、20分程の行程の川沿いの名所を訪ねた。 まず驚いたのは、一般道から川を渡ると、そこは別世界。蝉の泣き声、川のせせらぎ、肌にやさしい涼風等、そして時々現れる小さなかえる。 学問の神様が祭られている文殊堂(長野県宝)は、学ぶことの厳しさは、そこに至るまでの階段に表れている。まさに険しい登り坂である。しかも上から降りる時は、より恐い。学ぶことを捨てることを許さないように。 しかし、学ぶこととは、それぞれのやり方と、それぞれに求める内容が異なるのであって、しかも生涯にわたって、学び続けるもの。そこに行き着く方法は、3つある。五台橋をわたり、正面からのぼる方法と紅葉橋とみどり橋の両側から辿り着く2つの方法であり、両側からのこの世界に入る方法は、多少の起伏があるもののバリアフリーである。その人にあった歩みを許されている。 ふるさと創成基金等により、多くの温泉が掘り起こされた。それは温泉旅館にとって、確かに打撃。またたくさんの歓楽街が、家族志向が強まる若者や中年層、団体客の意識の変化に対応できず、まさに正念場を迎えている。個性がないと地元観光協会の方が言われているが、だからこそ、鹿教湯温泉には、現在の需要に応じた個性はたっぷりあると思う。肌に優しい温泉、落ちついた環境、地元産のおいしい野菜、素朴だが優しい対応、健康に配慮した食事、地元のネットワーク、有力な病院による医療の可能性等々、組み合わせればこれは強力な宣伝になる。ぜひ、全国の温泉復興に貢献してほしい。

屋根のある五台橋

みどり橋の入り口

文殊堂

温泉薬師堂

野外飲湯所

健康的な朝ご飯

和風野菜ゼリー

秋田のある店で、すばらしくおしゃれで、しかも実り豊かな秋田を象徴する食べ物に遭遇した。名前は定かではないが、私は勝手に「和風野菜ゼリー」と名付けた。料金も手頃で、しかもゆでた大根の上に、ゼリーで囲まれた野菜が泳いでいる。カツオ出汁の利いた醤油味。身体にもやさしい。

思い出記2003年度(旅日記)-7

特急しなの27号長野行

 中央本線で名古屋から長野に向かう。1~2年前、逆に長野から名古屋まで乗り、岐阜に行ったことがある。今回は、17時発のしなので、長野に向かった。
 名古屋という大都市から、多治見、中津川、木曽福島とだんだん自然の中に吸い込まれていく。父の生まれ故郷の恵那を過ぎ、中津川あたりで、夕焼けが後ろから現れた。そして、いろいろな場所から夕日を見ることができたが、気持ちのせいかもしれないけれど、山の中を走るせいか、揺れが激しくなる。時折見える集落の家々から、ぼちぼち電気が見える頃に、木曽福島に着いた。そして、列車は自然の闇に包まれていく。

2003年9月初旬

バッテリーの切れが証明する善光寺文化

 夜、長野市の善光寺を散策する。これは、数年前に長野市の計画策定の責任をとり、それが無事に終わった晩に、ふと歩いた時以来である。今回は、デジタルカメラを持参した。
 善光寺の門に至る約1km手前からだろうか、街並に風情がただよっている。街灯はほの暗く、9時頃だったので店も閉まり、人通りもまばらであったが、確かに趣きをもって立っている建物がたくさんある。それも、延々と。善光寺の門へ続く通りだけでなく、その周辺の建物も、伝統と言う個性を誇って、立っている。

 気がつくと、デジタルカメラの表示には、バッテリー不足の警告ランプがついていた。旅館やお焼きの店等々もある。
 すごいと思って見ていると、横を黒装束の坊様が通り過ぎた。「すばらしい街並ですね。」と申し上げたら、「そうですか」と笑顔を見せて、善光寺の方に歩いていかれた。もっと目立つようにすればと思ったが、これが生活であり、文化なのかもしれない。そこに住んでおられる住民にとって、当たり前のことでも、私のような俗世間に生きるものにとっては、感動の連続。そして途中で消費したバッテリーが、善光寺文化の大きさを示している。
 今度は、また昼間に来よう。11の小博物館もあるそうだし、私の好きなアンティークな家具や装飾品、喫茶店等もある。

草津温泉の湯畑

 昨年は、私に急用ができ、連れていけなかったお詫びとして、親を連れての一泊旅行。ここ5・6年前までは、経済的にも、時間的にもまったく考えられなかったことである。
 草津温泉は、硫黄が強く、長く湯舟につかっていると、少し肌がひりひりして、また手の皮がしわくちゃになる。でも、これが温泉という満足感がある。
 私は電車とバスを乗り継いで、皆とは遅れて草津温泉に着いたが、まっさきに行ったのは湯畑。その硫黄の匂いは伝えられないが、そのすばらしさは、納得できる。確かに青森の恐山よりは小さいが、見ごたえのある湯畑としては、雲仙とともに、3大名所にあげる。あくまで、経験の浅い旅行者として。
 温泉の中に咲く緑の花。またフラッシュをたくと光る成分。至る所から湧き出ているような、温泉の畑。そして昼と夜では、草津温泉の湯畑は、その姿を変える。それも神秘的である。

山の岩肌

 草津に向かう特急から見える風景は、あるところから、大きく変わる。山、川、青い空、木々、そして岩。緑に包まれた山に、ところどころに見える岩肌。その岩は、断層になり、なにか違う世界の魂の塊のよう。緑が深く、美しい分だけ、その岩の神秘性が増す。電車から一瞬顔を見せる岩肌に、思わずカバンからデジカメを出して撮る。だから、その姿は、もやがかかったように、さらに神秘的になるのかもしれない。