第3回地域福祉を推進するルーテル学院大学卒業生の集い・希望の会」研修会
8月24日(土)、第3回「地域福祉を推進するルーテル学院大学卒業生の集い・希望の会」が行われました。当日は、大学を会場にして35名、zoomで11名、合計46名の卒業生、教員が集まりました。
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共助社会づくり
8月24日(土)、第3回「地域福祉を推進するルーテル学院大学卒業生の集い・希望の会」が行われました。当日は、大学を会場にして35名、zoomで11名、合計46名の卒業生、教員が集まりました。
7月12日に北多摩南部ブロック社協会長等役員総会があり、「「再犯防止と生きづらさ~社協としてできること~」をテーマに、小林 良子 氏(公益社団法人東京社会福祉士会立ち直りを支える地域支援ネットワークづくり事業部副部長)の講演をお聞きしました。そして、所属社協の狛江市社協の方から、『狛江市第1次再犯防止推進計画』のことをお聞きしました。まだ分析をしていませんが、資料としてお伝えします。
宮城県民生委員児童委員協議会代表者研修の2日目の最初の講演者は、『ぼけますから、よろしくお願いいたします』という作品をの監督・撮影を行なった信友直子氏であった。衝撃的なテーマであり、私は、帰宅後、すぐにDVDを注文した。
以下、映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』の紹介文を引用します。
広島県呉市。この街で生まれ育った「私」(監督・信友直子)は、ドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター。18歳で大学進学のために上京して以来、40年近く東京暮らしを続けている。結婚もせず仕事に没頭するひとり娘を、両親は遠くから静かに見守っている。
そんな「私」に45歳の時、乳がんが見つかる。めそめそしてばかりの娘を、ユーモアたっぷりの愛情で支える母。母の助けで人生最大の危機を乗り越えた「私」は、父と母の記録を撮り始める。だが、ファインダーを通し、「私」は少しずつ母の変化に気づき始めた…
病気に直面し苦悩する母。95歳で初めてリンゴの皮をむく父。仕事を捨て実家に帰る決心がつかず揺れる「私」に父は言う。「(介護は)わしがやる。あんたはあんたの仕事をせい」。そして「私」は、両親の記録を撮ることが自分の使命だと思い始め−−−
娘である「私」の視点から、認知症の患者を抱えた家族の内側を丹念に描いたドキュメンタリー。2016年9月にフジテレビ/関西テレビ「Mr.サンデー」で2週にわたり特集され、大反響を呼んだ。その後、継続取材を行い、2017年10月にBSフジで放送されると、視聴者から再放送の希望が殺到。本作は、その番組をもとに、追加取材と再編集を行った完全版である。娘として手をさしのべつつも、制作者としてのまなざしを愛する両親にまっすぐに向けた意欲作。
また、2作目には、副題に〜おかえりお母さん〜とかかれていた。
映画の紹介を引用します。
東京で働くひとり娘の「私」(=信友監督)は、広島・呉市に暮らす90代の両親を、1作目の完成後も撮り続けた。18年、父は家事全般を取り仕切り、日々奮闘しているが、母の認知症はさらに進行。ついに脳梗塞を発症し、入院生活が始まる。母に面会するため、外出時には手押し車が欠かせない父は毎日1時間かけて足を運び、励まし続け、「いつか母が帰ってくるときのために」と、98歳にして筋トレを始める。その後、一時は歩けるまでに回復した母だったが、新たな脳梗塞が見つかり、病状は深刻さを極めていく。そんななか、20年3月に新型コロナウイスが流行し、病院の面会すら困難な状況が訪れる。
予告編は、穏やかなピアノの曲が流れるなか、愛らしい笑顔で話す父の姿から始まり、「認知症になった母を90代の父が支え、ふたりで暮らす物語。――それには、こんな続きがありました」と、信友監督の語りが見る者を“物語”へと誘う。入院することになった母が、見舞いに来た父にかける「手がかかるようになってごめんね」という言葉。病床の母に、父が伝える「ありがとね。わしも、良い女房をもらったと思っています」という感謝。セリフではない、自然と発せられた何気ない言葉の端々から、お互いを気遣う優しさと愛がにじみ出ている。
場面写真は、林檎を持ってポーズをとる母や、筋トレをする父など、夫婦の人柄が伝わるものをセレクト。現実を冷静にとらえようとするドキュメンタリー監督としての立場と、実の娘であるというふたつの立場で葛藤しながら撮影を続けた信友監督が、「人生の最終章は悲しいだけではありません。お互いを思いやり、かわす笑顔もありました」と語る通り、それぞれの写真から、ふたりの楽しい日々と、深い絆が伝わってくる。
高齢期は、喪失の時代と言われます。具体的に喪失とは、身体的機能の喪失、友人や親族の喪失、役割の喪失、そして死の危機を言います。誰もが直面するかもしれない認知症、加齢より増し加わる困難な状況。72歳の自分の、これから始まる本格的な老いの状況を考えると、高齢者福祉の専門職と自負していた私も、正直不安になる。
私がこの映画を見て思った感想を述べたい。
老夫婦の生きていく姿を見て、率直に感動しました。妻が認知症にかかり、進行する中で、今までできていたことができなくなっている妻を支える夫。夫自体も高齢のため、聞く力は衰え、腰は曲がり、様々な困難に直面する。さらに妻が脳梗塞を発症し、入院となりました。しかも、症状が改善するする前に、再度の脳梗塞。徐々に会話も難しくなります。しかし、妻の回復を願い、家庭でケアすることを目指す夫。夫婦が長年培った労りの気持ち、愛情が自然な形で表され、私は、当事者の生き方に引き込まれました。
どうして、それが可能であったのでしょうか。私は、娘の信友氏の存在が大きかったと思います。東京での仕事と親がいる呉市を行き来し、どこまで自分の介護を悩む日々。そのことを知って、自分たちで生活しようとする両親。映画ができて公開される時に、観客の方々に、娘のことをお願いする老親の姿を見て、信友さんと親の絆を見ました。そして、介護の節目で、いつも信友さんが登場して撮影している。ご両親は決して孤立することなく、地域の医療機関、商店街等からもバックアップされている。また、娘が撮影者・監督だから、家の中をすべて見せたし、生活の状況を明らかにしたのでは。
介護問題は、本人及び介護者の孤立問題だと、改めて確認できた映画であった。
また、地域ケアに長年携わってきた者として、いつも教訓にしていることは、利用者に介護を受けることに罪の意識を持たせないこと。お母さんは、脳梗塞の病の床にあって、お父さんに迷惑をかけてしまうことを詫びた。また、何もしてあげられない自分を責めた。この状態に置かれた方々に対して、専門職が一緒にいること、悩むことなく、その方々の足になり、手になって、日々の生活を安心して送って頂くために私たちがいることを、どのように理解して頂くか、担い手の真価が問われることになるのである。
2024年7月16日・17日に、同研修会が開催されました。私は、たびたび会長研修にお招きされてきた。ふりかえって、2011年3月11日の前も、また東日本大震災以降はさらに、宮城県内の民生委員児童委員協議会、社会福祉協議会、市町村との私の関わりは続いてきました。震災当時の大混乱の時にあって、絶望の底から這い上がってこられた方々の姿を、2020年3月に、石巻市社協と石巻市の地域福祉アドバイザーをやめるまで、10年の間、私は見てきました。ですので、その行動に、心から敬意を表し、たくさんのことを教えていただきましたことを改めてお礼を申し上げたいと思います。私の今は、この経験によって築かれています。
特に今回は、「災害に備える民生委員児童委員活動について」というテーマを与えられ、私は何をお伝えすることができるか、大いに迷いました。宮城県内の多くの被災地の民生委員児童委員の方々が来られており、軽率な発言は、参加者に失礼になるからです。そこで、私は、10年近く関わった経験をふりかえり、実際、それぞれの地域で体験したことをまとめることにしました。まだ、その評価を頂いてはいません。荒い経験でしかないかもしれませんが、勇気をもって、お示ししようと思いました。
https://www.dropbox.com/scl/fi/x2fgp4x6x0kuoykrvm8jd/2024.pptx?rlkey=k1zwhit0wkwg1g0ysbwafxdh4&dl=0
ご出席頂いた方々には、今後とも、ご指導賜りますことを、お願いいたします。
私の家は、小学生が通う道にあります。聞こえてくる子どもたちの声が、1日の始まりを告げる合図のようです。
その日は、久しぶりに晴れて、すがすがしい朝でした。私は、ほとんどの子どもたちが通り過ぎた時間に、プラスチックゴミをもって、外に出ました。私の家はT字路の右にあり、写真の道は、右の道です。子どもたちは、その道をしばらく歩いて左に曲がり、しばらく歩いて道路を渡り、小学校に入っていきます。
ところが、ほぼ小学生が通り過ぎた時間に、低学年であろう男の子がゆっくりと戻ってきました。足下が少しおぼつかなかったので、私は心配して見ていますと、案の上、躓いて転び、顔や手をぶつけたようでした。私は思わず掛けより、抱き起こして土を落としていると、消え入りそうな声で、「忘れ物をして、家に取りに行きたいの」と話してくれました。子どもは、低学年のA君でした。
すぐに妻を呼び、A君の手についた血を濡れたティッシュで拭き、出てきた鼻血の止血をしました。大声で泣くことはしませんでしたが、涙が何度も溢れてきました。少し落ち着いてきましたので、一緒に家に行こうかと問いかけたところ、頷いたと思ったので、何度も確認しながら、歩いて行きました。心配で、ほっておけないという気持が私には強くありました。
私はお母さんに会って事情を説明しました。A君は安心したのでしょうか。大きな声で泣きながら、帰ってきた理由を告げている様子が外にも聞こえてきました。また、私は、小学校の担当が心配するいけないので電話し、A君のこの間の事情を説明し、私の名前と住所も告げました。
私は、一人で戻ってきて転び、痛みと不安で体を震わせていたA君の姿が忘れられません。いろんな思いが心の中を駆け巡ります。
私は、多くの子どもが直面する問題を知っています。ただ、繰り返しになりますが、体を震わせていたA君のことが心に残っています。確かに、誰もが経験する成長の出来事かもしれません。しかし、誰もがそのような経験をして、育っていくなら、一人で歩くことができるまで、あくまで限界があるとしても、少しはできることをしてあげたい。例えば、一週間に1回、子どもが通り過ぎる間中の午前7時40分から8時20分まで、自分の家の前に立って、子どもたちとおはようの挨拶をする。そんなことを考え続けていました。
そこで、私は、まず私が住む東部地域を担当する地域福祉コーディネーターに相談しました。そして、①地域における子どもの生活状況、②小学生の登下校の見守りをしている、例えば老人クラブ等の活動の有無、③子ども食堂や世代間交流等のボランティア活動の実態、④ゆるやかな見守り活動、顔の見える相談・お話相手、イベントの開催等を行う「ほのぼのネット」の活動、⑤支え合いの仕組みづくりをめざす諸団体・関係機関やボランティアと行政との「地域ケアネットワーク」の活動、⑥各学校に設置され、保護者や地域住民が、学校とビジョン(めざす子どもの姿)を共有し、協働しながら地域ぐるみで子どもたちの成長を支える「コミュニティ・スクール委員会」の取り組み、⑦駐在所のお巡りさんの取り組み等を調べて頂き、6月に2回打ち合わせをしました。その結果、7月より、月曜日の朝、午前7時40分から8時20分の間、家の近辺の掃除をしながら、子どもたちに声かけをすることにしました。
皆さんは、どう思いますか。じいさんの出番ではないかもしれません。しかし、見守りをしながら、子どもたちの成長に貢献したいというちょっとした思いが実現できる地域でありたいのです。もし、子どもたちに迷惑がかかったり、子どもたちが不愉快な気持になるようでしたら、すぐに撤退します。
2024年7月6日(土曜日)、三鷹産業プラザ7階で、早稲田稲門会三鷹支部の総会があり、その後、三鷹市の河村孝市長が市政報告を、市川が講演を行った。私の3時50分から4時40分の50分の講演の間中、外では雷鳴が鳴り響き、大量に降り注ぐ雨の音が聞こえていました。
内容は、どうぞ、私のレジメをご覧下さい。嵐を呼んだレジメですが、三鷹の稲門会でしたので、三鷹のサービスを中心に、私が信条としているごく当たり前のことが書かれています。72歳を迎えた私自身の思いでもあります。ただ、可能であるかどうかは、不安もあります。
終わった時には、雨はやみ、次の会場には、傘もささずに移動できました。
2024年6月17日、世田谷区共同募金配分推薦委員会があり、そこで今年度の取り組みが確認されました。また各地域協力会の代表の方々より、募金活動についてのご苦労をお聞きしました.
それぞれの町会の考え方もあり、共同募金をどのように理解して頂くか、話し合われました。その情報交換の中で、世田谷区社協の会費募集の資料がとてもわかりやすいという意見が何人からも出され、今後、募金活動も参考に共募の広報活動を強めていくことになりました。
ご紹介します。
https://www.dropbox.com/scl/fi/2a46ab57cwkgt04gu2qhs/R6.6.1.pdf?rlkey=9ifwmfucef2qfjeyf2ilm10hz&dl=0
三鷹市社会福祉協議会合同部会研修会
令和6年6月5日(水) 午後2時~3時30分、改選後の部会員(新任含む)と社協職員の計約80名を対象に、「地域福祉活動計画Ⅶ」をテーマに研修会が行われました。私は最初に20分程度で、計画の概要版
https://www.dropbox.com/scl/fi/lz2jgb3ho7pwnolnpqnet/.pdf?rlkey=jmlw35ihgio4zuxq78wwglyha&dl=0
に基づき、講演を行いました。その内容をご紹介します。
地域福祉活動計画Ⅶについて
ルーテル学院大学
名誉教授 市川一宏
1.広がり、深刻化する今日の地域福祉問題
2023年度はm三鷹市、小金井市、調布市、練馬区等において、第9期介護保険事業計画・高齢者保健福祉計画の策定の責任を担わせて頂いた。しかし、私は、危惧している問題に対する決定的な打開策を見出していない。
・70数万の人口をもつ練馬区において、2023年に自宅で熱中症で亡くなられた方は、20数名に及んだ。
・「孤独・孤立の問題への対策をめぐり、政府は5月13日、今年の1〜3月に自宅で亡くなった一人暮らしの人が全国で計2万1,716人(暫定値)確認され、うち60歳以上の高齢者が約1万7千人で8割近くを占める現状を明らかに。年間の死者数は約6万8千人と推計」(朝日新聞5月14日)⇒孤独・孤立政策推進法
・「認知症」とは、様々な脳の病気により、脳の神経細胞の働きが徐々に低下し、認知機能(記憶、判断力など)が低下して、社会生活に支障をきたした状態をいいます。日本では高齢化の進展とともに、認知症の人も増加しており、65歳以上の高齢者では、平成24年度(2012年度)の時点で7人に1人程度とされ、年齢を重ねるほど発症する可能性が高まり、今後も認知症の人は増え続ける⇒認知症基本法
2.三鷹市地域福祉活動計画の特徴
<計画策定プロセス・7つの実践目標・10の重点活動
3.三鷹市社会福祉協議会は何をすべき?、何ができる?、何を求められている?
①接ぎ木の活動 自らの活動を検証する
三鷹市における3つのC Community(コミュニティ)=コミュニティセンターの住民協議会⇒ケアネットワーク・ほのぼのネットというコミュニティ政策、Citizen participation(市民参加)=市民会議、Collaboration(協働)の伝統を継承すること。接ぎ木であることの大切さ、
②社会福祉の概念の広がり 本年3月の全社協(社協基本要項第1次案)は、使命として「住民主体の理念に立ち、住民や地域の関係者と〝ともに生きる豊かな地域社会づくり〟を進める」を新たに規定
目指す地域社会を描く大切さ
③協働 同要項2025では、社協が協働する地域の関係者の例として、具体的に社会風刺法人、民生児童委員、ボランティアだけでなく、企業や医療、教育、司法など福祉分野以外の関係者を明記した。 ⇒ケアだけでなく、まちづくりを念頭に置いた取り組み=当事者の自己実現・社会参加、個々の違いを認め合う共生社会の実現
④福祉人材が集まらない現状が顕在化しています。民生委員児童委員も欠員状態が続いています。しかし、地域の問題はますます深刻化しています。問題が深刻である故に、担い手は疲れています。私は思います。例えば、民生委員児童委員が足りないと言われますが、これは民生委員児童委員だけの問題ですか。地域の問題ではないですか。協働すべきネットが、いたるところで切れています。ならばそれを繋ぐ作業が大切です。
⑤能登半島地震の被害は深刻で、日本中を震撼させました。しかし、能登半島の復興は、遅々として進みません。また今まで私が経験してきた東日本大震災被災地支援について振り返りましたが、今もって、何をすべきであったか、何が相応しかったか、絶対的な正解を見出しえなかったのです。今一度、被災地の現状をふりかえり、自然災害はどのような困難を生み出し、復旧復興に何が必要か考えていくこと、すなわち被災地と協働した防災、災害対応について考え、自分が住むこの三鷹の地で、災害に強い地域を検討することが急務と考えます。
⑥地域を繋ぐ専門家を支える仕組みを
社協の地域福祉コーディネーターの仕事を、皆で共有していくこと。重点事項の強化を!
社協が、皆さんの取り組みのプラットホームになってほしい。
そもそも三鷹市社協の1つの特徴は、住民や当事者、民生委員児童委員、ボランティア、関係団体等で構成される啓発・組織強化部会、地域支援部会、生活支援部会、ボランティア活動推進協議会という部会が作られ、そこで議論されたことが、計画やその実施に反映されることであり、社協運営に関する重要な役割も担って頂いていると思います。
計画との関係は、以下にお示しします。
https://www.dropbox.com/scl/fi/5c8jffec7kk40ed8sxz7p/.pdf?rlkey=0v7cpbkar7f9hgideondzfmvx&dl=0
その後、各職員が、概要に書かれた重点課題を簡潔に説明し、そして各部会の話しあいに入りました。
確かに、今日の地域福祉問題は解決が困難です。国の財政の借金も膨大になっている。このような社会を、私の孫たちに自信をもってバトンタッチができるのでしょうか。本当に申し訳ないと思います。ただ、1本の木を植えなければ、砂漠の緑化はできません。今までの活動を受け継ぎ、それに接ぎ木してあらたな活動の生み出し、私たちが目指す社会を描いていく。そのような1つひとつの実践が必要とされていると思います。ですので、挑戦をやめるつもりはありません。
2024年6月12日
市川一宏
2024年5月18日(、東京発9時53分ひたち7号に乗り、いわきに向かい、そしてJR常磐線各駅に乗って13時12分に双葉に着きました。東日本大震災・原子力災害伝承館を訪問するためでした。しかし、急遽、いわきに戻ることになりましたが、引き返す電車の時間まで1時間半あり、待つ間、近隣を歩きました
そもそもJR常磐線は、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の影響で不通区間が残っており、2020年3月14日、富岡―浪江間(20.8キロ)で運転を再開し、9年ぶりに全線がつながった線です。双葉駅は無人駅でしたが、きれいな新しい駅で、線路を境に海の反対側には復興住宅が建てられていました。しかし、海側の土地は、雑草が生い茂り、廃屋が残されていました。その写真です。
私は、違和感を感じながら駅の近くを歩きました、私が感じた違和感の理由を後から知ることになりました。翌日頂いた資料を見ますと、双葉町は帰宅困難地域で、私が歩いた場所は、特定復興再生拠点地域で、双葉町の大部分は、帰還困難地域でした。福島原発事故の終息がいつ来るかはまったく見えていないことがわかりました。
2021年2月11日の東京新聞には、双葉駅に関して、以下のことが書かれていました。
「住民のいない町」JR常磐線双葉駅のある一日<あの日から・福島原発事故10年> 東京電力福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)から4キロの場所に、JR常磐線双葉駅がある。新しい駅舎に隣接する旧駅舎の時計の針は「2時47分」を指したまま、10年前の地震直後から動かないのだろう。昨年3月に駅周辺や沿岸部の一部で、許可証なしの立ち入りが可能になったものの、インフラ整備の遅れで町民が生活できるのはまだ先。今月5日、「住民のいない町」の一日を玄関口である駅で追った。
5時56分 東の空にわずかな赤みが差す。いわき(福島県いわき市)行きの上り一番電車に乗降客はいない。無人の改札で、空間線量計のデジタル数字が赤く光る。
7時5分 原ノ町(南相馬市)行きの下り普通電車から、沿岸部にできた町産業交流センターに入る企業で働く神田秀一さん(53)=楢葉町=が同僚と降りた。「車の方が便利だけど、双葉町で働く人間としてせっかく復旧した交通機関を使いたいので」。町のシャトルバスに乗り込んだ。運賃は当面無料だ。
8時20分 「電車は風が吹くとすぐ遅れちゃうから、みんな車だよ。駅は立派なんだけどな」。シャトルバス運転手の奥田邦勇さん(72)がぽつり。20分ほど待つも、無人で出発した。 以下省略(HPよりご覧になれます)
双葉駅の壁に設置されていた空間線量率測定器
そのような背景がある駅とは知らず、原発事故の影響が続いている現状を実体験しました。そして、常磐線の線路の下はコンクリートで固められていますが、それは線量を下げるために行われていることも後から教えて頂きました。東日本大震災が起こった2011年3月11日から13年経ちますが、被害の状況は現存し、かつより深刻化していました。
私は、その後、いわきに戻り、遅い昼食を食べて、再びJRに乗り、双葉駅を通過して、宿泊予定の南相馬市の原ノ町駅に向かいました。その車窓から見えた夕焼けが、水田に映る景色を見て、自然に抱かれている様な温かい気持ちになりました。
5月19日(日曜日)、食事の後すぐに、Youtubeの阿佐ヶ谷教会の礼拝が始まる前の時間、ホテルの自転車を借りて南相馬市原町シーサイドパークに行きました。海岸には、きれいな広い砂浜が広がり、水遊びを楽しむ親子連れや、サーフィンをしてる人、犬を連れて散歩している人たちがたくさんいました。
左には、原町火力発電所がありました。約12年前に、全国の社協職員から寄せられたお見舞金を持参して南相馬市社協を訪問した時に、福島原発事故の前に、火力発電所の爆発があったことをお聞きしていました。
なお、海岸までの道は、登りあり、下りありで、さらに幹線道路から脇道に入ると、蛇行していました。帰りも長い坂を上り、予定通りホテルに戻ってきましたが、それほどの疲労感を感じませんでした。自然の美しさを味わいながら、すがすがしく晴れた空の下で、自転車を漕いでいたからと思います。
午後2時には、カトリック原町教会のミサに出席をしてきました。私の所属教会は、カトリックではありませんが、ロウソクがいたるところに置かれた礼拝堂の中で、幸田先生から語られる愛には、強い説得力を感じました。
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原町教会の幸田和生司教様にお会いし、先生が代表をなさっておられた21世紀キリスト教社会福祉実践会議のこれからの運営について、ご助言を戴くことは、今回の訪問の重要な目的でした。同実践会議については、後日ご紹介させて頂きます。
ミサの後、幸田先生に東京から福島の浜通りに教会を移られた理由をお聞きすることができました。幸田先生は、先の原発事故の後の被害の地図に示されているように、まだほとんどが解決できていません。土地を追われた住民、今までの大切な絆を断ち切られた人々、急激な少子高齢化によってコミュニティの機能が失われた場で生活を続ける人々とともにありたいという強い思いに、私は心を揺すぶられました。
隣接するカリタス南相馬にお伺いし、神父様、シスターの方々、担当スタッフと食事を頂きました。なお、驚いたことに、そのスタッフが、20数年近く会っていなかった卒業生でした。心より感謝しました。
最後に、カリタス南相馬の紹介をさせて頂きます。代表の幸田先生は、以下のように語られています。
2024年を迎えて 世界的にさまざまな問題・課題を抱えながらも、喜びと希望をもって新年を迎えようとしていたところ、いきなり1月1日に能登半島に大きな地震が起こってしまいました。この文章を書いている時点で地震発生からまだ4日しか経っていませんが、次第に明らかになる被害の大きさに驚くばかりです。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方がこの困難を乗り超え、一刻も早く生活を取り戻すことができるようお祈り申し上げます。
わたしたちカリタス南相馬は東日本大震災と原発事故以後の歩みの中でさまざまな経験をしてきました。今回の被災地からは遠く離れていますが、これまでの経験を活かしながら、わたしたちにできることを見つけていきたいと思っています。
今年のカリタス南相馬のキャッチフレ「見さ来ぅ南相馬!」としました。そのことを紹介した『東京教区ニュース』第409号(2024年1月1日発行)の「福島の地から〜カリタス南相馬」という文章ですが、肝心の年号を間違えて原稿を提出してしまいました。訂正した文章を以下に載せますので、どうかお読みください。 わたしも含め、スタッフ、シスターも高齢化してきて力の衰えを感じることがあります。いろいろご迷惑をかけるかもしれませんが、今年もよろしくお願い申し上げます。
2024年1月5日 一般社団法人カリタス南相馬代表理事 幸田和生
「見さ来ぅ南相馬!」
「見さ来ぅ南相馬!」というのは、2024年のカリタス南相馬のキャッチフレーズです。「みさこぅ」と読みますが、浜通りの言葉で「見においで」という意味です。カリタス南相馬の前身であるカリタス原町ベースは、全国から東日本大震災被災地に来るボランティアの方々に宿と食事を提供するために始まりました。その後、ボランティアだけでなく、特に原発事故の被災地の現状を知りたいという方々も受け入れて、その方々の案内をするのも、わたしたちの重要なミッションと考えるようになりました。しかしこの3年間、新型コロナウイルス感染症の流行によってカリタス南相馬では宿泊者の受け入れをすることがほとんどできませんでした。2023年の夏は大幅に制限を緩和することができて、多くの人、特に高校生や大学生のグループを受け入れることができました。そこで、2024年は、以前カリタス南相馬に来られた方で、久しぶりに福島に行ってみようかという方、またボランティア活動をしてみようという方、さらにまだ行ったことはないけれど福島県浜通りのことを見たい・知りたいという方を大いに歓迎したいと考えています。
福島の原発事故は過去のことではありません。今も福島第一原発には大量のデブリが残ったままで、その処理や廃炉の目処は立っていません。一方で周辺地域の状況は年とともに変わってきています。ALPS処理水の海洋放出の問題、除染によって出た除去土壌の再利用の問題は決して福島だけの問題ではありません。政府が原発の再稼働や増設・新設に向けて動き始めた今だからこそ、原発事故の影響が今もどのように続いているか、あの震災と事故から学ぶべきことは何なのか、自分の目で見て考えることが大切だと感じています。
来てくださった方々には、震災からの復興状況や原発事故の現在だけでなく、福島県浜通りの四季の風景、この地ならではのイベントや美味しいものなども紹介していきたいと考えています。
「ミサコゥ」という言葉は、カトリック信者にとっては「ミサに来てね」と聞こえるかもしれません。そう受け取ってくださっても良いのです。この地でミサにあずかり、この地で祈ることに大きな意味があると感じています。「巡礼のつもりでここに来ました」と言われる方も少なくありません。福島は自然との関係やわたしたちの生活を見つめ直す回心の地でもあると言えます。
東京駅から南相馬市原ノ町駅まで、常磐線特急で約三時間半。どうぞ皆さま、「見さ来ぅ南相馬」、
975-0006 福島県南相馬市原町区橋本町1-15 0244-26-7718 / FAX 0244-26-8007
info[@]caritasms.com https://caritasms.com/ https://www.facebook.com/caritas.minamisoma/
これからも、カリタス南相馬の活動から学んでいこうと思っています。皆さんも、カリタス南相馬の活動にご協力ください。
2024年5月24日 市川一宏
今日、社会福祉法人こころの家族が経営する故郷の家・東京の地域交流スペースで開催されている星野富弘画詞展に行ってまいりました。
私にとって、星野富弘氏の作品からたくさんの勇気を与えられていました。その星野さんが、4月28日に天国に召されたことを、5月になって知りました。以前より予定されていた画詞展でしたが、ご本人がご逝去なられて初めての画詞展になったとのこと。改めて作品と出会い、改めて星野氏の思いを学んできました。
生きることの大切さ、生きていることの感謝を改めて感じた時でした。