大学関連

110周年記念大会・ホームカミングデイのお誘い

卒業生の皆さん、

ご無沙汰しています。

さて、11月30日(土)には、ルーテル学院の創立110周年記念礼拝と、精神障害の方々の自立に取り組んでいる北海道「浦河べてるの家」の向谷地生良先生の講演会、そして午後には、恒例のホームカミングパーティが予定されています。退任された教職員の方々も来られます。

創立記念式典を含め一人でも多くの卒業生の方々に来て頂きたいし、お会いし、学生時代の思い出を分かち合いたいと思っています。なかには、この機会に同期会を行う方々もおられます。私たち教職員にとっても、卒業生同士の絆があることは、とてもうれしいことです。

皆さんには、是非ともご出席頂きたいですし、同期を含め、学友の方々にも呼びかけて頂き、110周年の記念の日をたくさんの方々と一緒に祝いたいと願っています。詳細は大学のHPもご覧ください。

なお、出欠人数の把握をしたいので、以下のURLから参加可否の登録して頂けませんか。

https://www.luther.ac.jp/inquiry/homecoming.html

どうぞ、よろしくお願いします。

                    2019年年11月                  ルーテル学院大学学長 市川一宏



ルーテル学院一日神学校

9月23日に一日神学校が行なわれました。
↓こちらはシンポジウム「ディアコニアのこころと実践~本学の使命とは~」での発表資料です。

一日神学校シンポジウム発表資料

2019年前期卒業式(9月23日)

テーマ:メッセージを届ける人

聖句 (マタイ26:6〜13)ナルドの香油

「さて、イエスがベタニヤでらい病人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに』。イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつもあなたがたと一緒にいるわけではない。この人は私のからだに香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』。」

賛美歌 賛美歌21 567

1.ナルドの香油 そそいで 主に仕えた マリアを思いおこし 私の愛 ささげます 主イエスよ。

2.弱い人に 力を 暗い世界に 光を わけあうために この私を ささげます、 主イエスよ。

3.嘆く人に 望みを 涙の地に 平和を 告げるために この私を ささげます、主イエスよ。

4.この世のわざ 果たして 主のみもとに 帰る日、平和のうちに 主よ 私を受け入れてください。 

2019年度前期卒業式のメッセージの原本です。これをメッセージ用に縮め、卒業生、保護者、そして集まった在学生、教職員の方々にお話させて頂きました。

 今日、晴れて卒業する皆さんに、精一杯贈る言葉を宣べさせていただきます。

「せめて、これだけは言わせてほしい。君が生きている意味はあるんだよ。ほんのわずかでも 君が少しでも 私を望んでくれるのなら 笑って ありがとうと 言ってくれるのなら、何度 何千度 何万度 君の為だけに 言葉を紡がせてください」

これは、松井亮太作曲と歌、そして優希(ゆうき)作詞による「存在証明」という曲の一節です。
 優希君は、優しいという優と、希望の希を合わせた仮の名前です。2014年3月、当時17歳であった時、祖父母を殺害してキャッシュカードなどを奪い、強盗殺人罪で懲役15年を言い渡され、服役しています。彼の獄中からの言葉に松井氏が曲をつけました。

ほんの少し、『誰もボクを見ていない』(山寺香著、ポプラ社、2017年)というノンフィクションから、優希君の生活を追ってみたいと思います。

10歳の時、両親は離婚しました。離婚後、母親とともに生活していましたが、母親の浪費癖により、生活は苦しく、家を追い出され、住まいを転々とし、ホストクラブに勤めていた男と一緒に生活することになっても、度々困窮を極めます。母親は、自分の両親や親戚だけでなく、たくさんの人から借金を重ねていきます。彼は母親に命ぜられるまま、借金の手伝いをさせられました。借りていたラブホテルに泊まることができなくなり、その庭にテントを張り生活して時もありました。そして、時には何日も一人させられ、母親の不在は強烈な恐怖を優希君に植え付け、彼は、その恐怖心で、母の言うがままに、行動をしました。

優希君はゲームセンターで金を使い果たした母親に連れられ、JR北千住駅前を歩いていて、大型ビジョンから内閣府の自殺対策キャンペーンソングの「あかり」(ワカバの20代の女性ファンが自殺したことをきっかけに生まれた。ワカバのポスターやCDで埋め尽くされた女性の部屋を訪ねた亀田大は「もっと何かできたのでは」と悔やみ、「命を絶とうとする人を一人でも多く救いたい」と願い、この曲を制作されました)を聞いたことを覚えていました。ボーカルは存在保障の作曲家松井氏です。

 松井氏は、ある人(横浜市の作編曲家、岩室晶子さんの知人)を介して獄中にいる元少年と手紙で交流を始め、曲作りを提案。今年1月、数編の詞を受け取りました。そして、二人のやりとりの手紙は10通を超え、「存在証明」という曲が完成したのです。

この事実から、私は2つのことを学びます。一つは、優希君の存在、生きてきた姿です。そこから底知れない悲しみと孤立感を覚えます。そして、もう一つは、私たちの思いが、支援が届かなかったという後悔。優希君を孤立と不安のどん底に置き続けてきた無念さ。学校や児童相談所、フリースクールも働きかけましたが、母親はそれをいやがり、その場から逃げていきました。私たちのメッセージが届いていなかったのでした。今、その無念さに留まるのではなく、彼の再生を応援しようとする人々が集まってきています。

私は、お伝えしたいことを明らかにしてテーマを決め、それから聖句を決めます。優希君から学んだことをお伝えしようと覚悟を決めた時にすぐに浮かんだ聖句が、ナルドの香油の箇所です。

聖書に物語が記述されている当時は、お客様が家に到着したとき、あるいは食事の席に着いたとき、その人に数滴の香油をかける習慣があったそうです。しかし、この人がした場は、有名な弟子たちが食卓を囲む場で、臆することなく近づき、ナルドの香油を注いだのでした。ナルドの香油は、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根からとるものであり、非常に高価なものです。当時の価値で、普通の人の1年間の収入と同じ価値をもつものでした。弟子たちは、咎めましたが、イエスはこの人を擁護しました。この人がここまで愛したイエスは、3日後に私たちのために十字架につけられました。この時を逃すと、イエスにお会いすることができないと知っていたから、惜しげもなく香油をイエスにかけたのでした。

有名な神学者バークレーは、この行為を、「惜しみなく注ぐ愛」と言いました。この人は、持っている物の中でもっとも高価な物をイエスに注いでのです。イエスに救われ、助け出され、イエスを信ずる一人のものとして(ウイリアム・バークレー著・松村あき子訳『マタイ福音書下』ヨルダン社)、その感謝のメッセージがイエスに届いたのでした。

聖句には、「この人」とナルドの香油を注いだ人物を呼んでいます。食卓を囲む名だたる聖徒とは立場を異にする人物です。また、その行為が、イエスへの感謝と愛に基づいていることは当然ですが、私は、困難にあっても、いや困難にあったからこそ、香油を注ぎ、イエスがそれを受け止めて下さり、私たちの歩みが始められる。賛美歌に書かれているように、神に祈り、自らのすべきことが見えてくる。

私たちは、日々、様々な問いが投げかけられます。優希君の言葉に立ち戻ります。様々な鎧を脱いで自分を探している優希君が、私たちに伝えたいと言っている「君が生きている意味がある」と言うメッセージが私たちに届けられました。それに私たちは答える責任がある。

また同時に、私たちが、一人で葛藤しているが、外からは決して見えない人たちに、「君が生きている意味がある」と届けることができるか問われているのでないでしょうか。答えはなかなか見つからないかもしれません。そのために、繰り返しになりますが、その時々にあって、私を愛して下さるナルドの香油を、イエスに注ぎ続けていくことが、「君が生きている意味がある」というメッセージへの答えになり、それが私たちの人生であり、このメッセージを届ける契機になるのではないかと思っています。

卒業するそれぞれに申しあげます。人生の節々にあって、どのように決断したら良いかという問いかけがなされるでしょう。その時々にあって、ナルドの香油を注いだ人のように、大切にしていること、信じていることに立ち返り、自分にとって誠実な歩みをして頂きたい。そして、ルーテル学院大学で学んだこと、出会った友人、君たちの卒業を喜んでいるご家族、教職員のことを思い出して、そこからいつも再スタートをして下さい。

ご卒業、おめでとう。これからもよろしくお願いします。

8月ルーテル学院校内の花

7月の花

7月末の大学の花(追加)



『人生100年時代の地域ケアシステム』

2019年5月、三鷹ネットワーク大学より、『人生100年時代の地域ケアシステム〜三鷹市の地域ケア実践の検証を通して』が出版されました。有力な研究者等がこれまでの三鷹市の実践掘り起こし、検証し、今後の課題を示しています。私は、それぞれの地域の実績を丁寧に検証し、その土壌に生えた木に、新しい実践を接ぎ木をしていく取り組みが大切であると考えています。しかし、多くの市町村はそれを見失っていないでしょうか。可能性を捨象していないでしょうか。

本書は、三鷹市の特性を紹介しています。何か新しい建物等のハード面を充実することだけが、将来に向けた取り組みとして優先させるべきでないと思っています。地域の日常生活の中に根ざした実践が、明日の可能性を示します。本書が、今一度、その原点に立ち返り、将来の可能性を模索する一助になるなら、幸甚です。

6月の大学の花

ルーテル学院大学には、年間を通して、花が咲いています。学生一人ひとりが、自然の恵みを受け、自分の思いを確認し、それぞれの可能性を見出していく、このような場所が、ルーテル学院大学だと確信しています。そして、この花は、三鷹市の花壇ボランティアが植えて、育てて下さいました。心より感謝しています。

ルーテル学院大学の構内に咲く花(4月2日入学式)

校内のいたるところに咲き誇る桜

2019年度入学式

私は、ここにいます。

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。私たち教職員は、皆さんの学びを支援し、それぞれが成長していくプロセスを応援していきたいと思っています。

さて、今日、大学の構内を歩きました。サクラが満開に咲き、皆さんを迎えていました。そして、たくさんの種類の花も咲いていました。群生で咲いている花もありましたが、一輪、もしくは数輪で咲いていた花もあります。いずれも、「私はここにいます」というメッセージをはなっていました。

今日お話しする「私はここにいます」という意味を、私は3つ考えています。第1に困難に直面する人と共に歩むこと、平和を求めることは、私たち自身の存在を宣言することであり、第2に、自分らしく生きることは、相手の生き方を認めることであり、第3に私たちが生きてゆく道を神様が守って下さる確信を持ち続けることです

私は、昨年の5月に、「国連の「世界孤児の日」制定運動の趣旨に賛同いたします」という文書を作成しました。その文書の背景には、「孤児の母」と言われた田内千鶴子(タウチチズコ)氏の働きがあります。韓国でもっとも長い歴史をもつ共生園は、1928(昭和3)年に、ユン・チホ伝道師が、韓国南西部の木浦(もっぽ)の小川橋の下で寒さに震えている7人の孤児の子どもたちを発見し、家に連れてきて一緒に生活をしたことから始まりました。その妻である田内女史は、共生園を守り、3,000人の孤児を育てました。この応援メッセージは、「孤児の母」と呼ばれた田内女史の息子であり、在日高齢者等へのホーム等を運営する尹基(Tauchi Motoi)理事長の活動を応援をするものです。

 世界のいたるところで、戦争や内紛、テロが起こり、たくさんの命が失われています。また、伝染病や環境の不衛生に起因する疾病、地震や大規模火災等の自然災害による被害で命を失ったたくさんの人々がおられます。経済危機による飢餓や極度の貧困に直面している人々は、莫大な数にのぼります。これは、特定の地域にとどまらず、国や、近隣諸国を包み、世界規模で多くの市民も巻き込んで進んでいます。

 これらの結果、もっとも弱い状況にある子どもが、大きな被害を受けています。父、母や近親者等の今まで育ててくれていた家族を失い、貧困に陥り、また住む家を失い、生活の危機、心の危機、生命の危機に直面するなどの子どもの数は1億5千万人を超えるとする報告もあります。日本においても虐待によって命を失う児童は、毎年、数十人を数えます

だからこそ、私は、誰もが神様から祝福されて生まれたのであって、「おめでとう」と言い続けたい。そして、私たち自身が、祝福されて命を与えられたという事実を忘れてはいけない。「私はここにいます」とは、第1に、「0か100では無く、その間には1から99の方法」があるのであって、自分が選んだやり方で、子供たちを支援すること、平和を求めることは、私たち自身が存在を認められ、未来に向かって生きていくという宣言でもあるのです。

「私はここにいます」の第2の意味は、自分らしく生きることは、相手の生き方を認めることですだと言うこと。いつも迷いや不安が私たちの歩みを遮ります。今必要なことは何か、何ができるのか、たくさんの疑問でアップアップです。そのような生き方をしている私たちに、アドバイスをしてくれた有名人がいます。イチローです。引退試合が終了した後に開かれた記者会見での発言の一部を紹介します。

「人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。あくまでも、はかりは自分の中にある。それで自分なりにはかりを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと越えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの日からかこんな自分になっているんだ、という状態になって。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので、地道に進むしかない」

 すなわち大切なことは、自分としていかに生きていくかということ。ありのままの自分を誠実に受け止め、自分にはどのような力があり、可能性があり、同時に課題があるかを見失わないこと。自分を誠実に受け止めることは、同時に相手の生き方を認めることであり、そこに自分の成長があります。

最後に「私はここにいます」の意味は、私たちの生き方を、神が救って下さるという確信があることです。

イザヤ35章4節に立ち返ります。聖書には「心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵をうち、悪に報いる神が来られる。神が来て、あなたたちを救われる」と書かれています。この聖句は、私の恩師から頂いたものです。阿部志郎先生は、ご自分の戦争体験を通して、何とおろかか。権威に服し、考え、迷いもなく、行動を考えず、全く疑わず、恐れず、戦争を起こしたことに後悔している。若者が、考え、迷い、自分で選択して将来を決めて欲しいと思われ、この聖句を私に託されました。 

 神は、この聖句を通して、様々な困難に追い込まれている人々に、受けた災いをもたらした者に対する行動を宣言されました。神様からのメッセージと思います。「私はここにいます」の第3の意味は、「神が来て、あなたたちを救われる」と言われるように、私たちが生きてゆく道を神様が守って下さる確信を持ち続けることです

繰り返しになりますが、「私は、ここにいます」の意味は、第1に困難に直面した人と共に歩むこと、平和を求めることは、私たち自身の存在を宣言すること、第2に、自分らしく生きることは、相手の生き方を認めること、第3に、私たちが生きてゆく道を神様が守って下さる確信を持ち続けることです。

 改めて、申し上げます、入学おめでとうございます。そして、皆さんが卒業する4年後、私は、定年を迎えます。一緒に卒業しましょう。