都城焼

車で目的地に着く途中、都城焼と書かれた看板と、道路の右側に広がるきれいな窯元が見えた。時間は5時を過ぎており、見学できなかった。今度また来ようと思っていたら、翌日、懇親会が開かれていた場所に併設されていた物産店で、偶然都城焼を見つけた。漂う重厚な土地、青い空と白い雪のような彩り、そ

して使いやすく配慮された耳。歴史と文化を大切にした器に、「寒がさす」といわれる厳しい冬に霧島から吹き下りてきた雪と、晴れた時に広がる真っ青な空という自然が織りなす色彩、そして地元の人のもてなしの心が表れている気がした。とてもすばらしい出会いが、また生まれた。

「霧島屋久国立公園の一角、霧峰高千穂の峰を西北に仰ぎ、東に鰐塚山を望む広大な都城盆地。その中央を南西から北東に流れる大淀川。その支流沖水川のほとりに立つと、古代の豊かな息吹が甦る思いがしてくる。

この都城の地は、明治になるまで旧薩摩の城下町であったため、人情・風俗にその影響を色濃く残している。その昔、天明元年に藩主の名により都城焼物所として藩窯が開かれ、また所を移して、宮丸焼、小松原焼などとして温雅な陶器が焼かれていたが、その後宮丸焼は廃窯となっている。 都城焼は、これら先人の作風に思いを馳せ、この雄大な都城盆地に埋蔵されている豊富な土石類を生かして造られたものであります。

黒薩摩の持つ<用即美>を秘めた土の香り豊かなこの焼きものをご賞用戴きますれば幸いに存じます」代表者 宇津野晄氏(説明書から)

土そうさく「離宝窯」

 猛暑が続く夏の最中、神戸に行く機会が与えられた。おもしろいもので、予想しない場所で、陶器と出会う。もしかしたら、今までたくさんの陶器と出会っていたのかもしれないが、心を引きつけるものだけが目にとまり、そして手に取るのかもしれない。

新神戸駅のすぐ目の前にある新神戸オリエンタルホテルのホールを通る時、展示されていた器が目に入った。まぶしいほどに光輝く色彩ではない。驚くような奇抜な形ではない。使いやすさと生活感、そしてあくまでも食材を引きたたせようとする慎み深さに目が引かれた。なるほど。作者の石川勝也氏は、日本料理の料理人でもあった。

今、この器は、我が家の食器棚に置かれているが、決して強烈な自己主張をすることなく、静かに、使われることを待っている。大切にしよう。

坂を登り続ける子どもたち

湯河原駅近辺で児童養護施設城山学園までの道を聞くと、必ず「歩いて行かれるのですか」との問いかけがある。なぜなら、湯河原駅から東京方面にむかい、線路沿いを歩き、すぐのガードをくぐると、そこからはひたすら坂道を登り続けることになる。城山の中腹にある学園までの勾配は、想像以上に急であった。

 2004年の12月、宇留田貞子さんから、一通のクリスマスカードが届く。私自身はお会いしたことがなかったが、父が生存中に、たいへんお世話になった方。年の暮れである失礼をお許しいただいて、日本キリスト教団湯河原教会でお会いするお約束をした。お礼を申し上げたかったからである。

お話の中で、私が尊敬する大村勇先生、阿部志郎先生、山崎美貴子先生、飯田進先生等々のお名前が出され、宇留田さんの歴史が語られた。まさに神と人に仕えた84年の証であった。語られた歩みの中に、児童養護施設城山学園との長年の関わりをお聞きし、「是非訪問させていただけないでしょうか」とお尋ねすると、「多分、子どもや職員が少ない時期ですが、大丈夫だと思います。聞いてみましょう」とお返事をいただいた。

宇留田さんと、長男、私が乗ったタクシーは、ギアをロウにしたまま、坂道を学園に着くまでかけ登る。湯河原駅からは一区間ではあったが、私にとって、ほんとうに長い道のりの思えた。学園の玄関前で、たくさんの子どもたちが遊ぶ。例年より多くの子どもたちが、学園で正月を過ごすとのこと。

さまざまな理由で、両親と暮らせないたくさんの子どもが、自分の生活をここで生きる。そして、子どもたちには、それぞれの思いがある。それぞれの生き方があるし、それは自分にとっての人生。その事実に真向かった人々がいた。子どもたちの笑顔と、子どもたちの幸せと寄りそって、人生を自分らしく生きてきた宇留田さん、全国のたくさんの教会やYMCA等の関係者が、子どもたちのために物置をつくり、土手をつくり、庭をつくり、部屋をつくった。正月に帰れない子どもを実家に連れて行く職員。子どもたちの正月を心配する人たち。今、子どもたちと一緒に生き、また子どもたちを見守る人々がいる。

城山学園には、たくさんの人々の思いが埋まっている。学園は、求められる声に応じて、その役割を広げてきた。当初は1階の建物であったとお聞きしたが、必要に応じて、2階へ、そして3階へと、生活の場を積み上げてきた。学童保育、個別の勉強指導、ユニット化、地域での生活をすすめるぐるーぷほーむ指路(松島賞受賞)の建築などの取り組みは、日本における児童養護の歴史の縮図でもある。城山の傾斜に建てられた学園のその敷地で子どもたちが遊ぶ。時には、城山の庭で遊び、また急な階段を登り、笑い声をあげる子どもたち。彼らは、城山のすべてを遊び場にかえる。

城山学園から階段を登り、大分急な斜面を登ったところに墓地があるとお聞きした。そこには、病気でなくなって引き取る人がない子どもたち、不慮の事故でなくなった卒園生、担当牧師の遺骨が安置されているとのこと。城山学園は、そこで育った子どもたちの一生に寄りそう。そして同じ場所に、一生をかけて子どもたちと歩んだ方の遺骨が並ぶ。

毎日、子どもたちはその坂を登る。しかし、日本社会は、その登り方と頂上を、経済効率と経済的繁栄で意味づけた。そして「バスに乗り遅れるな」という合い言葉で、高度経済成長が進められたが、他方、たくさんの人々が、切り捨てられ、自分らしく生きていきたいと思いを捨てざるをえなかった事実がある。だからこそ、今、それぞれが、幸せを求めて歩む姿を大切にしようとする「オーダーメイドの社会づくり」が進められてきている。「Only one」という言葉に素直に共感する人も増えてきた。「老いの坂をのぼりゆき、かしらの雪つもるとも、かわらぬわが愛におり、やすけくあれ、わが民よ」(賛美歌第284番4節)という歌詞を私は好きだ。一生は、その人なりに頂上への坂を登りゆくことである。子どもたちも、明日への希望に導かれ、親族や職員に手を借りて、一歩づつ坂を登る。今、その事実を大切にしてきたかと、私たち一人ひとりが問われている。

城山学園から見る海がとてもきれいだった。大島、神津島等々が、いつもより透きとっていると言われる空が、海と島の美しさをうかびあがらせる。

子どもたちが、その目で、城山から見下ろす自然の豊かさと美しさと恵みを大切する社会にしたい。子どもたちの心を受けとめる社会にしたい。子どもたちが、将来への希望をもって、育っていける社会にしたい。この坂を、毎日、いろいろな思いをもって登る子どもたちの生きる姿を見守りつづけることが、今、私たちに求められている。

長野県民生委員大会

長野県の民生委員・児童委員の働きは、地域に根ざしたものであり、その実績は高く評価されている。前日、栃木県から上田に出て、バスで鹿教湯温泉に泊まり、丸子町に戻った時の気温は、30度を軽く超えていた。町役場でバスをおり、そこから荷物を引き、丸子町文化会館の到着した時には、広い長野県内の市町村からたくさんの民生委員・児童委員の方々が来られていた。講演とシンポジウムの間、その熱い情熱と、一言ものがさず聞こうとなさる姿勢に感銘を受けた。

テーマは、「地域に密着し、地域にこだわる活動」である。かって、小金井市のケアマネジメント研究会の責任者を3年にわたり担わせていただいた時、最後の会議で、参加しておられたボランティアの方から本をいただいた。その方は、佐久の病院長を長く続けられ、疾病率の高かった長野が健康推進県となる原動力となった若月先生の娘さんで、いただいた本は、若月先生の論文を集めたものであった。何かと長野とは縁がある。

<概要>

  1. 直面する地域福祉問題
    1. 介護・養育→(家族・地域関係の喪失と無理解)→虐待
    2. 孤立→問題の潜在化と深刻化→老化の進行や疾病の急激な悪化
    3. 家族負担→世間体・誤った介護者の意識・介護されるものの自立意識のなさ→介護地獄
    4. 学校・家庭以外の止まり木がない→出会いの場の限定と孤独感→非行・不満・閉じこもり
  2. 社会福祉における小地域福祉活動=住民が取り組む地域福祉活動とは何か
  3. 地域福祉活動の担い手=民生児童委員・福祉推進員に期待される役割
  4. 地域を耕すための連携