社会福祉関連
2012年10月、長崎県民生委員大会で講演をさせていただいた。テーマは「つなぐ心 地域の絆づくり〜期待される民生委員・児童委員とは〜」である。たくさん委員の方々が、地域から来られていた。島部から船に乗られて来ておられる方々も少なくない。感謝を込めて、私自身が委員の方々から教えていただいたことを精一杯、お伝えした。大きな会場で会ったが、会場の庭には、小さな石像が置かれていた。このような気持ちが、民生委員の方々の思いであると思っています。
会場から長崎空港に向かう時、太陽が輝いていることに気がついた。車をとめていただき、写真を撮った。明日はきっと希望の太陽が昇るだろう。民生委員・児童委員の方々が、毎日、地域の方々に届けようとしているように。
なお、地域で、深刻な生活問題が顕在化している。その問題に取り組んでおられる民生委員・児童委員の方々の働きに、心から敬意を表したい。そして、その活動を支援する仕組みを作らないと、委員の方々が燃え尽きてしまう危険性がある。
以下、私が月刊福祉に執筆した内容をお伝えしたい。感謝を込めて。
『民生委員・児童委員』
1.はじめに
2011年3月11日、東日本大震災が起こり、亡くなられ、行方不明になられた方々のご冥福をお祈りし、被災地で復興を目指しておられる方々の希望の光を覚え、これからも支援していくことの大切さを強く思う。被災地の復興は、私たちの未来である。と同時に、ほぼ同じ人数の方々が、毎年自死しておられる、いわゆる無縁死という事実を忘れてはならない。今、私たちは、どのような日本社会を創るのか、復興を通して、子どもたちにどのような社会を引き継いでいくのかという問いに答えていく使命があると考えている。
民生委員制度は、大正6年に岡山県に設置された「済世顧問制度」と、大正7年に大阪府で始まった「方面委員制度」が始まりである。今に至る90数年、
民生委員は、「社会奉仕の精神をもつて、常に住民の立場に立って相談に応じ、及び必要な援助を行い、もつて社会福祉の増進に努めるものとする。」(民生委員法第1条)の精神に基づき、様々な課題に取り組んできた事実がある。その歩みに敬意を表しつつ、新たな社会づくり、まちづくりに共に取り組みたいと願うものである。
2.民生委員・児童委員の悩み
1年にわたり、民生委員推薦のあり方を検討した際に、民生委員・児童委員の方々から活動のやりがい、悩み、苦労についての意見をお聞きした。日頃の活動として、「高齢者の好みが様々であり、また、なかなか心を開いてくれないため、支援のきっかけがつかみにくい」「障害者のいる世帯の将来が心配になる」「子育て中の家庭の貧困化や、不登校児童の問題など、児童の問題は複雑多岐にわたっており対応が困難」「様々な相談が寄せられ、予想外の相談や、対応困難なものもある」「セキュリティの整ったマンションの訪問、一人世帯の方への訪問が困難」「新住民との接点の結び方や、自治会のない地域での住民との連携、働く世代との関わりが難しい」と言われた。そこには、今日の地域における課題が明確に示されている。これに対し、「民生児童委員として、何を求められているのか不明確に感じる」「学校や関連機関の事業・会議が多い。本来ボランティアがすべき仕事や募金・調査など、活動以外の仕事が負担となる」「市民の民生児童委員に対する認識度が低く、職務を行う上で支障を感じる」「行政等からの依頼事項が多い。また、個人情報の関係で連携が困難」という、民生委員・児童委員活動を妨げる要因が、本来は連携して課題に取り組むはずの行政、相談機関や施設、社会福祉協議会等により生み出されている事実が散見される。個々のニーズに対応し、それぞれの委員がどのように関わるのかという合意がなされていない。また漠然と役割を期待されても、委員自身どのように連携すれば良いか戸惑うばかりである。また、情報の共有や研修、日常的な相談を通した活動支援が行われなければ、燃え尽きて「眠生委員」となるのは当然である。これらの民生委員・児童委員の悩みに答えていく責任が、専門職および機関・団体にある。
3.今日の地域福祉課題
2007(平成19)年7月、「民生委員制度創設90周年活動強化方策<広げよう 地域に根ざした 思いやり>100周年に向けた民生委員・児童委員行動宣言」(全国民生委員児童委員連合会)が採択された。その内容は、今日の福祉課題を認識し、それに取り組む活動を提起したもので、人と人との絆を再生しようとしたものでもある。
児童や高齢者虐待、死亡後長期間発見されない男性単身者が増加し、自殺者は1998年以降3万人を超え続けている。また、高齢者・障害者の消費者被害が顕在化し、特に、一人暮らしの高齢者が格好の標的になっているが、被害にあった自覚のない人も多い。高齢者、障害者、さらには、日本語のわからない外国人などの災害時要援護者の避難支援等が課題となっているが、これらの根源には、孤立・孤独という共通の課題がある。すなわち、「絆が切れた社会」の姿が見えてくるのである。
第一に、明日への希望が見えない現実がある。ある小児科医が、多くの青年が非行にはしらない4つの理由をあげた。第1は適度な忙しさ、第2は関心事があること、第3は家族や友人との心の繋がり、第4は明日への希望である。お金を失うと生活の危機、名誉を失うと心の危機、希望を失うと存在の危機と言われる。困難な状況にあっても、また乗り越えなければならない多くの課題があっても、一人ではなく、共に考え、悩み、そして明日への歩みを応援する人がいることを伝え続ける絆を大切にする社会でありたい。
第二に、コミュニティとは、生活の場、存在が守られる場、休息の場、安心できる場、自分らしくいられる場、生産と消費の場、ともに学ぶ場、それぞれの人と出会う場、助け合う場、家族が生活する場、保健医療福祉等のサービスを利用する場である。そして、地域に対する愛着、アイデンティティ、相互の関わりがないところに、コミュニティは存在しない。そこには、明らかに、住民関係があり、共に生きていくための一定の合意が必要となる。このコミュニティ、すなわち絆をたえず築いていく社会でありたい。
第三に、経済至上主義は、巨大な消費社会を作り上げた。そして、生産的であることが価値、生産的でないことが非価値となり、その対比がそのまま「善と悪」の考え方に結びつくならば、互いを支え合う共生社会を築くことができない。一人の存在を認め合い、困難に直面する声なき声があるならば、それを代弁して、連帯して解決していく社会でありたい。
第四に、まちづくりの視点が大切である。農業、林業、漁業が衰退してきた結果、山間地域、海岸地域が過疎地域となった。それぞれの地域の強みを最大限活用した、働く場の開拓を含めたまちづくりのできる社会でありたい。
それらの関わりに、民生委員・児童委員は重要な働きをしてきたのである。
4.地域住民の生活を支える民生委員・児童委員の役割
①地域に散らばるアンテナとしての役割
生活苦に直面している人・家庭を発見する受信アンテナと、必要な情報を提供する発信アンテナの役割が必要である。民生児童委員は、たとえば「一人の不幸も見逃さない」ことを目標に掲げ、全国各地で伝統的な見守り活動を実践してきた。そして、孤立し、必要な情報が届かない住民に対し、様々な工夫をしてきた。そもそも情報は、当事者、サービスや施設、専門職等多様である。また直接本人からの相談以外に、同僚、住民、介護者等を通じて入ってくる情報、ボランティア活動の場に行って得る情報もあり、受信アンテナとしての役割は大きい。他方、必要な援助を知らず、また誤解して利用しておらず、困難な状況にある住民に対して、理解しやすい情報を届け、説明を加えて理解をすすめ、さらに一緒に相談機関を訪問する等、発信アンテナとしての役割も担っている。
②専門機関や専門職につなぐ役割
民生児童委員は、得た情報を、つなぐ役割をもっている。特に、経済的な問題だけでなく、家族問題、心の問題等が重なっている場合、民生児童委員だけで対応することが難しく、迅速かつ確実に必要な所に情報をつなぐことが不可欠である。なお、このためには、得られた情報を通し、何が課題なのか把握し、つなぐか所を確認すること、対応の緊急性を判断する知識が求められる。
③住民や関係機関と協働する役割
住民の生活全体を支えるために、住民、自治会、町内会、保健医療福祉機関、ボランティア団体と協働した取り組みが大切である。また、必要な場合には、当事者の情報を共有し、対応を明確にして、それぞれの役割を合意することが必要である。特に児童や高齢者の虐待に対しては、迅速かつ総合的な対応が求められる。児童虐待は、経済的困難と親族・近隣・友人からの孤立が要因となり、高齢者虐待は、本人の認識がない場合もあり、多くは発見が遅れる。過重な負担を一人で抱え込んでしまう養育者や介護者に対し、関係者間の日頃からの情報交換、支援のための協議や研修が欠かせない。
④代弁者としての役割
今までご指導いただいた民生児童委員の働きは、困難な問題を抱えている住民とともに歩み、その心に希望の火をともし続けてきた働きであった。そして地域問題を見過ごすのではなく、実像として把握するために、その情報を必要な機関につなぎ、当事者を代弁していく役割を担ってきた。約30年数前、県福祉総合計画をたてるために1週間現地調査に入り、ホームヘルプサービスについてお聞きしたが、その必要性を主張したのは、民生児童委員だけであった。
⑤新たなサービスを開拓する役割
「繰り出し梯子」とは、公的サービスを必要とする人にサービスが届かない現状を打開するために、狭間を埋め、支援していく柔軟かつ先駆的な活動を意味する伝統的な言葉である。今日においても、公的サービスだけで生活困難な状況を解決することはむずかしい。ふれあいいきいきサロン活動は、高齢者、障害者、子育て中の親等を対象に、地域を拠点にして、住民である当事者とボランティアとが協働で企画をし、内容を決め、運営していく仲間づくりの活動である(全国社会福祉協議会『「ふれあい・いきいきサロン」のすすめ』)。2006年の介護保険の改正によって介護予防が強化されたが、その実績はすでにサロン活動で積み重ねられており、同活動に関わっている民生児童委員も多い。
⑥まちづくりの推進者としての役割
前号の絆社会、共生社会、連帯社会、参加社会を目指すことためには、住民の福祉理解を促進する取り組みや、住民自身が自分の問題として地域問題を理解する機会を提供する、日々の活動や継続的取り組みによってはじめて実現するものであり、民生委員活動の意義はそこにある。
5.民生児童委員の活動を支援する仕組み
以下、西東京市において議論した要約をお伝えする。
①役割の明確化
役割が多様化し、またたくさんの会議等に出席することによって、多忙になっている傾向にある。それぞれの地域において、中心的役割を明確にする必要がある。
②日常的活動を支援する仕組み
民生児童委員が、日々の活動の中でさまざまな課題を抱え孤立することのないよう、同協議会や事務局が、相談を受け付け、連携して課題解決に取り組むこと。必要な場合、専門機関の援助を受ける体制を整えること。経験の長い委員が新任委員のフォローを行なうなど、各地区の実情に応じた支援体制の構築が求められる。
③民生児童委員協議会に対するバックアップの体制
同協議会活動の自主的活動を支援するために、行政や社会福祉協議会との連絡会議等による日頃からの緊密な連携が望まれる。
④市民全体に向けた民生児童委員の役割と活動に係る広報の強化
⑤民生児童委員の代表者が計画の段階から加わった研修の実施
以前、全国民生委員児童委員連合会元顧問故光田釥(きよし)氏にインタビューを行った。そこで、光田さんが語られた以下の言葉をもって、私の役割を終えたい。「民生委員制度が90年近くも連綿として続いているのは、この専門性<民生委員法の基に行動する専門的な立場>と生活者の視点という両面性をきちんと調和させながら、先輩の民生委員・児童委員たちが取り組みを進めてこられたからだと思います。この世界に数少ない活動に誇りをもって、私たち一人ひとりの民生委員・児童委員が活動や制度を支えているという気持ちで取り組んでいただきたいと思います。」(「月刊福祉」7・8月号)
投稿日 13年01月12日[土] 10:43 PM | カテゴリー: 社会福祉関連
2011年12月、熊本市にある、熊本ライトハウス(社会福祉法人慈愛園が経営する盲ろうあ児施設)と熊本ライトハウスのぞみホーム(知的障害者更生施設)を訪問することができた。個々の利用者の生活を大切にするハード、ソフト面の配慮を目のあたりにして、私は、北欧の福祉国家で見学したホーム・ハウスを思い出した。揺るがない信念が日常生活に築かれ、また国の政策の基軸となっていた。
日本においては、福祉予算が切り詰められる時代にあって、ハウス・ホームで生活なさっておられる方々が、どのような状態にあっても、一人の人間として守られ、大切にされるという福祉の使命を、何とかして継続していこうとするライトハウスの意気込み、使命感に、私は、感動したのである。
室内は広々としており、天井も高い。それぞれの部屋には、生活する人の個性が見られる。視覚に障害があっても、それぞれの方々は、広い生活空間を体験し、木の温もりと響きを実感し、そこで働く職員の心を通して生きていくことの温もりを味わっておられると、私は感じた。ある利用者のカラフルなデザインの布団カバーは、家族の思いが込められていた。
ライトハウスルーテル教会に関係する社会福祉施設である。これからも、伝統ある社会福祉法人慈愛園の一つの有力なハウスとして、輝き続けていただきたい。ライトハウスには、目指すことができる、立ち戻ることができる、ルーテルのミッションがあるのだから。ご案内して下さった施設長山口初子氏に心より感謝したい。
以下、るうてる法人会連合が出版した『未来を愛する 希望を生きる―共拓型社会の創造をめざして』(人間と歴史社)の文章を紹介する。
熊本ライトハウスミッション
「わたしは、神がそのみ業を演じられる偉大な舞台の袖に立っておられると、
しばしば感じたものです。愛の種が、荒れて耕されていない土にまかれました。
わたしたちはそれに水をそそぎ、神が育ててくださいました。そして何という
収穫を、神はこの小さな園に働く人々にお与えくださったのでしょう。
この41年間、わたしがしたことではなく、わたしの主エスが世の終わりまで、
わたしと共にいるとのお約束をお守りくださったことを誇りたいのであります。」
※昭和37年(1962)モード・パウラス先生の慈愛園辞任の辞
社会福祉事業に従事する私どもは、パウラス先生の神への愛と奉仕の業に倣いまた、慈愛園の定款にも明記されております「イエスキリストによって示された、愛と奉仕の精神に基づき多様化な福祉サービスがその利用者の意向を尊重して総合的に提供されるよう創意工夫することにより」を目指し、クリスチャンワーカーとしての使命感を常に覚えたいものです。
【 まかれた種 】
大正9年(1920) 熊本で開かれた日本福音ルーテル教会第1回総会において、「社会事業創始の件」について熊本に施設を設立する決議が行なわれ、その委員長にモードパウラス先生が就任されました。就任後パウラス先生をリーダーとした仲間の愛と奉仕の業は、子どもやお年寄りのお世話をする「慈愛園」を創設し社会福祉分野での事業の取り組みは広範にわたりましたが、その中で視力に障害を有する子どもたちへの処遇が課題となっていました。
その課題に取り組むため理事長のパウラス先生を始め潮谷総一郎園長、視力障害の石松量蔵神水教会牧師と九州女学院英語教師のマリアン・パッツ先生が加わり4名の障害児福祉サービス研究会が発足し、昭和24年(1949)日本福音ルーテル教会第26回総会において障害児施設の設立が決議されました。
【 めばえ 】
慈愛園から2キロほど離れた三菱重工所有の家屋を買収し、理事会はライトハウス設立を決議し、「ライトハウス」の命名者潮谷総一郎先生が初代園長に就任。
昭和28年7月1日(1953)県下唯一の盲ろうあ児施設 熊本ライトハウスの設置が定員40名で認可されました。
【 あゆみ 】
昭和31年(1956)7月には潮谷総一郎先生の尽力により、慈愛園は全国に先駆けて熊本目の銀行も発足しました。昭和33年(1958)門脇トミ2代目園長は、慈悲に満ち誠実で祈りの人でありまた、目や耳に障害を持った子どもたちに対して使命感に燃え、施設運営の基盤作りに懸命に取り組まれました。
子どもたちが障害を有しているため社会経験に乏しくなることから、社会性と心身の鍛錬を目的に創立3年目の昭和30年からボーイスカウト活動が開始され、日本最初の盲児・ろう児によるボーイスカウト熊本14団が誕生し、その後ガールスカウトも結成され日本アグーナリーの基礎ともなりました。
これまで子どもたちは与えられた建物で大集団の生活を余儀なくされ、盲学校や聾学校に通っていましたが、昭和40年(1965)7棟の新らしいホームを頂き家庭的な雰囲気の中で生活指導や役割分担と責任など、個別の人間形成に大いに役立ち福祉施設の小舎制の先駆けともなり、クリスマスプレゼントとして児童・職員ともども嬉しい思い出です。
昭和46年(1971) 山口拓爾3代目園長は実践行動の人でありました。入所児童の人格形成はもとより広くボランテイア活動をとおして障害福祉の分野における貢献は、施設内外を問わず全国に及び地域の夜警や清掃奉仕活動も30年を超える活動が続けられました。
その後入所児童数も昭和48年(1973)94名をピークに減少していきました。
【 成人棟の誕生 】
少子化は入所児童も例外ではなく、視力や聴力の単一障害児よりも知的な発達の遅れや自閉的傾向など、いくつかの障害を併せ持ったいわゆる重複障害児の存在が注目されだし、平成3年(1991)年には18歳を超えた入所者19名の中に11名の重複障害者が20歳~25歳という現状でありましたので、その子たちの生活の場を求めざるを得ず成人施設の設置という課題となり、保護者・職員をはじめ関係者の懸命な働きにより平成5年(1993)知的障害者更生施設(盲重複障害者施設)熊本ライトハウスのぞみホームとして定員30名で開設され、悲願でありました児童施設年齢超過児の解消として関係者の大きな喜びとなりました。また、地域への社会貢献のひとつに平成元年(1989)からは市社会福祉協議会からの委託事業として、地域老人の給食サービスふれあいランチとして約100食を月2回提供する事業も現在まで続いております。
障害を有している子も普通の子と同じように、教育や福祉のサービスを受けその子らしく生きていかれる社会を構築することが求められ福祉施設の存在はそのような使命を託されているのです。心身の状況により、自己主張や自己の権利を表現できない社会的に弱い立場の人々に対して、イエス様が誰にでも分け隔てなく、殊に重荷を負っている人々にイエス様自から歩み寄り手を差し伸べ導かれていることは、社会福祉事業従事者のミッションとして忘れてはならないものです。
最後に、80数年前にパウラス先生を日本に送り出されたアメリカのルーテル教会の継続された祈りと献げものに感服し、感謝申し上げますとともにこれから私どももそのスピリットを継承し、日本福音ルーテル教会と近隣教会のたゆまぬお支えによりいま福祉制度の大きな転換期にも各自与えられた場において、クリスチャンワーカーとして愛と奉仕の業に励んで参りたいと願っております。
投稿日 12年02月14日[火] 5:34 PM | カテゴリー: 社会福祉関連
夏の真っ盛りの7月、空は青く広がる札幌。札幌コンベンションセンターに1,200〜300人の民生委員・児童委員の方々が集まってこられる。
各年代層におよぶ参加者に、女性民生・児童委員の方々も多くなってきている。そして事例をお伺いして、各地域における生活課題に取り組む各委員の意欲が感じ取られる。まさに、社会福祉法下の新しい社会福祉の枠組みの中で、新たな役割を認識しようとする方々の意欲を感じる。確かに、地域福祉を推進してきた委員の実績は誇るべきものである。しかし、虐待、孤立等の問題が増加し、かつ地域自体もその姿をかえてきた。住民意識は多様化し、住民相互の関係も、以前と比べて明らかに希薄化した。民生委員・児童委員自身が、「何がしたいか、何ができるか、何が求められているか」を問われている。そもそも民生委員活動は、市民の視点が強調された市民活動である。したがって、民生委員は、市民活動としての一定の責任をもつものの、その活動範囲がいたずらに広げられてはいけない。そこで、私は、以下の留意点をお伝えした。
基本的留意点
1.地域の福祉を見守り、つくりあげる→→→地域を築く、創り出す。忘れてはならない地域性
2.主体は相手(秘密保持の原則)
信頼の絆は、必要な人以外には他言しないこと。
3.活動においていつも仲間の話し合いを→→→仲間同士の連携を、全部一人で背負わないこと。
4.各ボランティア団体、ボランティア、民生児童委員等、地域に関わる 人々同士が連携する場を→→→閉鎖性の打破、協力
5.活動が孤立しないように→→→機関(=社協)や既存のサービスとの連携を
6.開発性、先駆性と柔軟性を忘れずに
7.幅広い住民への対応
8.生活を支える総合的な生活援助と連携
*守ろう、育てよう、育もう、地域を! 住民とともに自分自身のために!
すなわち、地域を支える民生児童委員の役割は、共感、共歩、協働である。
-
-
札幌市民生委員大会1
-
-
民生委員大会2
-
-
民生委員大会3
投稿日 10年08月26日[木] 11:31 PM | カテゴリー: 社会福祉関連
2010年2月6日、大利根町第23回社会福祉大会の講演をさせていただいた。昨年に引き続き、2年目であったが、本年は特別の意味がある大会でした。
当日、朝8時30分に三鷹駅から中央線で新宿に向かい、乗り換えて10時頃にJR湘南新宿ライン栗橋駅に着きました。当日は、晴天でしたが、赤城山より冷たく、強い風が吹きつけ、体だけでなく、心も凍えそうになりました。
大利根町のホームページには、以下のように説明されていました。「埼玉県北東部の首都50km圏内に位置し、北部は利根川をはさんで北川辺町と茨城県古河市、東部は栗橋町、西部および南部は加須市に接し、町の総面積は24.47km2で、東西に約6.2km、南北に約5.6kmの広がりをもっています。北部を利根川が流れ、関東平野のほぼ中央で、海抜13mの平坦な地形をしています。
産業の中心は農業で、こしひかり、いちごなどを生産する県内でも有数の穀倉地帯です。また、黒米を使った加工品をはじめとした特産品や農産物は、農業創生センターで販売され、町の観光拠点となっています。」
また、大利根町は、「童謡のふる里づくり宣言」をしました。大利根町は、「たなばたさま」「野菊」など数々の童謡を作曲し、またたくさんの校歌を作曲なさった下總皖一先生の生誕の地です。そのことを誇りに、「誰もが生き生きと、夢を持って生活できるような豊かな地域社会を創出していくためには、童謡の持つやさしさをまちづくりの基本とし、みんなで手を携えて、まちづくりを進めていくことが重要」として、以下のことを宣言しました。
- 私たちは、下總皖一先生をふる里の誇りとし、いつまでもその素晴らしさを多くの人々に伝えます。
- 私たちは、童謡の持つやさしさをまちづくりに生かし、みんなが夢を持てるようなまちをつくります。
- 私たちは、童謡のふる里にふさわしい、人や自然にやさしい豊かなまちをつくります。
- 私たちは、童謡を始めふる里の伝統・文化を生かし、活力ある新しいまちをつくります。
- 私たちは、一人一人が主役であり、「全国に誇れる童謡のふる里おおとね」を目指し、みんなで努力します。
第23回社会福祉大会では、大利根町社会福祉協議会から「地域福祉は毛細血管のように~一人ひとりの暮らしを支えあう地域づくり~」というテーマをいただきました。実は、大利根町は2010年の3月に、近隣市町と合併し、加須市と名前を変えることになっています。大利根町という地名を使うことがなくなるのです。その事実の約1ヶ月前に、皆さんは、例年通り社会福祉大会を開催されたのです。
手のシワと手のシワを合わせて、「幸せ」を願う。そのシワは、まさに申し上げた文化と伝統であり、同士の絆、地域との繋がりであり、そこに生きた住民一人ひとりの人生だと思います。合併は、それぞれの市町村という手が、シワを合わせ、幸せを目指した取り組みであることを期待しています。そのことを町民の皆さんは、確認なさったのだと思っています。
私は、講演のまとめとして、以下の4点を申し上げました。
- 孤立等の地域の生活問題の早期発見・早期連絡(アンテナ)は、地域の福祉力。
- 共に支え合うまちづくり=理解や協力の基盤づくり
そもそも、コミュニティとは?
- コミュニティに所属する者同士の相互の関わり
- 関わりに対するアイデンティティ、愛着
- それらを実現しやすい地理的な空間
- 互いを認め合うコンセンサスと一定の規範
- コミュニティを支える宗教や祭り等の文化の形成
- 人材や活動等、一定の地域資源の存在
- 血の通った活動は、生活の潤滑油
地域密着型サービスの本来の意味
- 眠っている資源を掘り起こす(大利根町の底力)
「人」 問題解決に取り組む当事者、医師、保健師、社会福祉士・ケアワーカー・ケアマネジメント等の専門職、住民、ボランティアといった保健医療福祉等に関わる広い人材 「もの」保健・医療・福祉・教育・公民館等の施設、空き家・空き店舗、サービス・活動、物品はもちろん、住民関係、地域関係、またボランティア協議会、医療保健福祉等の専門職ネットワーク等のネットワーク 「金」 補助金・委託金、寄付金、収益、研究補助金
「とき」就業時間、ボランティアが活動する時間。課題を共有化し、合意して取り組むチャンス
「知らせ」資源情報、サービス利用者情報、相談窓口における情報等のニーズ情報、計画策定に必要な統計等の管理情報
大利根の地名はなくなっても、その地域はなくなるものではないし、住民がいつものように生活しているという事実から出発するのが、地域福祉の本来の姿なのです。
栗橋の駅をおり、再び会場に着き、皆様方の顔を見て、私はある歌を思い出しました。いずみたく作曲の歌です。
「ぼくらは みんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらは みんな 生きている
生きているから 悲しいんだ
手のひらを太陽に 透かして見れば
真っ赤に流れる ぼくの血潮 ・・・・・」
それぞれの手を、明日という太陽に向け、流れる血潮という、文化と伝統、同士の絆、地域との繋がり、住民一人ひとりの人生、一人ひとりの顔を確かめていくことは、合併の趣旨に反するのではなく、まさに合併による幸せを実現するのです。豊かな自然の実り、温かい人と人の絆がいつまでの守られ、大利根町が目指した明日が、実現できますことを心より願っています。
投稿日 10年02月06日[土] 12:00 AM | カテゴリー: 社会福祉関連
時:9:30〜11:00 民生委員の方々への講演
「地域福祉と民生委員の役割」
11:00〜12:20
地域福祉計画・地域福祉活動計画についてのヒアリング
13:10〜14:00 川又地区いきいきサロン
熊本で3日間開催されたるうてる法人会連合総会、ルーテル諸学校代表者会を終え、午後3時のバスで宮崎北部の山間地に向かう。空は、雨で覆われ、阿蘇は嵐の中。黒川温泉に行く時もそうだった。また空から見る阿蘇は、時々荒れていた。だからこそ、阿蘇は雄壮なのかもしれない。
翌日、日之影町を訪問する機会を与えられた。あくまで、私自身のお願いであり、すべて自前でするつもりだったが、日之影町は、民生委員の方々にお話をする機会をつくってくださり、また町を案内してくださった。
宮崎県内の中山間地の過疎問題への取り組みを進める委員会の委員長を仰せつかっており、今回はほんとうに大切なアイデアを得ることができた。 以下、私の意見をお渡しした。
1.民生委員研修
非常に誠実、かつ実直な方々で、隣人愛に根ざした使命感をお持ちのように思えた。これは、町の大きな資源。このネットワークをいかに小地域活動に結びつけるか、また活動の効果を高めるために、行政、社協、町の保健医療福祉専門職がどのようなバックアップシステムをとることができるか、個別検討を含めて、問われていくことになると思います。
2.人口の減少が続いている現在、非常に難しいことかもしれませんが、安心して生活できる、どのような町をつくっていくのかという展望が見せられないでしょうか。人生の定年は、生命を失う時。それまで、以下の豊かに生きていくか、それを支えるこの5年の目標を立てる必要があります。
そのために必要なことは、予防、自己啓発、近隣の助け合い、サービスの内容や運営方法の相違工夫です。これが総合的な日常生活支援となります。そのために、行政や社協の役割があり、こだわりがあると思います。
3.実施主体、運営方法をより明確にしていただくことが大切です。両計画を一体でたてることは十分考えられるのですが、実際に責任が不明確になる危険性が十分あり、結果として機能しない計画になってしまいます。
住民も含めて、それぞれが何をするのかということの合意をすすめてください。
4.優先的に進めるものを明確にしてください。また、既存の活動、サービスを実施する、強化する、再編する、新たに活動やサービスを生み出す、運営方法で効果を高める等のことがわかると、住民の理解を得ることができます。
5.専門職の役割と配置を明確にすること。特に、コーディネートする役割を持つ専門職がいませんと、限られた資源を有効に活用、開拓することができません。
6.資源の活用で事業化できるもの、たとえば現在使われていない住居等を活用した地域密着型施設、介護予防等の明確化が望まれます。
7.あえて、生活の質を基軸にした計画を作成してはどうでしょうか。すばらしい水と空気(親好)、おいしい食物と生命の質(健康)、豊かな近隣関係(親交)、生きる姿を大切にする宗教(信仰)、大人歌舞伎等の伝統と豊かさ(光)、働く機会と自己実現(振興)を軸に、予防、支え合い、地域振興とまちづくりを組み立てられないか?
8.資源の吟味を進めること
現在のネットワークは重要です。福祉でまちづくりの視点は不可欠でしょう。広範囲に、かつ小規模集落が点在しているという地域特性から見ると、それぞれの集落にある「水」、整備され、網羅された「道」、きれいな「自然」も重要な資源でしょうか。結ぶという視点で何かプランはできませんか。また、自分の田畑以外の田畑を耕す活動もあるとするなら、その主体を増やしていくことも可能でしょう。それも産業化につながりますか。オーナー制も考えられますか。とにかく、ある資源を活用し、町を維持していく、そして、生活しておられる方々が誇りと安心感をもって生き続けられるため、地域福祉計画がまちづくりとなることを願っていますし、応援しています。
日之影町は、かっていくつもの村が合併してできた町で、広範囲の地域に、比較的小規模な集落が点在している。すばらしい自然があり、水がでる場所に集落ができ、おいしい米と収穫物は地域力である。確かに、高齢化が進み、過疎が進行してきていることも事実。だが、そこに住み続けられる人々がおり、生活を支える文化や伝統が残されている。その事実から、将来を見据えた改革をすべきではないでしょうか。
昭和30年代後半から始まる高度経済成長は、物質的豊かさをもたらした。「パイの理論」が主張され、パイ自体が大きくなれば分配するパイも大きくなると言われてきたが、ふくらんだのは、パイの殻だけだったのではないだろうか。人々の心の空洞化が始まり、バスに乗り遅れたたくさんの人々が生まれた。引きこもり、家族崩壊、社会的孤立、自殺者3万人、依存症等々。
今また、目の前から、生活が、文化が壊れていくように思える。日之影町で私が学んだことは、生活の豊かさとは何か。生活の溶け込んだ文化があり、人々は自然に向かって祈りを捧げること。それは、第1に生かされていることの感謝、第2に日々の生活への愛着、第3に生きていくことの誇りであり、文化となってそれぞれの生活に根ざしている。
それらは、いずれも現代に生きていく人々が取り戻さなければならいこと。
翌日には、宮崎県社協において、「中山間地域・過疎地域等の人口減地域における地域福祉サービス・活動研究委員会」が開催された。委員会には、社会福祉の行政、社協関係者とともに、農協、商工会の代表にも委員として入っていただき、検討している。
過疎問題に取り組む際には、以下の基本的視点が大切である。1.マイナス・危機は取り組み課題、プラス・可能性は資源として積極的に活用していくこと、2.日常的な関係等のソーシャルキャピタルを、一つの地域の可能性として維持・発展させていくこと、3.課題の共有化と合意、そしてそのプロセスを大切にすること、4.地域の資源とは、ひと、もの、かね、とき、知らせと広範囲であり、丁寧な地域診断が不可欠であること、5.地域の再生や活性化を含むまちづくりの視点を必ず加えること等である。
本研究の目標として、事務局である宮崎県社会福祉協議会の山崎地域福祉課長らが考えている、ア.生まれ育ったところで暮らし続けることを支える仕組みづくり、イ.住民や多様な団体・機関の参加と協働のための仕組みづくり、ウ.地域再生・活性化のためのまちづくりの3つが組み合わされてはじめて、本研究会の目標が提示されるのである。
これらの取り組みは、決してたやすいことではない。しかし、実際にそれを実現してきている市町村も少なくない。「なぜ、そうなったか」の理由を考えるだけでなく、「なぜ、そうならなかったのか」という視点も大切にしたい。
投稿日 05年08月25日[木] 12:50 AM | カテゴリー: 社会福祉関連
「人にやさしい福祉のまちづくり学園」が宮崎県で行われた。実践講座を含め、6回講座の最初の講演を担当させていただいた。企画運営は、恵佼会(代表者土居雅郎氏)が中心となっていた。私の講演テーマは「福祉のまちづくりと実例」であり、物理的バリアフリー、制度的バリアフリー、文化・意識のバリアフリー、情報面のバリアフリーをめざしたまちづくりの意味を、1.地域性の尊重、2.当事者性の確保、3.連携、4.生活者の視点、5.多様性・柔軟性・総合性という特徴を具体的な実例を通して説明していった。
風が非常に強い大型台風16号が南から近いづいてきており、前日まで、講座そのものの開催が危ぶまれていた。その強さをいっこうに衰えさせることなく、ゆっくりと、しかし着実に九州に近づいてくる台風の進路を見極めるため、主催者は前日の午後1時に、開催するとの最終な決断をした。私は数日帰れないことを覚悟しながら、依頼された講演の責任を最後まで全うできることを目指した。長い間、十分討議しながら準備を重ねてきた企画である。自分のできることは、精一杯したい。
前日の最終で宮崎に入ったが、九州に近づくにしたがって、飛行機の揺れが激しくなり、横風を受けながらの着陸となった。そして一晩中、風がうねり、きしむ音が鳴り続いていた。また予約していた午後4時台以降、台風が通り過ぎるまで飛行機は運休することが予想されてたため、伊丹経由羽田行き12時台の飛行機に変更し、講演後すぐに、待たせていたタクシーに飛び乗り空港に向かった。
飛行機の到着が遅れたため、伊丹では走って乗り継ぐことになった。伊丹行きは、横5席、縦30席程度の飛行機であったため、離着陸時の揺れは、なかなかスリリングであった。窓から見える地上は、いつもの通り平穏であり、たくさんの車が走っている。飛行機の中からその景色を見ていると、心が落ち着いてくる。 「あともう少しの辛抱だ」というサインに思えるから不思議である。寸前まで雲で覆われていたら、精神的不安は大きい。
約3時間かけて羽田に到着し、電話をかけた。宮崎発の飛行機の運航はむずかしい様子。しかし、午後の車椅子体験は、天候の崩れも限界値を超えることなく、無事済んだとのことであった。「雨の天気でも、障害者は出かける。そのことを経験してください」という主催者の思いが通じたのか。
嵐の前の宮崎空港
雲の間に挟まれて飛ぶ飛行機
講座参加者
投稿日 05年04月07日[木] 12:06 AM | カテゴリー: 社会福祉関連
嫌煙権が認められ、喫煙場所が限定されることは、当然である。公共の場では、室内全面禁煙、または分煙が実施され、特定の場所に喫煙所が設けられている。例えば、喫煙室には換気扇が付けられ、煙害を防ぐ様々なシステムが作動する。しかも、ほとんどの喫煙室はガラス張りで、外から見る姿は、煙の談合。
横浜市戸塚区の公共施設の喫煙室の周囲には、一定の空間があった。そこでは、ブロック創作等の様々なプログラムが用意されている。母親教室なのだろうか。すぐそばで子供と若い親が一生懸命に創作作業に取り組んでいる姿を見て、喫煙室から煙がもれていないか心配する喫煙者。また子供に喫煙するところを見られて、将来、子供の生活習慣に悪影響を与えないか心配する喫煙者。
ここは、もっともタバコを吸いにくい場所。
投稿日 12:06 AM | カテゴリー: 社会福祉関連
湯河原駅近辺で児童養護施設城山学園までの道を聞くと、必ず「歩いて行かれるのですか」との問いかけがある。なぜなら、湯河原駅から東京方面にむかい、線路沿いを歩き、すぐのガードをくぐると、そこからはひたすら坂道を登り続けることになる。城山の中腹にある学園までの勾配は、想像以上に急であった。
2004年の12月、宇留田貞子さんから、一通のクリスマスカードが届く。私自身はお会いしたことがなかったが、父が生存中に、たいへんお世話になった方。年の暮れである失礼をお許しいただいて、日本キリスト教団湯河原教会でお会いするお約束をした。お礼を申し上げたかったからである。
お話の中で、私が尊敬する大村勇先生、阿部志郎先生、山崎美貴子先生、飯田進先生等々のお名前が出され、宇留田さんの歴史が語られた。まさに神と人に仕えた84年の証であった。語られた歩みの中に、児童養護施設城山学園との長年の関わりをお聞きし、「是非訪問させていただけないでしょうか」とお尋ねすると、「多分、子どもや職員が少ない時期ですが、大丈夫だと思います。聞いてみましょう」とお返事をいただいた。
宇留田さんと、長男、私が乗ったタクシーは、ギアをロウにしたまま、坂道を学園に着くまでかけ登る。湯河原駅からは一区間ではあったが、私にとって、ほんとうに長い道のりの思えた。学園の玄関前で、たくさんの子どもたちが遊ぶ。例年より多くの子どもたちが、学園で正月を過ごすとのこと。
さまざまな理由で、両親と暮らせないたくさんの子どもが、自分の生活をここで生きる。そして、子どもたちには、それぞれの思いがある。それぞれの生き方があるし、それは自分にとっての人生。その事実に真向かった人々がいた。子どもたちの笑顔と、子どもたちの幸せと寄りそって、人生を自分らしく生きてきた宇留田さん、全国のたくさんの教会やYMCA等の関係者が、子どもたちのために物置をつくり、土手をつくり、庭をつくり、部屋をつくった。正月に帰れない子どもを実家に連れて行く職員。子どもたちの正月を心配する人たち。今、子どもたちと一緒に生き、また子どもたちを見守る人々がいる。
城山学園には、たくさんの人々の思いが埋まっている。学園は、求められる声に応じて、その役割を広げてきた。当初は1階の建物であったとお聞きしたが、必要に応じて、2階へ、そして3階へと、生活の場を積み上げてきた。学童保育、個別の勉強指導、ユニット化、地域での生活をすすめるぐるーぷほーむ指路(松島賞受賞)の建築などの取り組みは、日本における児童養護の歴史の縮図でもある。城山の傾斜に建てられた学園のその敷地で子どもたちが遊ぶ。時には、城山の庭で遊び、また急な階段を登り、笑い声をあげる子どもたち。彼らは、城山のすべてを遊び場にかえる。
城山学園から階段を登り、大分急な斜面を登ったところに墓地があるとお聞きした。そこには、病気でなくなって引き取る人がない子どもたち、不慮の事故でなくなった卒園生、担当牧師の遺骨が安置されているとのこと。城山学園は、そこで育った子どもたちの一生に寄りそう。そして同じ場所に、一生をかけて子どもたちと歩んだ方の遺骨が並ぶ。
毎日、子どもたちはその坂を登る。しかし、日本社会は、その登り方と頂上を、経済効率と経済的繁栄で意味づけた。そして「バスに乗り遅れるな」という合い言葉で、高度経済成長が進められたが、他方、たくさんの人々が、切り捨てられ、自分らしく生きていきたいと思いを捨てざるをえなかった事実がある。だからこそ、今、それぞれが、幸せを求めて歩む姿を大切にしようとする「オーダーメイドの社会づくり」が進められてきている。「Only one」という言葉に素直に共感する人も増えてきた。「老いの坂をのぼりゆき、かしらの雪つもるとも、かわらぬわが愛におり、やすけくあれ、わが民よ」(賛美歌第284番4節)という歌詞を私は好きだ。一生は、その人なりに頂上への坂を登りゆくことである。子どもたちも、明日への希望に導かれ、親族や職員に手を借りて、一歩づつ坂を登る。今、その事実を大切にしてきたかと、私たち一人ひとりが問われている。
城山学園から見る海がとてもきれいだった。大島、神津島等々が、いつもより透きとっていると言われる空が、海と島の美しさをうかびあがらせる。
子どもたちが、その目で、城山から見下ろす自然の豊かさと美しさと恵みを大切する社会にしたい。子どもたちの心を受けとめる社会にしたい。子どもたちが、将来への希望をもって、育っていける社会にしたい。この坂を、毎日、いろいろな思いをもって登る子どもたちの生きる姿を見守りつづけることが、今、私たちに求められている。
投稿日 05年01月04日[火] 11:50 PM | カテゴリー: 社会福祉関連
« 前のページ
次のページ »