教会関連

終活について

2019年7月、私の友人が施設長を務める岩手県盛岡市にある五月園において、講演をさせて頂きました。テーマは、『高齢期における生き方〜終活の意味と内容について考える』である。母の看取りの経験、お世話になり亡くなられた方々の生き方から学んだことをまとめる機会となりました。

母は、一人で静岡市伊東市に住んでいましたが、福岡にいる弟家族に良く連絡をし、大切にしてもらっていました。また東京にいる私たち家族とも関わりは深く、晩年は幸せであったと信じています。母を天国に送った後、父母の遺品が詰まっていた家の片付けは、当時東京に勤務していた弟と一緒に行うことができ、彼の献身的な働きなくして、父母の終活を行うことができませんでした。神様が与えて下さった父母に感謝する時でしたが、膨大な荷物があり、また結婚の記念アルバム等の父母が大切にしてきた品物をどのように片付けるか、本当に悩みました。私たちが決断せずに、祖父母を慕っていた孫である私の子どもたちのその判断を委ねることはできません。

ふりかえって、五月園との関わりは長いのです。職場内研修のために何度か五月園を訪問しました。今の施設に建て替える前の、丘の頂きの方にあった時からです。施設長さんは、私が社大の研究所の助手時代に学生であり、その頃から続く仲間です。盛岡市で行われた結婚式にも出席し、彼との思い出はたくさんあります。

また、盛岡市には、私が大学時代の親友がいて、今も彼と仲良くしています。昨年大切な奥さんが亡くなられ、心配しています。奥さんは、まだ彼と結婚する前から知っている高知の方で、本当に心の広い、また思いやりのある方でした。ご冥福をお祈りします。

さて、その際のレジメを掲載します。私にとって、この数年は、健康にいろいろな変化があった時で、死に至るまでいかに豊かに生きていくか、考える機会が与えられました。その意味で、実り豊かな時で、私が考えるテーマのポイントを掲載し、講演の中で補足しました。

  高齢期における生き方〜終活の意味と内容について考える

1.「生きていくこと」について、考えてみます。

①「花は咲くプロジェクト」です。歌詞の一部を紹介します。生き方を示している。

誰かの想いが見える 誰かと結ばれている 誰かの未来が見える 悲しみの向こう側に 花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう 花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために

②聖路加病院の院長で昨年105歳で亡くなられた日野原重明先生は、いのちとは「自分が使える時間のこと」だと言われました。たとえば体の中のポンプ・心臓は、絶えず鼓動しています。これは、体で感じ、医学的には見える。しかし、「自分が使える時間」とは、日々生きていく時間。一人ひとりも他者のために、自分を活かす時間でもあります。

③私が目指す生き方   人生に停年はない。

 老人は夢を見、若者は幻を見る(ヨエル書第3章第1節)

高齢期は喪失の時代であると言われる。加齢によって、身体の機能低下は低下する。愛する家族や親しかった友人を失う悲しみは増えるばかり。しかも仕事は定年を迎え、自分にふさわしい新たな役割を探さなければならない。なのに夢と幻、すなわち明日への希望を持つことができるだろうか。頭を抱えて、明日への歩みを止めてしまう自分が良く見える。だが、「老いの坂をのぼりゆき、かしらの雪つもるとも、かわらぬわが愛におり、やすけくあれ、わが民よ」(日本基督教団讃美歌第一編284番)と賛美歌にあるように、山の頂に向かって歩み続ける兄弟姉妹がおられる。感動する心と希望をもって、明日に向かって今を生きる方々の歩みに私は勇気づけられる。 

 誰にも将来を見通すことはできない。過去の後悔に押しつぶされそうになる。しかし、神の愛のまなざしを心にとめ、日々祈りつつ今を生きることによって、過去の事実は変わらなくとも、過去の意味が変わっていく感動を、神はたえず私たちに与えてくださる。だから見通せない将来に向かって、日々の歩みをとめてはならない。

 そして、最後の時、支えてくれた家族や人びとに感謝することができたなら、それは人生最後でもっともすばらしい証し。感謝する人の命が光る。見看る人びとの思いがその人の命を通して光る。その人を支えてきた神の愛が、その人の人生を通して光り続ける。神の愛は、とどまることなく最後まで私たちに注がれている。

 このような人生に停年はない。

④老い

「〈老化〉と〈老い〉という二つの用語の間には区別が感知される。一つは生物学的概念であり、他は人間学的な概念である。具体的に言えば、〈老化〉というのは、加齢と共に身体的な諸器官とその機能に衰退現象が現れてくる、生物として避け難い必然的ともいえる事実を指す。これに対して、〈老い〉というのは、この事実を柔らかく表現するのにとどまるものではなく、この事実をその担い手である人間一人一人がどのようにして受け止めこれに対処しようとするのか、心の問題として、生き方と態度の問題として考えようとするものである。この両者には視座の相異は見逃しがたい。前者は生物学的もしくは社会学的な性格を主とする問題であるのに対し、後者は主体的、自分自身の生き方に関わる問題として自覚される。哲学的考察や宗教的な信仰が問われるのはここである。」(浜松聖隷ホスピス初代所長 原義雄「死へのプロセスとしての老い」、日本基督教団宣教研究所編『老い・病・死』)

2.死に至るまで生きてことの大切さ(日野原重明 ラストメッセージ NHK)柳田邦男さん(ノンフィクション作家)

“死”をどう生きたか 日野原重明さんの105年

日野原さんが最後まで求め続けた死をどう生きたか、あるいは死をどう生きるか、私たちはどう受け止めればいい?
柳田さん:これは人間のライフサイクルという見方で見ますと、従来のライフサイクルというのは、生まれてから中年期に最高になって、そしてやがて下り坂で死で終わるっていうんですけど、これはとても大事なところが抜けている。
 それは精神性の命なんですね。人間の精神性というのはむしろ、定年後とか病気をしてから成熟して、成長するので、しかもそれは死で終わらないで、亡くなったあとも、その人が残した生き方や言葉というのが後を継ぐ人の中で生き続ける。これは今までの日本の人々の考えの中で支配的だった、老いや死を暗く考えるっていう考えを180度変えて、むしろそれはチャレンジする新しい生き方なんだっていうことを日野原先生は身をもって教えてくれた、わたくしはそういう死後の在り方、「死後生(しごせい)」と呼んでるんですけど、これを考えると今どう生きるかっていうことへの問いかけであり、それが死を生きるということなんだと、こういうメッセージを受け止めています。

3.では、老いが直面する課題を考えて見ましょう。

①人生の歩みの中で直面する課題

・成人前期 外部の価値への適応(就職、結婚、出産)

・成人後期 内なる価値への適応

 体力の危機、性的能力の危機、人間関係の危機(親の死、こどもの自立、友人の死)、思考の危機(成熟感によって新しい努力の停滞)、将来の不安  ユングは、新たな内的価値への模索をこの時期の課題として指摘している。ある意味で、ほんとうに困難な時期は、中高年期であると言っています。

・高齢期(喪失の時代か、創造の時代か)

心身の機能の低下(機能の喪失)、配偶者、親族、友人を失う(関係の喪失)、定年、引退(役割の喪失)、死の恐怖と寿命(生命の喪失)

②疾病の意味

・適応力の低下、・抵抗力の低下、・慢性病になりやすい、・身体的機能と精神的機能の関係が密接、・症状が教科書通りにでない、・腎機能の低下により薬の作用が残り、副作用がでやすい、・骨粗鬆症

③高齢者は必ず認知症になるか   結晶性能力と流動性能力

④知と身体の関係

・自己中心的=心身の機能脳の器質的な変化による思考面や性格面の硬さ、・猜疑心=視力、聴力の低下が邪推、嫉妬、ひがみを生む、・保守性=記憶力の低下と学習能力の低下、・心気性=極端に病気を恐れる傾向。役割の喪失等により体にのみ関心が集中、予備力の低下も要因、・愚痴=過去への関心=行動範囲の狭さ

⑤LIFEとは?

・命

・生活

・人生

4.終活について考える 老人ホームイリーゼ(HP)より

①目的

「これまでの人生を振り返る」「残される家族のことを考える」「友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる」「やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す」などを行うことで、余生を通してできること・できないことの整理につながります。 
②終活のメリット
終活で得られるメリットは、主に3つあります。
・自分の意思が家族に伝わり、老後の生活が前向きになることです。

伝えるときはまず「自身の健康状態から切り出す」のがポイントです。
・残された老後生活が充実することです。

・遺産相続のトラブルを回避できることです。

③方法  終活1:エンディングノートを書く
エンディングノートは、「プロフィール」や「葬儀に関すること」などと項目を分けることで書きやすくなり、見る側も読みやすくなります。
・本人情報
名前、生年月日、血液型、住所、本籍地、住民票コード、マイナンバーなど
・自分史
学歴、職歴、結婚、出産、夫婦の記念日、マイホーム購入時期、歴代のマイカー紹介、職場での功績、馴染みの土地、幼少期から各年代の思い出、特技、趣味など
・関係する人物との間柄や連絡先
家族、兄弟、親戚、同居していない家族、養子、家系図、友人、知人、職場関係者、恩人、法的関係の相談者など
・財産について
預貯金、口座番号、公共料金などの自動引き落とし情報、クレジットカード情報、基礎年金番号、各種加入保険、株式、不動産、借入金やローン、骨董品、貸金、有価証券や金融資産など
・介護や医療について
希望する介護や医療施設、費用、後見人(財産管理などを任せられる人)、延命措置の詳細、臓器提供、介護や治療方針の決定者、医療カウンセラーなど
・葬儀について
喪主に頼みたいこと、宗派や宗教、戒名や法名、葬儀業者や会場、遺影写真、参列者リストなど
・お墓について
埋葬方法、希望墓地、購入費用、墓地の使用権者、墓地の継承者、手入れ、お供え物など 
・遺言書について 言書の有無、相続リスト、それらの保管場所など

終活2:遺言書を書く

終活3:お墓を決める

       

2019年1月新年メッセージ

2019年1月7日礼拝説教

「悲しみよ、ありがとう。」

聖句:野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていない。(ルカ12章27節)

私たちは、さまざまな悲しみに出会います。そして、忘れられない悲しみもたくさんあります。悲しみで心にポカッと穴が開いて、それを埋めることができない時もあります。しかし、悲しみを知ることによって、他者の悲しみを理解することができるようになる。悲しみという事実によって、今まで気づいていない大切なことを学ぶことがあります。それは、私たちに神様が与えて下さる愛であり、神様が教えて下さる命の大切さであると思います。

私は、2011年3月に発生した東日本大震災以降、被災地の宮城県石巻市で、学んでいます。発災後しばらくは、津波が襲った跡が残り、被害の大きさに呆然としました。その現実を見た多くの人が、復興を祈って、歌を送りました。それが「花は咲くプロジェクト」です。歌詞の一部を紹介します。

誰かの想いが見える 誰かと結ばれている

誰かの未来が見える 悲しみの向こう側に

花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に

花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう

花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に

花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために

ここで歌われている花は、命そのものであると私は思います。今を生きている人々の命、また神様から祝福されて新しく生まれてくる命です。それぞれの人の存在自体が尊いと神様は言われている。しかし、今の社会では、自然の営みの中にある様々な命を軽んじていませんでしょうか。人工で作られた美しさ、目に輝くものに私たちの心が奪われていませんか。

私も、秋に体調を崩し、いろいろな経験をしました。今までできていたことができなくなるといった多くの悲しみも味わっています。でも、自分が何でもできると思っていた時に気がつかなかった家族の存在、学生、卒業生との関わり、教職員の方々のいたわり、私の状態を知った友人たちのメッセージを受けとり、感謝しました。私は、私の歩みの原点が、本年で36年目になるルーテル学院での働きであることを改めて確認できました。また、私の家の窓際には、私が買ったサボテンが置かれています。直径5センチほどの鉢の中に、複数の小さなサボテンが植えられていましたが、今は4つになりました。サボテンに花が咲くと言われましたが、5年を経て、まだ咲きません。私がしばらく留守をしていた家に戻った時に、そのサボテン見て、私は、感動しました。当たり前のことですが、生き抜いてくれていた。

聖書に立ち戻ります。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていない。」

ソロモンは、3000年前のイスラエル王国の第3代目の王で、金銀、財宝に囲まれ、栄華を極めました。そのソロモンでさえ、神は、この花の一つほどにも着飾っていないと言われるのです。私たちの身の回りに咲いている木々、咲いている花は、命そのものです。その神様は、その命の尊さを述べられている。そして命、すなわち生きている私たち一人ひとりが大切であると言われているのです。

私は、改めて申し上げたい。①素直さ:悲しい時には泣き、楽しい時には喜ぶ素直さをもってほしい。②ゆとり:辛い時には立ち止まることのできる少しのゆとりを、③勇気:自分の力ではどうしようもない時に、誰かに救いを求める勇気を、④謙虚さ:一人では生きられないと思った時に、一人で生きてきたのではない事実を受けとめる謙虚さ、をもってほしい。

そうすれば、悲しみによって、私たちは、命の大切さを学ぶことができます。また、私たちに注がれている神様の愛を感じることができる。だからこそ、悲しみにありがとうと言えるのです。そして、皆さんにはそれぞれ、明日への希望が与えられているのです。

本年、大学は創立110年を迎えます。その記念すべき年に、大学は、聖書の中で神の愛を語るのではなく、聖書をもって多くの方々に神の愛を述べ伝え、共生の社会づくりの一翼を担いたいと思っています。

祈り

 

参考

一人では生きられない

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

本年3月、まだ雪の残る福井県美浜市立新庄小学校を訪問した。生徒は、育てた菊を配り、収穫したしいたけを高齢の方々と一緒に食べる。涙を流して喜ぶ方々の気持ちを心の中に蓄え、ともに生きていくことの大切さを学ぶ。自然の豊かさを肌で感じ、創る喜び、働く喜びを体感する。地域は、生徒が育つ場であり、生きる自信を生み出す場だ。

今、各地で、地域が壊れている。夢をあたためる場である家庭で起こる虐待。自分らしく育つ場である学校で起こるいじめと自殺の連鎖。地域に広がる孤立、引きこもり。今は、だれにとっても、生きていくことが難しい。

だから、私は、若き諸君に、自分を信頼し、自分らしい縦軸の生き方をしてほしいと伝えたい。そのために、たゆまぬ努力を、生まれる命と生きている命が輝く自然の営みへの感動を、悲しい時には泣き、楽しい時には喜ぶ素直さを、正しいことやふさわしいことがわかる知恵を、お互いの違いを理解しようとする優しさを、困難に直面しても夢を失わないねばり強さを、辛い時には立ち止まることのできる少しのゆとりを、自分の力ではどうしようもない時に、誰かに救いを求める勇気を、そして、一人では生きられないと思った時に、一人で生きてきたのではない事実を受けとめる謙虚さをもってほしい。

なぜなら、神はあなたを祝福して命を与えられた。あなたは、神に愛されている。一人で生きているのではない。

『「おめでとう」で始まり 「ありがとう」で終わる人生』(教文館)より

 

最近の教会訪問

本年の5月以降、大学を創設した日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団の教会を訪問し、①日頃のご支援の感謝、②大学・神学校受験生の紹介のご依頼(情報の手渡しのお願い)、③本年度献金のお願いをしています。

63日大岡山教会(東京都)、17日東京ルーテルセンター(東京都)、624日津田沼教会(千葉県)、71日市ヶ谷教会(東京都)、78日東京教会、15日保谷教会(東京都)、22日聖パウロ教会(東京都)、29日栄光教会(静岡県)、85日都南教会(東京都)、12日浦和ルーテル教会(埼玉県)、9月23日岡崎教会(愛知県)、29日福岡西教会(福岡県)、健軍教会(熊本県)、30日大江教会(熊本県)、熊本教会(熊本県)です。

いくつかの教会は、すでに掲載していますので、いくつかの新しい教会等を紹介します。

大江教会

熊本教会

岡崎教会

館林教会

札幌教会(北海道教区一日神学校)

2018年前期卒業式メッセージ

「私たちにとって大切なもの」

コリント人への手紙第2

4:16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 4:17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べもにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。4:18わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです。

Oさん、T君、T君、卒業おめでとうございます。今から3名への贈る言葉を述べさせて頂きます。

1.パウロとは、

この手紙の主人公、パウロとはどのような人でしょうか。

パウロは、キリスト者に対して、厳しい迫害を行っていた人でした。しかし、キリストに出会い、キリスト教に改宗し、伝道者となります。それは今までの名誉と地位、生活を捨て去ることだけでなく、迫害していたキリスト者からは信じてもらえず、そして迫害される立場になることを意味します。パウロは20数年、各地をまわり、追われ、最後には捕まり、処刑されます。コリント人への第二の手紙は、パウロがコリント人への第一の手紙を書いたすぐ後,彼の教えに反する暴動がエペソで起こり(使徒19:23-41参照),パウロはマケドニヤへと逃れ、その地で書かれたものだとされています。

そのような状態にあって、パウロは言い続けます。「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」と語るのです。

私たちは、壮絶な人生を送ったパウロではありません。しかし、今を生きる者として、「見えないもの」を考えたいと思います。私は、「見えないもの」は、日々の生活の中にある、大切なものであり、それを通して、神様の愛が現れていると考えています。

2.「このゆびと〜まれ」

記念誌に掲載されていた文を紹介します。「私も赤ちゃんのころ、利用者のおばあさんによくだっこしてもらったり、あやしてもらっていたそうです。でも、実はそのおばあさんは重症の認知症だったそうですが、自分では「このゆび」に働きに来ていると思っていたそうで、そのころの写真を見ても、本当にかわいがってもらったんだなあと、ありがたい気持ちでいっぱいになります。」この文は、富山市立藤ノ木小学校5年岩本万由子が書いたものです。

この夏、私は、富山市にある「このゆびと〜まれ」を訪問しました。必要なときに誰でも利用できる「民営デイケアハウス」として、1993年にスタートし、1998年には県独自の補助金が交付され、「富山型デイサービス」を全国に先駆けて実践してきました。子どもも、お年よりも、障害者も、いろんな人がお互いに支え合いながら、地域の中で自分らしい暮らしを続けられるように、小規模であたたかい、「ふつうの日常生活」を大切にしています。そして、1.赤ちゃんからお年よりまで障害があっても無くても利用できる。2.断らない。3.障害者・ひきこもり・うつ病の人達などの働く場を提供する。4.活動は住宅街でし、町内の人達をまきこむ等の目標を掲げています。

私は、実際に「このゆびと〜まれ」活動を見て、2つのことを学びます。

3.私が学んだこと

  • 困難に直面して明日を見失った方の叫びに応えようとした
  • 一人ひとりのいのちが輝く居場所を提供した

①困難に直面して明日を見失った方の叫びに応えようとした

創設時の苦労は、並大抵のものでなはかったことを承知しています。日本赤十字病院に勤めていた3名の看護師がやめ、事業を始めた時には、「ばか・あほ・まぬけ」と言われたとのこと。しかし、彼女らの覚悟は強かったのです。「帰りたい」「畳の上でしにたい」と言いながら、様々な理由で病院や、転院先の老人病院で生活をし、自分の気持ちを押し殺す人、「早う迎えに来て下はれ」と天井に向かって手を合わせる人、病気の理由が十分わからないまま、退院を余儀なくされ、生きていく自信を失った若者等々の叫びを聞き続けてきました。

だからこそ、その人らしい人生を送ってほしいと、事業を始めたのでした。先ほどの文章を書いた5年生の岩本さんも、あまりにも病弱で、保育所に行けなかったため、一歳の時から「このゆびとーまれ」で育ててもらったそうです。

②一人ひとりのいのちが輝く居場所を提供した

そもそもいのちとは何でしょうか。聖路加病院の院長で昨年105歳で亡くなられた日野原重明先生は、いのちとは「自分が使える時間のこと」だと言われました。たとえば体の中のポンプ・心臓は、絶えず鼓動しています。これは、体で感じ、医学的には見える。しかし、「自分が使える時間」とは、日々生きていく時間。一人ひとりも他者のために、自分を活かす時間でもあります。 5年生の岩本さんは言います。「「このゆび」に来ていると、障害のある人もジロジロ見られたり、かわいそうになんて言われることもなくて、みんな自分でできることを精一杯やって「役に立っている」自分に自信をもって、いきいきと過ごしています。私は、障害があるから「かわいそうな人」なのではなく、「障害があってもがんばっている人」といっしょに過ごして、協力し合っていくことがお互いのために大事だと思います。

それぞれが、自分のいのちの時間を精一杯使って生きているのです。確かに、その人の姿は見えます。しかし、その人への理解、その人の人生への共感、互いに培かってきた信頼は、目では決して見えない。そこで生活する一人ひとりの当たり前の感謝も目では見えない。私は、「見えないもの」は、日々の生活の中にある、大切なものであり、それを通して、神様の愛が現れていると考えています。そして、「見えないもの」とは、私自身が、「見えていない」ものではないでしょうか。

パウロの言葉に再度立ち返ります。「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」。そして、「見えていないもの」を見極める力を絶えず養い、学んだこと、思い出を胸に、新たな旅立ちの時として頂きたいと思います。

Oさん、T君、T君、改めて、卒業おめでとう。

*富山市立藤ノ木小学校5年岩本万由子の原稿は、「このゆ〜びとまれ」の箇所に紹介されています。

2018年1月謹賀新年

2017年度浦和ルーテル学院入学式

2017年4月7日、浦和ルーテル学院の入学式が行われました。同学院は、心の教育とキリスト教教育、国際交流と英語教育、きめ細かな教育と12年一貫教育という、他の学校では学べない機会を提供しています。私は、教育の本道を歩み、経済的利益のみを優先する現代社会において希有の存在である同学院のことを、少しでも多くの方に知って頂きたく思っています。

光栄にも、全校生徒にお話をする機会を頂きました。小学校1年生等もおり、生徒の状況を見て、話の内容を決めていきますので、原稿通りお話することはまずありません。そのことを前提に、原本となる原稿を掲載します。

When You Wish Upon a Star(星に願いを)

今日、入学した学生の皆さん、そして保護者の皆さん、ご入学おめでとうございます。私は、今日、新たなスタートを始める方々に、星というテーマでお祝いの言葉を差し上げさせて頂きます。

新入生の皆さんは、ディズニーのアニメ「ピノキオ」を観たことがありますか。主人公のピノキオは、人形でしたが、天使に命を与えられ、いろいろな経験をしていきます。そして、サーカスで鳥かごに閉じ込められた時などの、自分が本当に辛い時に、妖精が現れました。その時に流れた歌が、When You Wish Upon a Star(星に願いを)という歌です。

「星に願いを懸けるとき 誰だって 心を込めて望むなら きっと願いは叶うでしょう」(訳詞:聖ひかる)

星は、明るい都市よりも、人工の光が少ない場所で良く見えます。寒い時ほど、夜空が澄んで、きれいな星が輝いています。

私は、2011年3月11日に起こった東日本大震災以来、宮城県石巻市という被災地に行き、働きの場を与えられています。感謝しています。ただ、悲しいことですが、多く家が流されたところもあります。その地で、寒く、そして天候が良い時に、たくさんの星が見えます。私は、その星の一つひとつに、今まで気がついていなかった意味があったのではないかと思っています。

一つは、ありがとうと言う「感謝の星」です。今まで当たり前に思っていたことが、大切なことであったことが分かる。自分のことを大切に思い、支えてくれていた家族や友人を覚え、普段の生活の大切さと意味を知る。だから、感謝が生まれる。

二つめの星は、「希望の星」です。今をスタートに、あらたな生活を築こうとする働きが、たくさんの地域で生まれています。また、希望を失った方々に、たくさんのソーシャルワーカーが、希望を届けています。

三つめの星は、「目指す目標となる星」です。自分が目指す明日を描くこと。自分なりの目標をもつこと。100人いれば、100通りの目標があると思います。

時には夜空を見上げ、ありがとうと言う「感謝の星」、「希望の星」、「目標となる星」を見つめ、一日一日を大切にして下さい。

ご入学おめでとうございます。

 

日本キリスト教社会福祉学会「今日における平和の大切さを考える」

日本キリスト教社会福祉学会 会長声明
「今日における平和の大切さを考える」

           日本キリスト教社会福祉学 会 長 市川 一宏  副会長 岸川 洋治 ・山本 誠

戦後70年の節目となった2015年は、多くの国民が改めて第2次世界大戦によって亡くなられた方々を覚え、世界の恒久平和を祈り、戦争を二度と起こさないことを誓いました。私は、近隣諸国の多くの方々の尊いいのちを奪う戦争を起こした日本の戦争責任は、決して過去のことではなく、今に受け継がれていると考えています。戦争によって被害を受けた方々の悲惨な体験と厳しい生活環境から生じたさまざまな傷は、決して消し去ることができるものではありません。
私は、日本キリスト教社会福祉学会(以下学会)がこの現実に真摯に向き合い、今後どのような歩みをすべきかを考えることが今求められていると思います。そのため、以下の3点を今後の学会の取り組みの起点とします。

1.謝罪し、和解を求める
そのため、本学会が考えるべきことは、戦争の責任を自覚し、いのちを奪われた人々に謝罪し、和解を求めることではないでしょうか。日本の戦没者は310万人とされていますが、アジア諸国での戦没者はそれをはるかに超え、日本は力でアジア諸国を占領し、多くの方々のいのちを奪いました。聖書には、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(ローマ信徒への手紙第15章第1節)と書かれています。今日にいたるまで、戦争被害を負っておられる方々に対して、本学会はどのような行動をしてきたか、自ら問い直さなければなりません。

2.2度と戦争を繰り返さない
平和の意味と平和を実現する術を学び、社会に発言していくことが必要です。ふりかえって、第2次世界大戦は、突然起こったものではありません。戦争に至る前に、私たちがどのようなことをすべきであったか、過去から学ぶことが大切です。また、紛争やテロの頻発する現在、憎しみの連鎖を断ち切るために、本学会は、どのようなことが可能か、絶えず模索し、さらに実践していくことが求められています。

3.多様性の理解と対話
第3に、平和の危機とは、戦争がもっとも大きな要因ですが、いのちや生存に対する脅威、差別、偏見、貧困、不平等、人間性の否定、基本的人権の蹂躙、環境破壊、核(原発を含めて)の脅威等も含みます。まず、本学会では、宗教、文化、伝統、人種、性、生活習慣等の相違を理解し、多様性を尊重し、対話と協力を深めていくことが大切です。そして、日本という一国を超えて、人間のいのちと存在、そして生活を支える「人間の安全保障」の視点から、地域、社会、国、世界を見直そうとする「ヒューマン・セキュリティ」の視点を忘れないこと。事実、軍事的手段による安全保障だけでは、平和は望み得ない事実に私たちは直面しています。開発においても人間中心の考え方を強調され、経済が推進するグローバル化した社会において、生活の豊かさについて、一国を超えて考えていくことが求められています。
以上の視点を踏まえから、本学会は、具体的な取り組みを模索できないでしょうか。

1)平和を目指した実践から学ぶ
平和の実現にむけて、たとえ小さいと思われていた行いでも、一つひとつを大切に、先達や会員の働きを学び、理解する取り組みを積み重ねていくこと。国を越えたNGOや教会も、飢餓、内戦、絶対的貧困、環境破壊、政治的抑圧等の困難な問題を解決する取り組みが盛んに行なっています。また、本学会の会員には、それらの活動に関わっておられ、また独自に実践されてこられた方々もおられます。

2)キリスト教社会福祉実践の意味を学ぶ
キリスト教社会福祉実践とは、それぞれのいのち・存在を大切にするという原点に立ち、多様な側面から人間を理解し、生きていくことを大切に、日々共に生きていく道程であると思います。そのために、以下のことが必要です。

① いのちの意味を学ぶ
すべてのいのちは、神様から祝福されて与えられたもの。この事実に、疑義をはさむ余地はありません。だれもが、脈打つそのいのちを感じながら日々の生活を送り、明日に向かって歩んでいくことが求められます。

② 人間の存在の意味を学ぶ
人間を、医学的、生物学的に分析することは可能です。しかし、それでは人間そのものの姿が見えません。それぞれには、宗教、生活文化、伝統などの異なる背景と、それぞれの生き方、個性、能力に違いがあります。そのような一人ひとりの存在に敬意をはらい、そこから学ぶことが大切です。

③ 生きることの意味を学ぶ
お金を失うと生活の危機、誇りを失うと心の危機、希望を失うと存在の危機と言われます。生活の危機にある方々へのさまざまな取り組みは、キリスト教社会福祉実践も担ってきたという歴史があります。本学会は、2012年全国大会から3回にわたり、「希望の光が見える新たな社会づくり」をテーマに掲げ、学んできました。それぞれの人の誇りを大切に、それぞれの希望を見いだし、それぞれに届けることができるのか、学会自身が問われています。

3)共に歩む
本学会だけでなく、他学会、他機関、そして平和の実現を目指して、社会福祉現場、教育現場、宣教の現場で共に働いている人々と連帯して、希望の光を灯す学会でありたいと思います。
平和とは、与えられるものでなく、創るものであり、すでに達成しているものでなく、たえず達成を目指して挑戦し続けるものです。ならば、将来に向かう学会の存在の意義の根幹は、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍びあい、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ信徒への手紙 3:12-15)という聖句に固く立ち、キリスト教社会福祉実践に取り組んでいくことと信じています。

2016年6月24日 総会報告

2015年度東京神学大学教職セミナー特別講演

2016年1月13日午後7時より、国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて、特別講演『「おめでとう」で始まり「ありがとう」で終わる人生を-福祉とキリスト教』のご依頼を頂きました。私の母教会は、日本基督教団阿佐ヶ谷教会であり、父母も教会の墓地に教会員として名前が刻まれています。阿佐ヶ谷教会は、東京神学大学とは密接な関係にある教会です。

また、私は、ルーテル学院大学に1983年に勤め、学生諸君や教職員の方々と一緒に学び、遊び、励まし合い、そして関係者の方々よりご指導を頂きながら、本年で33年目を迎えます。この間、本当に実り豊かなたくさんの時を与えられました。

今回、日本基督教団の教職セミナーで講演をさせて頂くことは、光栄でしたが、とても緊張し、準備を重ねました。しかし、私自身の原点を学ぶ機会が与えられたこと、またルーテル学院大学で働く意味を再確認できたことに感謝しています。

東神大学報2016年3月11日号より

キリスト教社会福祉の理念による福祉・教育・教会のネットワーク

2015年5月30日、荻窪栄光教会において、第1回サポートネットワークシンポジウムが開催されました。「<おめでとう>で始まり<ありがとう>で終わる人生」というテーマで私が基調講演をさせて頂き、「福祉・介護の『働き人』を育て送り出す」というテーマでパネルディスカッションを行い、私がコーディネーターをいたしました。パネリストは、阿久戸光晴聖学院理事長・院長、廣瀬薫東京キリスト教学園理事長、中島秀一荻窪栄光教会牧師、中島真樹練馬キングスガーデン施設長です。その後、①福祉・介護関係、②教会関係、③教育関係、④福祉・介護サービスに分かれ、活発な議論がされました。

様々なネットワークが必要とされていることを学び、今後の可能性を考える大切なひとときでした。

キリスト新聞「シンポジウム座談会記事」 

キングスガーデンネットワーク

<おめでとう>で始まり<ありがとう>で 終わる人生を

3月27日(日曜日)8時30分より、また4月3日(日曜日)18時30分より、 NHKラジオ第2「宗教の時間」において、私の「<おめでとう>で始まり<ありがとう>で 終わる人生を~福祉と信仰の現場から」がアンコール放送になります。