宮崎県須木地区訪問記(2)


私が宿泊した家です。古い民家を移築したものですが、泊まってみると、これは、結構刺激的。まわりには、電灯もない。そんな中で、泊まることは、自然に抱かれること。しかし、自然は、決して優しくない。しかし、それぞれの生き方を大切にしてくれると包容力があると思いました。後は、自分がどのように生きるか、それを覚悟するかではないでしょうか。自然の中で生きていくことを求める人にとって、自然は心地よいし、都会は、明らかに住みにくい。

飛行機の中から見た富士山です。夕焼けに輝いていますが、遠かったので、見えにくかったです。

宮崎県須木地区訪問記(1)

宮崎県小林市の須木地区に行ってきました。須木の栗で有名な地区です。自然に恵まれていますが、人口減の地域です。でも、皆が絆を大切に、自然の営みを大切に、生活しておられます。中山間地ですので、なかなか陽の出は見えません。しかし、陽の光は、静寂の中、確かに自然を、人々の生活を照らしていきます。
前日の写真では、落ち着いた湖でした。しかし、朝、湖を見てみると、山のふもとに光が照らされ、自らのぼる霧が、至る所で見えていました。そして、紅葉を照らす陽の光が、自然の美しさを輝かせていました。日々の生活ではわからないですが、毎日陽はのぼり、そして生活に暖かさをもたらす。このことを忘れたくないとあらためて思いました。

光る朝日

私は、石巻の方々と、しばらく一緒に歩ませて頂こうと思っています。石巻では、
復旧が遅れています。しかし、明日へ希望をもって歩んでいこういう思いを実感して
います。徐々に、コミュニティの再生が始まると確信しています。困難な時だから、
一緒に頑張ろうと思いました。
天気予報では曇りとなっていた朝、津波に襲われた港の跡を歩きました。地盤が沈下
し、まだ、瓦礫や被災した建物が残っています。しかし、朝日が海を照らしてきまし
た。そして、丘の上から、陽が昇ってきました。
地盤が沈下しているので、水がだんだん押し寄せてきましたので、ホテルに戻ろうと
すると後ろを振りむくと、町から虹が空に向かって伸びていました。私たちには気が
つかなくても、希望と励ましがたくさんあると思います。

輝く夕日

松江からの帰りの飛行機は、悪天候のためにとても揺れました。しかし、飛行機から
外を見ていると、雲のじゅうたんの上を飛んでいる後ろで、真っ赤な夕日が出ていま
した。地上からは見えなくても、太陽は輝いている。夜には隠れ、朝には再び私たち
を照らす。太陽は希望の象徴でもあります。この自然の営みに私たちは抱かれていま
す。厳しい世の中だけど希望を持って歩こうと語っているようでした。

聖望学園における入学式メッセージ(2012.4)

聖望学園中学校、高等学校に入学する皆さん、入学おめでとう。ご臨席の皆様、ご入学、おめでとうございます。新たな歩みを始める新入生の皆さんに、お祝いの言葉を申し上げさせていただきます。

東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、苦しくて、心の整理がつかず、今も当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみにくれている人がたくさんいます。

人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。

高校球児ができること、それは、全力で戦いぬき、最後まであきらめないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。2012年の高校選抜野球で、石巻工業高校の主将の選手宣誓を聞き、多くの人が涙しました。ルーテル学院大学は、聖望学園も関わりの深い日本ルーテル教団と、石巻市の河北地区、北上地区の仮設住宅の支援に入っており、大震災の大きな被害を見ています。石巻工業高校も被災しました。津波に襲われ、約800人が孤立し、2日目に机を橋にして脱出したそうです。また9月21日に台風15号が襲来し、地盤沈下している校地は水につかりました。彼らは十分な練習ができなかったと思います。なのに、このようなメッセージを全国に送っています。

私は、石巻工業高校野球部の諸君から、3つのことを学びます。私たちは、共に明日を描いていくため、この原点に立つ必要があります。

  1. 謙虚さを大切に。人を理解する謙虚さを養うこと。相手を知らなければ一緒に歩むことはできない。
  2. 粘り強さを忘れずに。日々、粘り強く自分を鍛えてほしい。これからの社会を生きていくために、自分の力をつけるのです。自分が、成長していくこと。
  3. 希望をもち続けること。希望をもっている限り、明日が見えてきます。明日を夢見て、私たちが共にいること。明日があることを互いに確認すること。

伝統と実績のある聖望学園でこの3つを学ぶことができます。1日1日を大切に、歩んで下さい。謙虚さ、粘り強さ、希望という3つの期待を申し上げて、お祝いの言葉にさせていただきます。入学、おめでとうございます。

2012年度入学式メッセージ

ご入学おめでとうございます。入学される方々に、学生生活を通して学んでいただきたいことを申し上げたいと思います。

聖書には、「善きサマリア人」の譬えが語られています。旅人が追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、殴りつけられました。多くの通行人は、倒れている旅人の姿を見て、道の向こう側を通って去っていきました。しかしサマリア人は、倒れている旅人に近寄って傷に油とぶどう酒をつけ包帯をし、泊まる場所を確保し、介抱しました。

このようなサマリア人の行動は、広がってきたボランティア活動の原点であると思います。人のために何かをしたいという気持ちがつながりあって、絆を生み出し、その絆がコミュニティを再生させる。コミュニティの力が、未来の社会を切り開いて行く。インドで貧しい人たちのために働いたマザーテレサは、「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と言いました。もし人が苦しんでいる姿に目を背け、無関心であるなら、その苦しみは決して終わることはなく、連鎖となって広がっていく。私は、自分が、苦しみに直面した時に、その苦しみを受け止め、笑顔に代えてくれた親族、友人、教師のことを思い出します。

住民の生活を支える仕事をしながら、このような「ささやかな絆」が、「皆の笑顔」が、日本ではだんだん消えていくことを心配していた私は、昨年の東日本大震災を経験し、驚きました。全国各地から被災地に届く緊急物資、寄付金、祈り、メッセージ、そして駆けつける人々。家族や財産を失い、ただ呆然と立ち尽くす方々の姿を見て、いてもたってもいられない自分が、たくさんの人々がいるのでした。

東日本大震災から1年と数ヶ月を経て、私たちは、多くの体験をしました。原発の被害、孤立と貧困の広がり等々に直面し、明日が見えない。だからこそ、原点に戻り、私たちの生活の場に、「ささやかな絆」と「皆の笑顔」を取り戻すのです。被災地では、生活の場であるコミュニティを再建しようとする動きが確実に生まれています。自然の猛威にあっても、心に火を灯し、明日を目指して生きている方々と共に歩みたい。ボランティア活動を手話では、「共に歩む」と表します。

私は、今、3つのことが大切だと思っています。

第1は、今、自分にできることをすること。「現地に行って、支援のために働くことができないので、心が痛む」と良く言われます。しかし、ボランティアとは、「一か百か」ではない。たとえば、1か100かの2つの選択肢ではなく、その間には、98通りの働きがあるのです。

第2は、相手を理解する謙虚さと、相手を理解する力、関わっている方々と共に歩む力を養うこと。相手を知らなければ共に歩むことはできない。個々の状態も違うのであり、必要とされていることを判断する力が求められる。そして“May I help you?”というイギリスで日常的に使われる言葉がボランティア活動の原点だと思っています。自ら申し出ますが、判断を相手に委ねるのです。

第3は、続けることです。被災なさった方の悲しみは、深い。そして、決して消えない。でも、私は思っています。天国におられる方々は、今、生きておられる方々の悲しい顔を望んでいないと。だから、被災しているといないとに関わらず、私たちが共にいること、明日があることを、様々な働きを通して届け続けていくことが大切です。

私は、様々な講演の場で、いつも「被災地の復興は私たちの未来。それは、笑顔の連鎖、絆の再生である」と申し上げます。今、日本全国で、世界で、様々な悲劇が生まれている。戦争は憎しみを残し、憎しみに連鎖がさらなる紛争を生み出す。私たちが生活する場でも、日々孤独な死や、大切な子どもの命が奪われていく。そのあまりにも悲しい現実に立ち、共にコミュニティの復興を図っていくこと。

繰り返しになりますが、それぞれが、精一杯、自分らしく生きていきたいという思いを受けとめ、一人だけで抱えきれない解決困難な事実を一人で解決する必要はないということを伝え続ける人が、今必要とされています。「共にいる」人の存在を知ることによって、その人は今を歩き始めることができる。そして、その人の明日が見えてくる。また、今を生きることによって、その人の過去の事実は変わらなくとも、過去の意味が変わるのです。過去の事実が変わらなくとも、その意味が劇的に変わるのです。

サマリア人の行いを示し、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたイエスの御言葉を、入学される方々と、一緒に学びたいと思います。

2011年度 卒業式メッセージ

2011年度3月卒業式

「いのち」 

聖句:ヨハネ13章3節〜5節「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまった手ぬぐいでふき始めた。」

1)鉱山労働者の救い

「私たち33人は、待避所で無事にいます」

 現地時間2010年8月5日にチリ共和国のサンホセ鉱山で大きな落盤事故が発生しました。この鉱山は、地下に向かって螺旋状の一本道が掘られており、地下460メートルの地点で落盤が起こり、700メートルの地点で働く作業員33名が閉じ込められました。3メートル近くまで大量の土砂が押し寄せたと聞きます。その後、再度の落盤があり、坑道は暗闇に包まれました。その地域は事故が多いく、生存は絶望視され、鉱山落盤事故は大きく取り上げられませんでした。

 しかし、救助隊は、確認のため、700メートルの地点にある避難所まで直径8センチのドリルで掘りました。そして、そのドリルを引き上げてみると、先端に赤い字で書かれた紙が貼られ、そこに、「私たち33人は、待避所で無事にいます」と書かれていました。事故後18日たって始めて生存が確認されました。後は、連日テレビに映し出されていましたので、ご存じだと思います。

 さて、私たちは、送られてくる「いのち」のメッセージを、見逃していないでしょうか。心を開き、見ていないと、「いのち」のメッセージを見逃してしまいます。今、私たち自身の生き方そのものが問われているのです。

2)イエスが示した「いのち」を大切にした生き方

 今日の聖句には、こう書かれています。

「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始めた。」 

 祝宴で客の足を洗うことは、奴隷のつとめでした。(バークレー184) 当然舗装されていない道は、雨には泥んこになり、また夏には乾燥してほこりだらけになります。その道を、2,3本のひもで結びつけられた簡単な底革でできている「履物」を履いて人々は歩きます。ですから、足を洗わずに家の中に入ると、家が汚れてします。家の戸口には水がめが用意され、召使いが水差しとタオルをもって、足を洗っていました。

 その召使いの役割を、なぜイエスが果たされたか。神学者のバークレーは、言います。食卓を囲む、イエスの小さな群れには召使いがいなかった。イエスはそれを見抜かれた。私たちに、イエスの役割を担う者を求めた。社会にあって、跪いて人の足を洗う人の役割を求めたのです。腰にタオルをつけ、弟子たちの足下に膝をついている神のみ子の姿を思い、バークレーは、イエスを「仕える王者」(バークレー185-7)と言います。

 謙虚さを持って、ひざまずき、「いのち」を仰ぎ見る。そこから、それぞれの「いのち」への尊敬が生まれるのです。

3)日本が置かれている状況

 そのような事故を目のあたりにて数ヶ月後の2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。学長室で会議していた私も、長く続く大きな横揺れに驚き、中庭に出ました。そして、経験のしたことのない大地震と、連続する余震、混乱する社会状況に直面して、私はしばらく中庭の椅子に座り、今、どのような対応をすべきか神に問いかけていました。 

 自然の驚異に私たちは、しばらく、ただ呆然と立ち尽くすのみでした。では、私たちは、自然の前に、希望を投げ捨てるのでしょうか。

 私は、被災地を訪問し、何人もの友人たちに会いました。まだ瓦礫が片付かず、生活の拠点を失った方々の生活の場が築かれていない現実、支援が遅れている現状を何度も見てきました。しかし、自分たちで、コミュニティを再建しようとする動きが確実に生まれていることを知りました。自然の猛威にあっても、心に火を灯し、明日を目指して生きている「いのち」を、共に大切にしたいと思っています。復旧に三年、復興にさらに三年と言われています。被災地で生まれた「希望の光」、輝く「いのち」と共に歩みたい。

4)今、「いのち」の意味が問われている

 では、「いのち」とは、なんでしょうか。

① 「いのち」とは、明日への希望を生み出すもの

 私は、第1に、「いのち」とは、生きることそのものであり、明日への希望を生み出すものだと確信しています。

 被災地の状況に直面し、たくさんの物資が現地に届けられました。日本全国から、世界から、たくさんの支援が届きました。

 また、高校生が歌う歌が、心を打ちました。仙台市立八軒(はちけん)中学校吹奏合唱部が「あすという日が」という歌を歌いました。これは、全国大会で歌う予定でしたが、震災を理由に辞退し、避難場所で歌ったことから、たくさんの声になりました。盛岡市立北陵中学校吹奏部は、手話を加えました。今でも、その時の感動を私は覚えていますし、全国各地で歌い続けられています。

「あすという日が」 作詞 山本 瓔子  作曲 八木澤 教司

大空を 見上げて ごらん   あの 枝を 見上げて ごらん

青空に 手をのばす 細い枝  大きな 木の実を ささえてる

いま 生きて いること    いっしょうけんめい 生きること

なんて なんて すばらしい  あすと いう日が あるかぎり しあわせを 信じて      あすと いう日が あるかぎり しあわせを 信じて

あの道を 見つめて ごらん  あの草を 見つめて ごらん

ふまれても なおのびる 道の草 ふまれた あとから 芽ぶいてる

いま 生きて いること いっしょうけんめい 生きること

なんて なんて すばらしい  あすと いう日が くるかぎり 自分を 信じて

あすと いう日が くるかぎり 自分を 信じて

それぞれの「いのち」が希望を生み出し、輝いているのです。

② 「いのち」とは、共に輝くもの

 私は、第2に、「いのち」とは、共に輝くものであると思います。悲しみも、喜びも、それぞれの「いのち」から生み出される。

 2005年に福音ルーテル教会の12歳から18歳までのティーンズ72名が集まり、まとめた詩集『「いのち」の詩』を見て、感動する詩がいくつもありました。名前が書かれていませんでしたが、それから一つを紹介します。

「いつも励ましてくれる人がいる

 いつも勇気づけてくれる人がいる

 いつも笑わせてくれる人がいる

 いつも楽しませてくれる人がいる

 一緒に泣いたり助け合ったり・・・ だからお互いを大切に」

 その詩から、いのちが共に躍動していることがわかります。共に輝いているのです。

 一つひとつの「いのち」に敬意を表していくことから、希望が、未来が生まれます。「いのち」のメッセージを謙虚に受けとめるために、日々の生活の中で、ひざまずきたい。 

5)祝いのメッセージ

 今日の聖句は、「いのち」の源であるイエスが跪いて下さる。

 ここに連なる私たちは、ルーテル学院での生活を通して、イエスがおられる食卓を囲んできた。そして、「いのち」の源であるイエスが、私たち一人ひとりの足を洗い、腰にまった手ぬぐいでふいておられる。

 私は、卒業する諸君と囲んだ食卓を誇りに思うし、イエスに足を洗っていただいていることに感謝し、イエスが示されたように、共に、「いのち」を大切にして、未来を切り開いていきたいと思っています。

 卒業、おめでとう。

熊本ライトハウスを訪問して

2011年12月、熊本市にある、熊本ライトハウス(社会福祉法人慈愛園が経営する盲ろうあ児施設)と熊本ライトハウスのぞみホーム(知的障害者更生施設)を訪問することができた。個々の利用者の生活を大切にするハード、ソフト面の配慮を目のあたりにして、私は、北欧の福祉国家で見学したホーム・ハウスを思い出した。揺るがない信念が日常生活に築かれ、また国の政策の基軸となっていた。

 日本においては、福祉予算が切り詰められる時代にあって、ハウス・ホームで生活なさっておられる方々が、どのような状態にあっても、一人の人間として守られ、大切にされるという福祉の使命を、何とかして継続していこうとするライトハウスの意気込み、使命感に、私は、感動したのである。

 室内は広々としており、天井も高い。それぞれの部屋には、生活する人の個性が見られる。視覚に障害があっても、それぞれの方々は、広い生活空間を体験し、木の温もりと響きを実感し、そこで働く職員の心を通して生きていくことの温もりを味わっておられると、私は感じた。ある利用者のカラフルなデザインの布団カバーは、家族の思いが込められていた。

 ライトハウスルーテル教会に関係する社会福祉施設である。これからも、伝統ある社会福祉法人慈愛園の一つの有力なハウスとして、輝き続けていただきたい。ライトハウスには、目指すことができる、立ち戻ることができる、ルーテルのミッションがあるのだから。ご案内して下さった施設長山口初子氏に心より感謝したい。

 以下、るうてる法人会連合が出版した『未来を愛する 希望を生きる―共拓型社会の創造をめざして』(人間と歴史社)の文章を紹介する。

熊本ライトハウスミッション

  「わたしは、神がそのみ業を演じられる偉大な舞台の袖に立っておられると、

しばしば感じたものです。愛の種が、荒れて耕されていない土にまかれました。

わたしたちはそれに水をそそぎ、神が育ててくださいました。そして何という

収穫を、神はこの小さな園に働く人々にお与えくださったのでしょう。

この41年間、わたしがしたことではなく、わたしの主エスが世の終わりまで、

わたしと共にいるとのお約束をお守りくださったことを誇りたいのであります。」

※昭和37年(1962)モード・パウラス先生の慈愛園辞任の辞

社会福祉事業に従事する私どもは、パウラス先生の神への愛と奉仕の業に倣いまた、慈愛園の定款にも明記されております「イエスキリストによって示された、愛と奉仕の精神に基づき多様化な福祉サービスがその利用者の意向を尊重して総合的に提供されるよう創意工夫することにより」を目指し、クリスチャンワーカーとしての使命感を常に覚えたいものです。

【 まかれた種 】

 大正9年(1920) 熊本で開かれた日本福音ルーテル教会第1回総会において、「社会事業創始の件」について熊本に施設を設立する決議が行なわれ、その委員長にモードパウラス先生が就任されました。就任後パウラス先生をリーダーとした仲間の愛と奉仕の業は、子どもやお年寄りのお世話をする「慈愛園」を創設し社会福祉分野での事業の取り組みは広範にわたりましたが、その中で視力に障害を有する子どもたちへの処遇が課題となっていました。

 その課題に取り組むため理事長のパウラス先生を始め潮谷総一郎園長、視力障害の石松量蔵神水教会牧師と九州女学院英語教師のマリアン・パッツ先生が加わり4名の障害児福祉サービス研究会が発足し、昭和24年(1949)日本福音ルーテル教会第26回総会において障害児施設の設立が決議されました。

【 めばえ 】

慈愛園から2キロほど離れた三菱重工所有の家屋を買収し、理事会はライトハウス設立を決議し、「ライトハウス」の命名者潮谷総一郎先生が初代園長に就任。

昭和28年7月1日(1953)県下唯一の盲ろうあ児施設 熊本ライトハウスの設置が定員40名で認可されました。

【 あゆみ 】

  昭和31年(1956)7月には潮谷総一郎先生の尽力により、慈愛園は全国に先駆けて熊本目の銀行も発足しました。昭和33年(1958)門脇トミ2代目園長は、慈悲に満ち誠実で祈りの人でありまた、目や耳に障害を持った子どもたちに対して使命感に燃え、施設運営の基盤作りに懸命に取り組まれました。

子どもたちが障害を有しているため社会経験に乏しくなることから、社会性と心身の鍛錬を目的に創立3年目の昭和30年からボーイスカウト活動が開始され、日本最初の盲児・ろう児によるボーイスカウト熊本14団が誕生し、その後ガールスカウトも結成され日本アグーナリーの基礎ともなりました。

これまで子どもたちは与えられた建物で大集団の生活を余儀なくされ、盲学校や聾学校に通っていましたが、昭和40年(1965)7棟の新らしいホームを頂き家庭的な雰囲気の中で生活指導や役割分担と責任など、個別の人間形成に大いに役立ち福祉施設の小舎制の先駆けともなり、クリスマスプレゼントとして児童・職員ともども嬉しい思い出です。

 昭和46年(1971) 山口拓爾3代目園長は実践行動の人でありました。入所児童の人格形成はもとより広くボランテイア活動をとおして障害福祉の分野における貢献は、施設内外を問わず全国に及び地域の夜警や清掃奉仕活動も30年を超える活動が続けられました。

その後入所児童数も昭和48年(1973)94名をピークに減少していきました。

【 成人棟の誕生 】

 少子化は入所児童も例外ではなく、視力や聴力の単一障害児よりも知的な発達の遅れや自閉的傾向など、いくつかの障害を併せ持ったいわゆる重複障害児の存在が注目されだし、平成3年(1991)年には18歳を超えた入所者19名の中に11名の重複障害者が20歳~25歳という現状でありましたので、その子たちの生活の場を求めざるを得ず成人施設の設置という課題となり、保護者・職員をはじめ関係者の懸命な働きにより平成5年(1993)知的障害者更生施設(盲重複障害者施設)熊本ライトハウスのぞみホームとして定員30名で開設され、悲願でありました児童施設年齢超過児の解消として関係者の大きな喜びとなりました。また、地域への社会貢献のひとつに平成元年(1989)からは市社会福祉協議会からの委託事業として、地域老人の給食サービスふれあいランチとして約100食を月2回提供する事業も現在まで続いております。

障害を有している子も普通の子と同じように、教育や福祉のサービスを受けその子らしく生きていかれる社会を構築することが求められ福祉施設の存在はそのような使命を託されているのです。心身の状況により、自己主張や自己の権利を表現できない社会的に弱い立場の人々に対して、イエス様が誰にでも分け隔てなく、殊に重荷を負っている人々にイエス様自から歩み寄り手を差し伸べ導かれていることは、社会福祉事業従事者のミッションとして忘れてはならないものです。

 最後に、80数年前にパウラス先生を日本に送り出されたアメリカのルーテル教会の継続された祈りと献げものに感服し、感謝申し上げますとともにこれから私どももそのスピリットを継承し、日本福音ルーテル教会と近隣教会のたゆまぬお支えによりいま福祉制度の大きな転換期にも各自与えられた場において、クリスチャンワーカーとして愛と奉仕の業に励んで参りたいと願っております。

天空から見る雲海

12月の中旬、早朝の飛行機で熊本に向かっていました。当日の天候は悪く、離陸の際に揺れましたが、不安定な大気を過ぎると、安定した飛行になりました。

 私は、何度も飛行機に乗っていますが、窓からの景色は決して単調ではありません。ただ何気なく外を見ていた私に、見えた雲の姿。それは、山々の間をおおう雲の姿、すなわち雲海でした。雲が、穏やかな海のように、静かに、やさしく地に広がる。高い山も、雲海の上では、丘のようです。私は、しばらく、手前の海と同じように広がる平坦な空間を見つめていました。

 自然の営みを私たちは支配することはできません。自然現象を分析することはできますが、何故今、雲海が出るのか、私が雲海を見ることができたのか、そのことを問うことは意味がないし、不可能だと思っています。意味があるならば、それは、私たちが自然に抱かれていることを知ること。自然の恵みに活かされ、自然の猛威に戸惑う。またある時は自然の美しさに感動し、ある時は自然の厳しさに圧倒される。その繰り返しが、人間の歴史であったことを確認することです。自然に抱かれ、自然に感謝し、自然の恵みを分かち合い、生きていくことの大切さを再確認することではないでしょうか。

 雲海の下で、私は生きています。雲海は、しばらくして消えていくでしょう。その後、太陽の光が降り注ぐでしょう。だれもが同じように、自然の営みの中に生きています。自然の前に、私たちは平等なのです。ならば、この日本で、自然の災害にあった方々と共に、自然の恵みを分かち合い、助け合い、生きていくことも平等でありたい。

 雲海を見て、私はその思いを強くしました。

                            2012年1月3日

私が、在学生に感謝する理由

私が、在学生に感謝する理由

               ルーテル学院大学

               学長 市川 一宏

 5年目になるでしょうか。私は、1限目を担当する水曜日と金曜日に、授業より20分早く中庭に立ち、「おはよう」と言って学生諸君を迎えることにしています。それは、暑い日も、寒い日も、雨の日も、曇りの日も、晴れの日も、数時間をかけて通ってくる学生への敬意を表したいため。日頃使う「おはよう」「こんにちは」「また明日」という挨拶が行われていたという、ルーテル学院大学の伝統を大切にしたいと思ったからです。しかし、挨拶を続けているうちに、その時が、授業の前に受講生の状況を知る大切な時であること。また自分自身が、「元気ですか」と、逆に励まされていることをわかりました。自分自身のために、立っていたのでした。

 最近もそうです。2011年12月初旬、雨が降っている寒い朝、車椅子の女子学生が授業に向かうために寮から出てきました。そのことを知った通学生が、雨に濡れるのもかまわず、車椅子を押しに来てくれました。彼女の傘は、車椅子の学生が濡れないように差し出されていました。さらに、その二人の姿を見た別の女子学生が駆け寄り、傘を差しだしたのです。

 私は、その自然な思いやりの連鎖が、今、日本社会でもっとも大切なこと、すなわち絆、縁であると思っています。しかも、それぞれが、決して無理をしていない。自然に助け手を差し出す。ルーテル学院大学の日常の生活の中で、思いやりが生まれていました。それは、共に生きる文化です。学生の絆を見ることが私の喜びであり、学生に感謝していることです。

 2011年、生まれもって視覚・聴覚の障害をもつ学生が入学してきました。私たち教職員は、教職員、学生同士のコミュニケーションができるか、不安をもっていました。「障害をもっていることを理由に入学できないのは、障害をもつ本人の問題ではなく、大学自身の問題である」という信念を今まで大切にしてきましたが、不安は少なからずありました。しかし、教員の日々の講義で、また学生同士の日々の生活の中で、それぞれの可能性が花開きました。

 学園祭の手話サークルの企画に、視覚障害の学生が共に参加する。その事実を見て、私は、教育の可能性を示してくれた在学生に心から感謝したいのです。