思い出記
仕事先で、旅先で、時々気が付くことがある。文化的に保護された街並みとは、特別な空間であることを。古い建物、白壁、蔵、格子戸等々、共通点も多い。しかし、そこには、人が住んでおり、織りなす雰囲気はそれぞれ異なっている。
会津の街並みは、日常生活と同居している。一本道の両側にかたまって店や家があるのではなく、比較的広い地区に点在している。そして、観光客とともに、自然に住民が行き交い、買い物をしているし、ビジネスマンが食事に行く。そして近くに新築の建物、ビルもある。
会津の人は、なかなか心を開かないが、信頼する人に対しては、とても強い絆ができると、前日、地元の人から聞いた。私をまだ信頼していないという意味かとも思うが、その街並みの伝統を日常生活の中で活かし続けることは、とても辛抱のいることであり、誇りがなければできない。そして、その街並みから、さらに地域への愛着が生まれるかもしれない。会津の人の心意気を見た気がした。もちろん、文化財を保護するための行政からの補助はあるかもしれないが。
大型店舗が郊外にでき、商店がたてなみ閉店し、昼間でもシャッターが降りている街、すなわちシャッター街が全国に広がっている。そこでは、地域へのこだわりと愛着が薄れる。なぜなら、そこは、生活の拠点としての意味が壊れているからだ。東海のある市に行き、伝統的な繊維関係の商店の姿に驚かされた。10近く年前から感じていたことではあったが、ほとんどがシャッター街になり、とても寂しい。街おこしは、生活と密着することも必要であると私は思う。
投稿日 06年04月25日[火] 4:12 PM | カテゴリー: 思い出記
大型台風18号が九州、中国地方を経て日本海に進んでいる影響で、東京の空も異常に荒れた。風が夜空にうずまき、雲が猛スピードで通り過ぎていく。雨が突然地上を打ち、そして何もなかったかのように消え去る。その晩は、きっと熟睡できないだろうと覚悟した。その理由は、この天候だけではない。翌日は、とても大切な2つの結論が出されるから。1つは、義母の手術があること。2つ目は、ルーテル学院大学大学院臨床心理学専攻の審査結果が出されることである。いずれも午後3時以降。そして宮崎行きの飛行機の出発は午後4時45分。だから、キャンセルも選択肢として考えていた。
当日は、朝から、落ち着かない。そして、飛行機の時間も迫ったきた。しかし、離陸の約20分前に、時間を合わせたかのように、ずっと手に握っていた携帯が震えた。妻からのメールが届く。「手術成功」。そしてその数分後に、文部科学省に行った職員から電話が。「教員審査全員合格」。優秀な教員をそろえていたこともあり、私は強い自信をもっていたが、自信は確信となった。
飛行機に乗り込む間際に届いた2つのGood Messageをもって、飛行機は、ほぼ予定通りに離陸した。台風が日本に近づいていたこともあり、窓から見える景色は、一面、厚い雲のじゅうたんである。私が、ぼんやり外を見ていると、ふと太陽が降りてくることに気づいた。機上から見える太陽は、だんだん雲の中に沈んでいく。窓には、氷がついてきたが、確かに太陽が見える。そして最後には、赤く燃え、雲の中に隠れた。雲に覆われて、地上では見えなくても、自然は繰り返されているのである。
真っ赤な夕焼けを見ると、明日の天気が良いことを予想し、期待する。雨や曇りの日は、夕焼けは地上から見えない。しかし、いつも明日を迎えるために、夕日はいつものように沈んでいる。ただ、私には見えないし、気がつかないだけ。雲に包まれ、光が見えない暗い今だからこそ、「いつも夕焼けを見つめ、明日への期待をもとう」と、雲の上の夕焼けを見て感じた。それは、偶然に見た夕焼けがくれた3つ目のGood Message。
投稿日 4:12 PM | カテゴリー: 思い出記
上山温泉にあるホテル古窯の7階の部屋より、蔵王の山々がきれいに見える。12月中旬の早朝、開けたカーテンから見える景色は、うっすらとした白模様に包まれていた。寒さゆえに、土の水分が凍っている。
徐々に山の頂が明るくなり、日が出る気配を感じたその時、いたるところで煙のような靄が上がってくることに気がつく。日の出を待っている地面の思いが湧き上がっているかのよう。
約30分ぐらいして、太陽が顔を見せた。そうすると、地面を一斉に靄が覆う。太陽の恵みを感謝するための踊りのよう。
当たり前の現象であっても、私にとって、この姿はほんとうに神秘的。この自然がおりなす日常が、人の力によって壊されないことを心より願う。日常を大切にする試みは、将来への希望に繋がるから。
投稿日 05年12月20日[火] 4:13 PM | カテゴリー: 思い出記
北星学園大学において開催された日本地域福祉学会全国大会を終え、帰路につく飛行機の中に、外から赤い光が差し込んできた。多くの乗客は寝ていたので気がつかなかったようだが、私にははっきり、それが夕日であることがわかった。あいにく、地上には強い雨が降ってきており、千歳空港では、空は厚い雲で覆われていた。しかし、飛行機が離陸して、しばらくして真っ白な雲の中を突っ切った時、そこには、快晴の空があった。
このような夕焼けを私は時々見るのだが、今回の場合は少し違っていた。だんだん沈み、そして赤さを増したその時、雲の中から山頂が突き出ていたのだ。
山の名前は知らない。また、その山頂の下は、きっと、雨と風で荒れ狂っているに違いない。しかし、平然と顔を出し、夕日を眺める山の雄大さに、言い尽くせない驚きを覚えた。山には人格があるわけではなく、意思があるわけでもない。それはあくまで自然現象だが、その姿から感じ取る自然の豊かさの源は、どこから来るのだろう。
生きていくことは、山の頂に向かって、一歩一歩、時には立ちどまり、時には降りたくなり、そして抱えられながら登っていくことだと思う。もうしばらくして始まる私の老年期は、山の頂に向かって歩む時としたいと思っている。特に、このすばらしい夕焼けを見られるならば。
投稿日 05年06月05日[日] 12:18 AM | カテゴリー: 思い出記
ルーテル学院大学の卒業生の家に泊めてもらった。長野県下伊那郡豊丘村の民家を借り、宿泊場所を提供し、また自分でも農作業をしている。西多摩にある児童養護施設の職員を6年間勤め、自分らしい生活をめざして、今の家に移り住んだ。10分程度下ると、きれいな川にたどり着く。風呂はタイルで囲まれた、私にとって贅沢な五右衛門風呂。料理は薪で創られ、水は横井戸からとられたもので、とてもやわらかい。自分の便も、野菜の肥料として用いられ、循環型生活を満喫できる。さらに看護婦の資格のある奥様の料理は、一切の動物性の材料を使わない、都会では考えられない健康食。しかも、とてもおいしい。
家の周りには、確かに電灯がない。聞こえるのは、川の流れ。虫の鳴き声。そして鳥のさえずりや、風で木々が擦れ合う音。そして雨の日には、雨粒が絶え間なく屋根をうち続ける。
でも、空は夜でも光を与えてくれる。都会の陰からは想像できないほど、空にはあたたかい温もりがあり、そして雲が空をおおっても、雨雲が月をおおっても、いつも雲から光が照らされている。その奥には、地上に生きる私たちを照らす自然の光がある。夜は街灯が道を照らす街で生活しているからこそ、私はそのことを忘れていた。
今、人工の光だけが、経済発達の賜物であり、勝利のシンボルのように思われていないだろうか。1日中陰がない都会だけが、多くの夢を生み出す場なのだろうか。しかし、たくさんの人が心の渇きに苦しみ、それを癒すために街中をさまよう。自然が与える癒しと厳しさに、多くの若者が目を背けているのではないだろうか。でも、その結果が、異常な気温の上昇と「切れる」現象。私の老いた母を含めて、たくさんの高齢者が、その恐ろしさに直面している。たくさんの人が、ストレスの中でうめいている。
私が借りた別宅は、光り輝いている。外に電気がまったくいないから、眼を覆いたくなるようなまぶしい光でなくとも、昆虫の興味の的になる。その友人が、「かやを張ります。そして蚊取り線香を使ってください。そうしたら、ゆっくり休めます。窓を開けると、涼しすぎて風邪を引きますよ」と言った。確かに冷房はまったくいらない。自然の気温に委ねられる。そして、この文章を書いている間中、小さな虫が入り込み、コンピュータに向かっている私の体にぶつかる。何十年ぶりに蚊帳を張った寝床で寝ることなった。よく見ると、コオロギが、布団の「かや」にとまっていた。蚊取り線香から、コオロギを守るために、コオロギを捕まえようとしたが、10数分の格闘がまっていた。外にコオロギを逃がし、またコンピュータにむかうと、目の前に大きなクモが足早に走り去っていく。家でクモを見つけると、夫の威厳を取り戻すために、駆除にかかる。しかし、ここでは、それはあくまで自然のいとなみ。「蚊を捕まえてくれよ」という親しみがあっても、憎しみは全くわかない。なぜなら、ここは、彼らの領域であり、そこに住ませてもらうのが、人間だからだ。
いつからだろう。人間が何もかも支配できるし、できていると思いだしたのは。都会のいたるところで、カラスが増え、ネズミが地下を行きかい、ゴキブリが繁華街を支配する。
なお、翌朝、この家の蚊取り線香には殺虫効果はなく、蚊が来ないようにするものと聞いた。私は、かえってコオロギに迷惑をかけてしまったかもしれない。
自然の営みの中から、自分を取り戻す時が、今。井上時満君が提供する生活を味わいたいのなら、0265-35-6973に電話をなさると良い。飯田線の市田から10分程度の谷間にある。
雨の中の井上家
投稿日 04年08月25日[水] 6:20 PM | カテゴリー: 思い出記
30数年前に、駒ヶ根に来たことがある。桐ヶ丘療護園の子どもの卒業旅行に伊豆まで数日同行し、東京に帰った夜、夜行で信州に行くことにしていた。しかしあいにく、松本行きの最終電車に乗り遅れ、新宿の映画館で夜を過ごすことにし、朝、始発で松本に向かう。
列車に揺られ、うとうとしているが、なかなか松本に着かない。聞こえてくるのは、聞き慣れない駅名だけ。心配になって乗務員の聞くと、辰野で後ろ三両は切り離され、飯田線を走っているとのこと。私は、すぐに列車を降りたが、その駅が駒ヶ根。
初雪が舞い、寒さでかじかむ手をさすりながら、町の人に教えてもらった寺を訪ねる。木々は、年輪を重ね、地上から空へまっすぐ、しかも太くのぼる。苔が木の皮をおおい、さらに雪がそれを包む。さらに、寺の奥には、三〇余体の地蔵尊をまつる「賽の河原」があり、「幼な子を亡くした親たちが、その追善供養に」と石が幾重にも積まれていた。そして本坊から見る庭園の美しさに、思わず寒さを忘れて見入っていたことを思いだす。
駒ヶ根との2度目の出会いは、山口で行われた全国社会福祉協議会活動者会議でのこと。長野県は、大規模コロニーを地域小規模施設へと転換することとしたが、いくつもの反対運動に直面した。反対運動は、施設の存在が住民の生活圏域と重なり合う時に起こると言われている。しかし、駒ヶ根には、複数の施設が建てられた。その背景には、住民が日頃の活動を通してつちった、利用者と社会福祉への理解の深さがあったと聞く。
そして2004年8月の出会い。飯田線の市田に向かう途中、時間があったので、時刻表を開き、駒ヶ根で降りることを決めた。探索の選択肢はいくつかあったが、休日であったため、千畳敷で有名な駒ヶ岳への登りのロープウェーは90分待ち、下りは60分待ちだった。私は、かつて訪れた寺の名前を思い出せなかったが、観光案内の人が勧める寺に行くことにした。菅の台バスセンターでおり、駒ヶ池、大沼湖畔を通り、別荘地をぬけて、奥から寺に向かう。途中、苔が両側に生えた道をぬけ、林道を下った。
長野県・県宝の三重の塔、本堂のすばらしさに驚きながら、以前に来た寺かどうか、記憶と重ならず、わからないまま「賽の河原」を訪れ、また本坊から庭を見た時に、確信した。かって来た寺は、光前寺だったと。あの時は、石垣の石の間に生え、「光線に反射して美しく神秘的な光を放つ<光ごけ>」のことも知らずに、木々に囲まれた一直線の参道を歩いていた。
時期は違うが、光前寺は、私の期待に背くことなく、すばらしい寺。三十年前の思い出が一気によみがえり、また新たな出会いが生まれた。
駒ヶ根美術館
ひかり苔
投稿日 4:13 PM | カテゴリー: 思い出記
7月中旬は鹿教湯に、7月末は裏磐梯高原に行く機会があった。上田駅から鹿教湯温泉へ行くバス中から、ふと外を見ていると、屋根の上に屋根がある。確かに一部地区にはその家が多い。蚕を養っていたためか、もしくはいろりの煙を逃すためか、またはおしゃれか分からないが、とても気になっていた。帰りのバスの中から必死で撮ったのが、以下の写真。今は使っているか分からないが、とても気に入った。換気にはもってこいなのかもしれない。また裏磐梯高原から猪苗代駅に向かうバスで、運転手の方が教えてくれた。茅葺き屋根を維持することがむずかしく、それを囲うために新たに屋根をつくっていると。確かに会津若松市には、いたるところでそのような屋根に出会った。確かに茅葺き屋根の面影を残し、過去と現在の折衷点のような屋根。そこに趣が現れている。
歴史を大切にすることは良いこと。そして、日常生活に大切にしてきた伝統の面影を残すことを、生活への愛着と言うのかもしれない。
投稿日 04年08月01日[日] 9:14 PM | カテゴリー: 思い出記
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