出会い
不意に、思わず引き込まれてしまう会話に出会う時があります。
その時は、ルーテル学院大学大学院・三鷹ネットワーク大学共催の「新型コロナウイルス時代の地域ケアを考えるトークセッション」の企画調整、卒業生等による「希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ」の依頼等で疲れ、ソファーに横になって、NHKの<ディア・ペイシェント〜絆のカルテ〜(6)「新しい風」>を見ている時に突然来ました。
その第6回は、中規模な病院の女医である真野千晶(貫地谷しほり)が、乳児を抱え、無関心な夫に絶望し、一人で子育てをして追い詰められている20歳代前半と思われる患者さんに、どのように接したらよいか、悩みながら、共にあろうとする内容でした。
真野医師が実家に戻り。母親に「お母さん 患者さんでね 生後5ヶ月の赤ちゃんを抱えて 大変な人がいるの。家庭にも問題があって 私 なんて言ったらいいのか 分からなくて・・・」と聞いた時に、母親が何気なく返した言葉です。
「人生はつらいことがたくさんあるわ
でもね つらいことって そう長く続かないのよ
長く生きていると だんだん そういくことが分かってくる
だから 悩んだ時は 焦らず ただ立ち止まる
立ち止まっていると 本当の自分の気持ちが見えてくる
そしたら いつの間にか 新しい風が吹くのよ」
真野医師は、その患者さんに伝えました。「少し休んで 心が落ち着いたら 自分の心に問いかけてみて下さい。自分がどうしたいのか」
投稿日 20年09月19日[土] 4:32 PM | カテゴリー: カテゴリ無し,出会い
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(口語訳聖書:ヘブル人への手紙12:2)
<はじまり>ルーテル学院大学のチャプレンに、年頭礼拝のメッセージの依頼を受けたその時から、私は何を述べることができるのか迷いました。そこで、私の生きていく原点の一つである場に立ち、今までを振り返り、そこで率直に考えたことをお伝えしようと思いました。その場が、石巻市にある日和山でした。
<日和山>日和山は標高61.3メートルの山ですが、石巻市内を一望できる場所としても知られており、眼下には、漁港、仮面ライダー等で有名な石ノ森章太郎の萬画館、旧北上川の河口から広がる太平洋が見えました。しかし、近年、石巻市の大きな変化を見る場所になっています。
<東日本大震災>2011年3月11日に発生した東日本大震災により、石巻市は大きな被害を受けました。2019年12月4日現在、死者は3,277人 関連死は275人 行方不明は420人に達しています。日和山に置かれていた案内板には、こう書かれています。「門脇、南浜地区は急速に市街化が進み、石巻市立病院、石巻文化センター、そして約3,000件を超える人家が建ち並ぶ街として発展しました。しかし、東日本大震災の大津波はこれらの家々をすべて押し流し、同時に発生した津波火災が街を焼き尽くしました。この地域は、災害危険区域として居住できない地域となりました。」
発災時には、雪が降っている中、多くの市民が日和山に登って津波から避難しましたが、住民は、その場で津波の驚異を目の当たりにすることになりました。
<日和山に登る>1月5日の朝6時、20年近く親しくして頂いている石巻市社協の友人とホテルのフロントで待ち合わせをし、私は日和山を目指しました。まだ暗い朝、2メートルを超える津波に襲われた地域をしばらく歩き、そして日和山の頂きに行くために急な坂を登りました。頂きの公園に着くと、空は段々明るくなってきました。私は、友人に案内され、工事途中の新しい橋、南浜地区復興祈念公園、いくつも建っている復興住宅等、新たな石巻の姿を見ました。十分防寒対策をしていきましたので、たかをくくっていましたが、気温はマイナス2度で、少し風もある。案の定、手袋をしていた手を寒さが突き刺しました。そのぶん、日の出は待ち遠しく、だんだん空が赤くなり、日をさえぎる雲を焼くように、光の断片が見えだし、丁度7時に、日が登りました。とてもきれいな日の出でした。
<日和山から見えるもの>被害にあった地域の多くの時計は、津波が襲ってきた時間を指したまま止まりました。しかし、被災者の人生の時計の針が、今、そして明日に向けて動いていくために、働きかけているたくさんの方々の姿を、私は見続けてきました。
私が日和山の頂きに立って日の出を見ながら、思うことは2つ。
1つは、東日本大震災の被害が、人ごと、他人事とは思えなかったこと。震災が起こるまで一緒に生活していた配偶者、子ども、親、友人を突然なくし、さらに生活してきた地域が面影もなく消え去ってしまう事実に直面して、私はいてもたってもいられなかった。発災当時たくさんのボランティアが来ましたが、その方々には、思わず駆け寄っていく気持、誰かのために役に立ちたいという気持があったと思います。それは、誰もがもっている気持。発災後何年も石巻で働かせて頂き、この気持を大切にしてこられたことに、私は心より感謝しています。
2つ目は、地域生活支援について一緒に考え、挑戦してきた友人、関係者の方々がおられたこと。被災地における自分の無力さを「いやっというほど」知ることにより、思いを同じくする方々と一緒に歩むことの大切さを学びました。石巻での経験と一緒に挑戦してきた友人は、私の財産です。
聖書に立ち戻ります。口語訳のヘブル人への手紙12:2では、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」と書かれています。説教黙想アレテイア『ヘブライ人への手紙』で、加藤常昭牧師は、「共に走りつつ」というテーマを出され、繰り返し、本聖書の説教者は、相手に「すべきである」というような第2称で話していない。一緒に走ろうと言っている。そこに、「励ましの言葉」としての意味があると言われました。
さらに、聖書には「イエスを仰ぎ見つつ」とも書かれています。イエスは、「恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座する」方です。しかも、イエスは、私たちが歩き始める前に、すでにこの道を歩まれ、今は私たちを見守って下さる。そして私たちが見上げると、イエスがおられる。だから私たちは勇気を与えられ、さらに明日に向かって共に走っていくことができるのです。
皆さんも、自分にとっての山の頂に立ち、自分を見つめ、さらに周りを見渡して下さい。ルーテル学院を支えて下さった諸先生、諸先輩がおられる。ルーテルのミッションを学んだ卒業生が、困難に直面している方々に希望の光を届けている。それぞれの家庭や地域で安心して生きていく場を築いている。互いに支え合っている家族、友人がいる。教職員、在学生、教会の方々、ルーテル学院と関係のある方々が共に歩んで下さっている。
だからこそ、私は2020年を、思わず駆け寄っていく気持、誰かのために役に立ちたいという気持を勇気にかえて、明日に向かって歩む1年にしたいと考えております。
感謝。
(新共同訳聖書では、「信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びの捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのなったのです」と書かれています)
石巻市日和山に登る(2020年1月5日)
最後の2枚は、一緒に山を登ってくれた友人が撮っていてくれた写真です。
投稿日 20年01月10日[金] 2:55 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,出会い,大学関連,思い出記
社会福祉大会を終え、参加して下さった方々との出会いに感謝し、空港で飛行機を待ちました。その時、綺麗な夕陽を見ていたら、飛び立つ飛行機を見て、思わずシャッターを押しました。思い出の写真です。
投稿日 19年10月10日[木] 7:51 PM | カテゴリー: 出会い
カレッジの力は、卒業生の働きあります。一人の地域住民として、福祉の理解者として生活なさっておられる方々も、カレッジの宝です。また具体的な活動を通して地域を支えておられる方々、いろいろな行政や社協、NPOの理事会や委員会に出席なさっておられる方々も、宝です。
ここでは、卒業生の一部を活動を紹介します。
投稿日 19年07月28日[日] 11:16 AM | カテゴリー: 共助社会づくり,出会い,社会福祉関連
一度食べたら忘れられないものがある。それは、いつもその時になると思い出すものでもある。
六日市で食べたミニトマトは、ほんとうにおいしい。すっぱくもあり、しかし甘くもあり、さらにさっぱりしており、しかも見た目にも美しい。六日市で教会関係の方とバーベキューを楽しんだ時に出会ったのが始めて。私は、このミニトマトを収穫している場所が近くだと聞き、時間を見つけて訪問した。ハウスの中では、喜太郎のシンセサイザー(シルクロード)が聞こえており、このトマトはその音色に育てられていたのだった。家に送ったが、私が留守をしている間に、一気になくなってしまっていた。多くの歓声を受けながら。そのなくなり方も、まさに喜太郎らしいのかもしれない。
また、近くに田んぼでは、鴨による米栽培がなされていた。とても費用がかかるが、美味しいとのこと。事実、六日市のコシヒカリは、新潟の魚沼のコシヒカリと比べて決して劣らないと、私の味覚は判断した。
このような夫婦が健在である限り、地域は決して潰れない。そしてそれを応援するのが、メディアであり、情報ネットワークだろう。努力し、苦労し、夢を持って、発想豊かな仕事をする人々が認められて当たり前の社会が、未来を期待できる社会である。
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ミニトマトの作者さいとう農産からのたより
『紅い真珠を食べて味ま専科』
数あるミニトマトのなかから又々お求め頂きありがとうございます。
このミニトマトのおいしさには秘密があります。第一に小さな苗の時から喜太郎のシンセサイザー(シルクロード)を聴きながら育ったもので、水気耕音楽栽培といいます、第二に育つ過程で、ぎりぎりのストレスを繰り返し与えつづけます、第三に苗は種を播いてつくったものではなくいらなくなった脇芽を挿し芽の方法で育てたものです。しかもハウスの中は太陽の光と暖かさが保たれ、養液は十分に濃い肥料と酸素が与えられて生育を助けています。特に挿し芽は主根がなく毛根だけで成育するので、樹自体が弱くそのため子孫を残そうとする種保存の法則がより強く働いて結局おいしく美しい実ができるというわけです。
寒い冬を越したり、なにか我慢していきていくとおいしい実ができます。動物に比べて11臆年も長く地球に生きその大半を水中で過ごして来た植物は今こうして再び大切に水気耕音楽栽培として育っているのです。
完熟で収穫するために割れた実ができます。それをジュースにしたのが真珠の涙(ミニトマトジュース)です。国内でも類をみない逸品です。併せてご賞味下さい。
紅いミニトマトが農園でお会いできる日を楽しみにしています。
HAVE A NICE DAY!
さいとう農産
卒業生が3名来てくれた。久しぶりの再会である。
それぞれが、それぞれの地で、それぞれの人生を築いている。それが私にとって誇りである。
また、翌週は、札幌市民生・児童委員大会の講演のために札幌に行き、卒業生諸君と会食をした。御夫婦を含め、3人が所要で来られなかったが、今の思いをなかなか熱く語った。そして、身近に関係者がいることを、それぞれが知らなかった。
函館に転勤中の竹花さんご夫婦と、5人のお子さん(1人は塾だった)と、お食事をする機会が与えられた。国家公務員である竹花君にとって、函館は2度目の転勤。そして夫人も本学の卒業生である。
2人が在学中は、よく食事に行った。とても明るい夫婦である。年賀はがきに家族の写真が載っていないなと思っていたが、今は写真にあるように7人家族になっていた。
竹花君御自慢のビールをいただき、そして夫人の御自慢の手作り料理。手際良くつくる姿に、一家を支えてきた力強さを垣間見ることができる。一歩一歩積み上げてきた実績が、今日の竹花君を支える。
竹花夫妻の学生時代の思い出が、一気に花を咲かせる。とても楽しい時をいただき、心より感謝したい。
宮崎県の高鍋駅には、線路をはさんで石井十次記念碑がある。石井十次先生は、孤児の父として、多くの子どもたちを育て、守った先駆者。岡山孤児院20周年を契機に(1907年=明治40年)宮崎県の茶臼原に孤児院を移動。1905年の東北凶作に際して、800名の孤児を受け入れ、広い地を求めて、宮崎に孤児院を構えた。陽の当たる地域の陰で捨てられる児童を保護する篤志家で、濃尾平野地震等の自然災害と家族による扶養が期待できない子どもたちのために、人生をかけた人である。
家族制度(小舎制)の導入、里親委託制度の促進、植民地と称する授産所を設置。また女工の労働条件の改善運動に取り組む。
岡山孤児院12則(1902=明治35年)でも有名。
家族主義=小舎制をとり全体の統一を破らない限り各小舎の特殊性を尊重、満腹主義=各自に十分食べさせること、宗教主義=形式的な信仰の強制でなく、人生における信仰の必要性を自覚させること、密室主義=個人的な話し合いによる教育、旅行主義=見聞を広めるように努力、米洗主義=米をとぐようにそれぞれの特質を現させる、小学教育=孤児院小学校で行う、托鉢主義=孤児院の維持を零細な寄付金募金によること。委託主義、実行主義、非体罰主義、実業主義
また、集合憲法(1913=大正2年)をつくった。
天は父なり人は同胞なれば互いに相信し相愛すべき事=万人の平等
天父は恒に働き給ふ我等も倶に労働すべき事=労働の進め
天恩感謝のため我等は禁酒禁煙を実行し収入の十分の一を天倉に納むる事=禁酒禁煙と収入の献金=募金活動
門川町をまわらせていただいた。一つは、海岸地区。車が通れない狭い路をはさんで、家が立ち並ぶ。高齢化率が高い。また一つは、山間部である。道路を数十分車で走ると、いくつもの集落に出会った。その集落で、ふれあい・いきいきサロンが行われている。また子どもたちが遊べるサロンも、行われていた。
それぞれの地域で生きたいという高齢者のその願いがかなえられるように、当たり前の思いが成し遂げられるように、多くの住民が活動を始めている。具体的なサロンは特集を御覧いただきたい。
山の豊かさと恵みを運び、それぞれの地区を通っていた川が、海に流れ込む。そこに、豊かな魚や貝が生きている。そのすべてが、門川である。
投稿日 03年03月01日[土] 4:02 PM | カテゴリー: 出会い,思い出記
つつじ絢爛
近くの井の頭公園で、たまたま「皐月会」の品評会を見た。夕暮れの6時頃であったために、見物人はほとんどいなかったが、並ぶ何十ものつつじの鉢植えに引き付けられて、思わず自転車を降りた。
一本の木から、色の違うつつじの花が咲いているもの。花で枝が折れそうなぐらい咲き乱れているもの。静かにバランスよく花が咲いているもの等々、私にはとても面白く思えた。
そして、井の頭公園の木々に囲まれ、しかも夕暮れ時に、花を照らす裸電球に、風情を感じる。
三鷹の森ジブリ美術館
三鷹駅より専用バスに乗り、井の頭公園の中にあるジブリ美術館に到着することができる。その建物は、公園の木々や土、草花と調和し、独特の空間を創り出している。互いに排除せず、共存しつつ、かつ個性を強く主張する。互いが活かされる関係。
切符を渡し、美術館に入った瞬間、宮崎駿監督の世界に引き込まれる。すべての窓に張られるステンドグラス、地面から天井までの空間を横切る渡り廊下、絵を幾重にも並べ光を工夫することによって立体的に見えるパノラマボックス、子どもが思いっきり遊べるネコバスのぬいぐるみ、屋上に立つ巨大なロボット兵、おしゃれな喫茶室、驚くほど多種にわたる色彩とデッサンの絵、そして筆が置かれ、思わず自分が作業をしているような錯覚をもつ作品準備室。まさに宮崎駿監督の世界で実在するものと出会うことができる。
美術館のイメージについて、監督はこう語る。
「こんな美術館にしたい!
おもしろくて、心がやわらかくなる美術館
いろんなものを発見できる美術館
キチンとした考えがつらぬかれている美術館
楽しみたい人は楽しめ、考えたい人は考えられ、感じたい人は感じられる美術館
そして、入った時より、出る時ちょっぴり心がゆたかになってしまう美術館!
そのために、建物は・・・
それ自体が一本の映画としてつくりたい
威張った建物、立派そうな建物、豪華そうな建物、密封された建物にしたくない
すいている時こそ、ホッとできるいい空間にしたい
肌ざわり、さわった時の感じがあたたかい建物にしたい
外の風や光が自由に出入りする建物にしたい
運営は・・・
小さな子ども達も一人前にあつかいたい
ハンデをもっている人にできるかぎり配慮したい
働く人が自信と誇りを持てる職場にしたい
道順だの、順路だのと、あまりお客さんを管理したくない
展示物に埃がかぶったり、古びたりしないようにいつもアイデアを豊かに、新しい挑戦を続けたい
そのために投資を続けるようにしたい
展示物は・・・
ジブリファンだけがよろこぶ場所にはしたくない
ジブリのいままでの作品と絵が並んでいる「おもいで美術館」にはしたくない
みるだけでも楽しく、つくる人間の心がつたわり、
アニメーションへの新しい見方が生まれてくる場所をつくりたい
美術館独自の作品や絵を描き、発表する、
映像展示室や展示室をつくり、活き活きと動かしたい
(独自の短編作品をつくって公開したい!)
今までの作品については、より掘り下げた形で位置付けて展示したい
カフェは・・・
楽しみ、くつろぐための大事な所として位置付けたい
ただし、多くの美術館のカフェが運営困難になっている現状からも安直にやりたくない
個性あふれた、よい店をまじめにつくりたい
ショップは・・・
お客さんのためにも、運営のためにも充実させたい
ただし、売れればよい式のバーゲン風安売り店にしたくない
よい店のあり方を模索しつづけたい
美術館にしかないオリジナルグッズをつくりたい!
公園との関係は・・・
緑を大切にするだけではなく、10年後にさらによくなるプランをつくりたい
美術館ができて、まわりの公園も豊かになり、公園がよくなって
美術館もよくなったといえるような形と運営を探し、見つけたい!
こういう美術館にはしたくない!
すましている美術館
えらそうな美術館
人間より作品を大事にしている美術館
おもしろくないものを、意味ありげに並べている美術館
三鷹の森ジブリ美術館 館主 宮崎 駿」
(『三鷹の森ジブリ美術館 図録』前文、財団法人徳間記念アニメーション文化財団発行、2002年4月30日初版)
投稿日 3:31 PM | カテゴリー: 出会い,思い出記
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