教会関連

最終講義(2023年3月4日)

最終講義録画

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最終講義レジメ

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参加者へのメッセージ

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「私にとって大切なもの」

2022年10月2日(日曜日)、日本福音ルーテル教会に聖日礼拝で、メッセージをさせて頂きました。市ヶ谷教会は、恩人である故石原寛先生を送り出し、また長く神学校、大学・大学院をお支え下さった教会です。今回が大学の教員として最後の講壇奉仕であり、改めて心より感謝いたします。

1.メッセージをさせて頂くことの感謝=ルーテル学院大学39年間の感謝

 今日、市ヶ谷教会におきまして、礼拝のメッセージを述べさせて頂きますこと、心より感謝いたします。私は本年度で定年を迎えますが、私が学長であった14年間も含め39年間、私とともに、日本ルーテル神学校、ルーテル学院大学・大学院をお支え下さいました。今日は、感謝をもって、「私にとって大切なもの」というテーマで、お話しさせて頂きます

2.コロナ禍における問題

コロナ禍にあって、2つの危機が顕在化しました。ひとつは、関係性の危機です。その代表的な状態がひきこもりです。内閣府は2019年3月29日、自宅に半年以上閉じこもっている「ひきこもり」の40~64歳が、全国で推計61万3千人いるとの調査結果を発表しました。7割以上が男性で、ひきこもりの期間は7年以上が半数を占めています。内閣府では15~39歳も合わせた引きこもりの総数は100万人を超えるとみています。さらに2020年3月より続くコロナ感染症の拡大によって、特に高齢者・障がい者の孤立化が顕著となり、感染を恐れて外出や関わりを控えた結果、ひきこり状態にある虚弱な高齢者、認知症の高齢者が増加したのではないかと危惧されています。

もう一つは経済的危機です生活保護受給者の数は、2021年1月現在被保護実人員は2,049,630人、被保護世帯は1,638,184世帯に達し、コロナにより仕事を失った方々も増え、生活保護の申請が増加しています。また、非正規雇用、失業のなかで生活に困窮する現役世代が増え、結果として子どもに及ぶ貧困の悪循環をどのように断ち切るかが課題になっています。 

今は、私たちが経験したことのない深刻な生活問題が顕在化していると同時に、今まで何とか生活を維持してきた脆弱な生活基盤のもとに暮らしていた人がコロナの影響で基盤を失っています。そして、多くの危機は、顕在化している以上に、社会の中で深く潜行し、進行しているのです。

3.老いても希望を失わず、生きていく姿は、神様の愛そのもの。だから、生きていく姿を多くの人に伝えたい。

私は、特に、混迷する社会において彷徨い、自分の居場所がなく、追い詰められている若者が増えている現状を心配しています。今の生活に絶望することなく、明日を一緒に歩んでいくために、若者に、大切なもの、すなわち希望をもって生きていくことができるよう、すなわち神様の愛を伝えたいと思っています。

確かに予想していないことに直面し、戸惑い、立ち止まってしまう時があります。私の14年の学長としての時期をふりかえり、いくつもの困難があったことを思い出します。学長としての最初の困難は、前任者の恩師である清重先生の後継になりえるのか。自信も確信もありませんでした。それも教会が建てた大学の運営を、牧師でない一信徒である自分が担えるのか、戸惑いと孤独感が重く私の肩にのしかかりました。周りの方も随分心配なさったと思います。その葛藤の中で、私が覚悟したことは、講壇奉仕だけでなく、講演や仕事で近くまで行った時に、日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団の教会を訪問することでした。今数えてみると、訪問していない教会は、全国の119教会中、10以下になっていました。私は教会を訪問し、牧師や信徒の方々にお会いし、それぞれの思いを知ることができましたし、自己紹介もできました。教会訪問によって、学長として立ち位置を学ぶことができたことは、私にとって貴重な経験でした。なお、2002年4月に学長になって以降、当時の理事長で、市ヶ谷教会の教会員であった故石原寛先生は、いつも私の思いを受け止め、いつも応援して下さいました。私の恩人です。

しかし、本当に辛い時もありました。その一つは、病気、交通事故、自死で学生が亡くなるという現実に直面した時です。ご家族の嘆き、学生や教職員の動揺、関係者の不安等々、大学は急に混乱ただ中に置かれました。今までの笑顔が一瞬で消え、悲しみが大学全体を覆います。当然、学長としての判断が問われました。まさに浅野順一牧師が書かれたヨブ記の世界。浅野順一氏は、ヨブ記について書かれた書物 (『ヨブ記』岩波新書1968年、p.23~27)で、 こう言われました。「生活や心の中に穴が開いており、そこから冷たい隙間風が吹き込んで来る。そして、その穴から何が見えるか。穴の開いていない時には見えないものがその穴を通して見える。貧しきこと、悲しむこと、義のために迫害されることはそのままでは幸福に結びつかない。それは穴を埋めるだけでなく、 むしろ穴を通して何かを見る、そのことによって不幸が幸福に変えられるのであって、ここに宗教のもつ逆説が成立する」と。

私は、事態の連鎖が怖く、事実を曖昧にしたいと思うこともありました。言葉にならない悲しみを経験し、葛藤のただ中にあった私たちは、神様から祝福された与えられた命をきちんと受け止めることが、第一にすべきことだと確信し、悲しい事実に真向かおうと決意しました。神学関係の授業を教え、牧師である教員の存在はとても大きかったことを思い出します。その決意以降、私たちの視界が広がり、覆っていた霧が晴れていきました。貴重な青春時代に大学で学んでいる学生、一緒に歩んで下さる教職員、支えてくださっている教会員やたくさんの方々の存在を再確認できました。そして、苦しみのただ中にある私たちに差し出された神様の救いのみ手が見えたと思いました。そもそもルーテル学院には、中心的場所として礼拝堂がある。ならば、学内に祈りの場を設け、皆でその学生を追悼する礼拝を行い、神様に勇気づけられて、皆で事実を受け止めることを目指しました。皆で亡くなった学生への感謝と哀悼の意を表し、互いの思いを大切に、一歩づつ、明日に向かって歩みだすことができたのでした。

4.「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」

聖句に戻ります。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べもにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです。」(コリント人への手紙第2)

パウロは、キリスト教に改宗し、伝道者となります。それは今までの名誉と地位、生活を捨て、迫害される立場になることを意味します。パウロは20数年、各地をまわり、追われ、最後には捕まり、処刑されます。コリント人への第二の手紙は、パウロがコリント人への第一の手紙を書いたすぐ後,彼の教えに反する暴動がエペソで起こり(使徒19:23-41参照),パウロはマケドニヤへと逃れ、その地で書かれたものだとされています。

そのような状態にあって、パウロは「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」と語るのです。

5.老いを生きる

私には、老いの生活が待っています。加齢によって、これからもますます身体の機能は低下します。愛する家族や親しかった友人を失う悲しみは増えるばかり。しかも仕事は定年を迎え、自分にふさわしい新たな役割を探さなければならない。なのに、明日への希望を持つことができるだろうか不安です。頭を抱えて、明日への歩みを止めてしまっています。しかし、感動する心と希望をもって、明日に向かって今を生きておられる先輩の方々の生き方に、私は感動を覚えます。そして、その生きる姿は、神様の愛そのものだと思っています。コロナ禍にある生活は困難が伴います。生きていくことは大変です。だからこそ、「老いの坂をのぼりゆき、かしらの雪つもるとも、かわらぬわが愛におり、やすけくあれ、わが民よ」(日本基督教団讃美歌第一編284番)と讃美歌にあるように、山の頂に向かって歩み続ける方々の生きる姿に私は勇気づけられます。繰り返しになりますが、「生きること」が神様の愛であると思うのです。

確かに、楽しかった時に戻ることはできません。また、誰にも将来を見通すことはできません。過去の後悔に押しつぶされそうになります。しかし、神様の愛のまなざしを心にとめ、日々祈りつつ今を生きることによって、過去の事実は変わらなくとも、過去の意味が変わっていく感動を、神様はたえず私たちに与えてくださっているのではないでしょうか。

6.これからの自分自身が目指す生き方

私には、まだまだ仕事があります。今は、まだ現役として働いています。年齢を重ね、それができなくなっても、大切な仕事があります。それは最後の時、支えてくれた家族や人びとに感謝するという仕事が残されます。それは人生最後でもっともすばらしい証し。感謝する自分の命が光る。家族や友人、専門職等の見看る人びとの思いがその人の命を通して光る。その人を支えてきた神様の愛が、その人の人生を通して光り続ける。神様の愛は、とどまることなく最後まで私たちに注がれています。私は、人生に停年はないと言いたい。

私は、こんなにケアを必要とする状態になっても生きているのはエゴだという意見を聞くことがあります。「生きる」メッセージを見逃しているのではないかと思います。このような人生に生きている方々の姿を、私は多くの若者に伝えたいのです。人生の最後まで生きる姿は、世代を超えた共通言語です。解説する必要はありません。

これまでのお話しでおわかりになって頂けたら幸いです。「私にとって大切なもの」とは、生きることであり、それ自体が神様の愛です。神様が、日々の生活を通して、一人ひとりの命を祝福して下さっている。だから生きること自体が神様の愛なのです。老いを自分自身のことと考え、コロナ禍にあって、様々な困難に直面することによって、私は、少しづつ、見えなかった神様の愛に気がつくようになってきました。聖書には、「見えないものは永遠に存在するからです」と書かれていますが、見えないものとは、神様の愛ではないでしょうか。

ちなみに、私たちの卒業生は、この神様の愛に応えるべく、日々働いているのです。

日本キリスト教社会福祉学会第62回大会

<テーマ>

危機の中にあるキリスト教社会福祉Ⅱ―誰ひとり取り残されない社会をめざして―

<プログラム>

◇1日目:6月24日(金)13:00~19:00

開会礼拝:鄭 なおみ氏 (日本基督教団田浦教会牧師)

メッセージ:阿部 志郎氏 (学会名誉会長、横須賀基督教社会館)

基調講演:市川 一宏氏 (学会前会長、ルーテル学院大学)

特別講演:奥田 知志氏 (日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師、NPO法人「抱撲」代表)

研究発表(分科会)

総会 

◇2日目:6月25日(土)9:00~13:00

シンポジウム「危機の中にあるキリスト教社会福祉 Ⅱ」
   中田 一夫氏(社会福祉法人イエス団 みどり野保育園園長)
   佐々木 炎氏(日本聖契キリスト教団中原キリスト教会牧師、NPO法人ホッとスペース中原代表)
   松橋 秀之氏(元日本水上学園園長、横浜YMCA常議員会副議長)
   [コーディネーター] 向谷地 生良氏(北海道医療大学、社会福祉法人浦河べてるの家理事長)

パネルディスカッション「誰ひとり取り残さない社会を目指して:かながわからの発信」
   小林 信篤氏(社会福祉法人横浜やまびこの里理事・障害福祉部長)
   内嶋 順一氏(弁護士、横浜弁護士会高齢者・障害者の権利に関する委員会委員長、神奈川県意思決定支援専門アドバイザー)
   東洋大学 学生団体LEAF(津久井やまゆり園・芹が谷やまゆり園利用者「お友達プロジェクト」参画団体)
      高木 悠恵氏(東洋大学社会学部社会福祉学科)
      勝又 健太氏(東洋大学大学院社会福祉学研究科博士後期課程)
   [コーディネーター] 鈴木 敏彦氏(和泉短期大学)

2022年キリスト教社会福祉学会大会基調講演

2022年キリスト教社会福祉学会大会基調講演

テーマ「危機の中にあるキリスト教社会福祉―新たな使命を考える」

Ⅰ)基本的考え方(問1:何故、今、このテーマを語るのか?)

①それぞれの働きに対して、感謝し、お礼を申し上げたい

 本年で、ルーテル学院大学の教員として39年目を迎えています。この間、たくさんの在学生、卒業生と共に学び、明日を語り合ってきました。しかしこの10数年近く、地域における生活問題が深刻化、複雑化、広範化してきており、多くの卒業生が解決困難な問題に直面しています。ほってはおけない。

 また、コロナ禍にあって、入所施設、在宅サービスの担い手(専門的サービスの従事者だけでなく、インフォーマルケアの担い手を含む、より幅広い主体と位置づけます)は、利用者にコロナを感染させないよう日々細心の注意を払って支援を行い、コロナに感染した利用者への対応等、大きなストレスを抱えていました。また、入所する利用者が家族と会うことができるような工夫や、できるだけ豊かな生活を送って頂けるよう努力なさいましたが、困難な事情もあり、戸惑い、疲弊している担い手も少なくありません。

2020年初頭から続くコロナの拡大により、事業や業務に影響を受けながら、利用者の命を守るために全力を尽くしてこられた方々に、心より感謝いたします。その行為は、今まで守ってきたミッションの一つの形であったと思います。

顕在化した深刻な生活問題に私たちはどう臨むか

 私には、与えられた社会的責任を通して、様々な情報が入ってきます。そして、ロシアによるウクライナへの侵略の不安と影響を含めて、今は、私たちが経験したことのない深刻な生活問題が顕在化していると実感しています。私は、かつて同じような実感をもった出来事を思い出します。それは、2011年3月11日に起こった東日本大震災の被災地での経験です。福島県、宮城県を中心とする被災地を何度も訪問しましたが、今まで多くの方々が住まわれていた地域が津波で一気に流され、ほぼ更地になっていた現実を見て呆然と佇むだけであった自分を今でも思い出します。以降、2020年3月まで10年近く、石巻市で復旧復興のお手伝いをさせて頂きましたが、それは、今まであった家族、近隣、友人、ボランティア、専門職との「つながり」「縁」を再構築していくことであり、一緒に希望ある未来を描くことでした。厳しい現実に直面しているからこそ、人と人のつながりを取り戻すという支援の原点に戻りたいと思っています。

キリスト教社会福祉は直面する危機にどのように取り組むか

 今回のテーマであるキリスト教社会福祉は、クリスチャンである私にとって生き方、信仰の問題であり、核心です。ルーテル学院大学が目指した、「生活上の困窮を持つ人々に寄り添う社会福祉、心に悩みを持つ人々に寄り添う臨床心理、そして生きる意味や意義を問い求めるスピリチュアルな課題を持つ人々に寄り添うキリスト教」を統合させた教育は、キリスト教社会福祉を実現する一つの方法でした。なお、キリスト教社会福祉を堅持することは、私にとって極めて大切なことですが、日頃一緒に生活問題の解決に取り組んでいる方々にとって、あまり重要なことではないかもしれません。共に歩むためには、互いに理解し合える言葉、行動等を考えていきたいと思います。

)コロナ禍だからこそ見えてくることがある一人では生きられないという事実(問2:地域では、何が起こっているのか)

危機の深刻化、複合化

1.関係性の危機 ホームレスとハウスレス

 そして、あくまで私の推測ですが、交通機関等における殺傷事件、放火事件を起こす犯人を生み出す要因に、孤立によってもたらされた底知れない孤独があるのではないでしょうか

ひきこもり

 内閣府は2019年3月29日、自宅に半年以上閉じこもっている「ひきこもり」の40~64歳が、全国で推計61万3千人いるとの調査結果を発表しました。7割以上が男性で、ひきこもりの期間は7年以上が半数を占めています。結果は15~39歳の推計54万1千人を上回り、ひきこもりの高齢化、長期化が鮮明になりました。調査時期の違いなどはあるものの、内閣府では15~39歳も合わせた引きこもりの総数は100万人を超えるとみています。さらに2020年3月より続くコロナ感染症の拡大によって、特に高齢者・障がい者の孤立化が顕著となり、感染を恐れて外出や関わりを控えた結果、ひきこり状態にある虚弱な高齢者、認知症の高齢者が増加したのではないかと危惧されています。

 また、2021年、人口約70万人の江戸川区は、18万世帯の24万6000人余りを対象に実態調査を行い、ひきこもりとされたのは7919人、14歳以下の不登校の子ども1113人などと合わせると区内にひきこもりの人が9096人いることを明らかにしました。70人に一人に計算になります。

8050問題、2025年問題

 8050問題とは、長く引きこもりを続けてきた50歳代の子どもが80歳代の親と生活している状態を言います。子どもには収入がなく、したがって年金などの社会保障を受ける権利もなく、両親が亡くなると経済的問題に直面します。

 『2025年問題』とは、2025年に「ベビーブーム世代」が後期高齢者となり、高齢者人口は約 3,500万人に達し、認知症高齢者数は、約320 万人になり、また世帯主が65歳以上である高齢者の世帯数は、約 1,840 万世帯に増加し、約7割を一人暮らし・高齢夫婦のみ世帯が占めると見込まれる問題を言います。この問題は、特に都市部で顕在化します。

コロナ禍の地域における高齢者・家族等の生活問題の深刻化

・電話やベルによる現状把握には限界があり、フレイル等の実際の状態が把握できない。深刻な状況が進行しています。

・コロナウイルスの感染を恐れ、外出を控えている高齢者が自宅で転び、骨折をするケースが増えています。

・介護予防につながる活動の場、地域の仲間づくりの場がなくなるか減ることによって、社会的なつながりが切れてしまった高齢者が増えています。

児童虐待

 児童虐待の相談件数が急激に増えています。児童虐待の大きな要因は、家族、地域における孤立と、経済的困窮です。

それぞれの取り組みから聞こえる叫び

 寄り添い型相談事業の実績から、以下のことが分かりました。リモート電話相談、SNS、ビデオチャット相談等多様なツールでの相談「よりそいホットライン」(24時間365日無料) が行われ、2021年12月末現在、5,667,206の呼数になり、フリーダイヤルでの対応総数(223,646件<複数回答>)を行っている。その内容は、傾聴が35.7%、気持ちや課題の整理が42.4%、毎月94人程度の相談者を継続支援に繋げ、延べ5,945人が継続的支援を受けており、セーフティネットとしての機能を果たしていると思います。

2.経済的危機

生活保護の現状

 生活保護受給者の数は、2021年1月現在被保護実人員は2,049,630人、被保護世帯は1,638,184世帯に達し、コロナにより仕事を失った方々も増え、生活保護の申請が増加しています。

生活困窮者自立支援の状況

「令和2年春から続くコロナ禍は、社会の脆弱性を照らし出し、その影響は世代・属性を超えて非常に広範囲に及んだ。休業やシフト減、雇止め等による経済的困窮に加え、緊急事態宣言等に伴う外出自粛により人とのつながりが変化し、社会的に孤立を深める人、DV・虐待など家庭に問題を抱える人が顕在化した。こうした影響は、コロナ禍以前から生活困窮のおそれがあった人や脆弱な生活基盤のもと暮らしていた人がいかに多く存在していたかを浮き彫りにした」(「生活困窮者自立支援のあり方等に関する論点整理」生活困窮者自立支援のあり方等に関する論点整理のための検討会・ワーキンググループ、令和4年4月26日)

子どもの貧困

 非正規雇用、失業のなかで生活に困窮する現役世代が増え、結果として子どもに及ぶ貧困の悪循環をどのように断ち切るかが課題になっています。 

生活福祉資金の緊急小口資金等特例貸付

 新型コロナウイルス感染症の拡大にともなう生活困窮者の拡大によって生活福祉資金制度の「緊急小口資金(償還期間 2年 主に休業者)」と「総合支援金(償還期間 10年 主に失業者)」の要件を緩和し、特例を設けて令和2年3月より必要な貸し付けを進め、翌年令和3年3月27日までに申請件数は200万件を超えました。(貸付決定 約83.6万件 約7377.2億円)現在、貸付金額は総額一兆円を超えています。ちなみに、問い合わせの文書を送っていますが、東京の場合、5%は宛名不明で戻ってきています。なお、新型コロナウイルス感染症の影響のでる前から困窮状態にある人、不安定な職業についている在留外国人、その他多数の生活基盤がぜい弱な人々などの存在がコロナの影響で顕著化しています。

 また、資金を借りている人は、外国籍の住民も多く、コミュニケーション・言語の問題で孤立している危険性があります。

 今は、私たちが経験したことのない深刻な生活問題が顕在化していると同時に、今まで何とか生活を維持してきた脆弱な生活基盤のもとに暮らしていた人がコロナの影響で基盤を失っています。そして、多くの危機は、社会の中で深く潜行し、進行していると思います。

コロナ禍における事業者・見守り・サロン活動の課題

事業者が直面する事業継続の危機

 利用者が外出自粛及び自主的にサービス利用を控え、在宅給付事業所の収入が減少し、経営状況が悪化しています。東京都区部の通所型、ショートステイでは、休業するケースが出ています。

職員の日々の活動・仕事に影響する感染病の危機

 利用者に感染させてはいけないと、従事者は日々緊張して仕事についています。しかし、コロナ対応がいつまで続くのか、どこまでやればいいのか、また家庭における濃厚接触から仕事に出られない職員も出て、職員に体力的、精神的な負担が重くのしかかっています。

 コロナの感染を予防する決定的な方法が限定されている中で、生活問題の把握が困難であり、また住民の要望にどのように応えていくか、現場は試行錯誤です。

地域福祉活動の中止、撤退等にみる孤立の危機

 ふれあいいきいきサロン、見守り活動等のインフォーマルケアで活動を休止しているところも多くなっています。その結果、通ってきた高齢者の孤立の問題が顕在化してきたことに留まらず、活動団体の基盤が揺らいで、活動を開始することが難しくなっている活動団体も決して少なくはありません。

 令和3年6月11日~25日、東京都社会福祉協議会は、62社協を対象に調査を行い、コロナ禍において、顕在化した以下の課題を明らかにしました。㋐高齢者のフレイル・認知機能の低下、㋑障害者の交流の機会の減少、親以外の大人との交流が減った子どもたち、㋒ギリギリで生活できていた世帯が抱えていた複合的課題、親族の支援が不可欠であった子育て家庭、外国籍の居住者の生活実態、ひきこもりなどの複合的課題の表面化

 他方㋐地域活動の停止による活動者のモチベーション低下、中高校生等のボランティア活動の機会の減少、㋑デジタルスキルの世代間格差 等

『重層的支援体制整備事業にかかわる取組み及びコロナ禍における地域課題に関する状況(区市町村社協アンケート結果)』2021年7月より

⑶行政の混乱

「政府、厚生労働省、東京都、庁内など様々な所から発せられるコロナウイルス関連の通知メールも連日、大量に届いており、日々刻々と悪化する状況の中、様々な行政庁が悪戦苦闘し、最善の方法を模索しながら日々対応している状況です」

一緒にテーブルを囲み、話し合うことによって、わかったこと

三鷹ネットワーク大学において、ルーテル学院大学院の高齢者福祉研究の授業として、東京都小金井市、調布市、三鷹市と東京都関係者等による4日間のトークセッションを開催できました。

そこからわかったことは、以下の通りです。

㋐地域において、孤立の現状、ケアを要する状態の拡大等の、地域で起こっている問題を共有できました。㋑コロナ禍にあって、それぞれが事業や活動の問題に直面し、制限の中で、試行錯誤している現状を共有できました。㋒関係者で地域にある様々な活動、サービス、場、人的資源、地域関係等の資源を掘り起こし、また各市行政施策の特徴、個性、またサービスのシステム、活動の特性を相互に理解することができました。ちなみに、その取り組みは、高齢者保健福祉計画・介護保険事業計画に反映できました。㋓互いの思い、活動・事業の強みと限界を確認し、各団体の強みは活かし、弱みは補いあいながら、協働した取り組みを行う必要性と可能性を確認できました。

)私たちは、コロナに問われているのです。(問3:地域で、どのような取り組みが始められているのでしょうか)

 私は、コロナ禍にある地域ケアを討議する際には、以下の3つの基本的視点を紹介し、実際に取り組んでいます。

①自らの働きを問い直す

 ふりかえって、2020(令和2)年初旬に始まるに新型コロナウイルスの広がりは、今までの関係を打ち砕き、不安、 恐怖、不信、怒りを生み出し、負の連鎖が広がってきています。だからこそ、私は、大切なもの、大切なことを守る覚悟が必要だと思います。私はその中に「人への思いやり」を加えたい。今すべきことを考え今できることを実践して頂きたいと思います。

 そのために、まず自らの働きを問い直すことが必要です。コロナによって、さまざまな活動が止まりました。その結果、大切なFACE to FACEの関わりができにくくなってきました。そのことによって、互いの心の交流ができなくなり、支援してきた方々が生活困難のただ中に置かれてしまった。地域にあって、各地域福祉活動、サービスが果たしてこられた役割がいかに大切であったか明らかになりました。ならば、何としても関わりを再生するか、それに代わる行動を生み出していかなければなりません。そのようなウイルスの脅威にさらされているからこそ、改めて自らの働きの意味・目標を確認し、可能な方法を見いだすことが必要ではないでしょうか。

地域のあるべき姿を描く

 感染を恐れ、感染した人への非難・排除、最前線で対応している医療・福祉従事者への中傷は、互いの存在を認めあったコミュニティがいたるところで寸断されていることを如実に示しています。また、多くの住民の困難な生活が浮き彫りにされてきました。だからこそ、今、互いの存在と違いを認め合い、支え合う地域を描いていくことが大切になっています。そして、私は、後で申し上げる痛みの共感から始まる地域の再生を目指したい。

協働した働きを始める

 コロナにより未曾有の生活課題が顕在化しています。だからこそ、それぞれが踏ん張るだけでなく、これからの勝負は、互いに支え合うために様々な方法を開発し、今まで築いた協働の働きを強化することが必要だと思います。孤立を防ごうと活動している人自身が孤立してはなりません。全国の民生委員児童委員の方々へメッセージを書く機会が=一人で抱えないで、皆で歩みを始める

)キリスト教社会福祉の意味〜「一人で生きているのではない」というメッセージを伝える(問4:キリスト教社会福祉とは何か)

 私は、上記Ⅲで、①自らの働きを問い直す、②地域のあるべき姿を描く、③協働した働きを始めるということが必要だと申し上げました。実際に、複数の自治体、地域ではこのような取り組みが始められています。そこで、私自身の行動の基軸となるキリスト教社会福祉の考え方を簡潔にまとめ、目指していることをお伝えしたいと思います。

1.聖書に御言葉に従う

 繰り返しになりますが、未曾有の困難に直面する今だからこそ、私は、聖書に立ち返り、原点に立って行動を起こしていきたいと思っています。

「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ第29章40節)

 1924(大正13)年の関東大震災直後、ルーテル教会は、スタイワルト、滝本幸吉郎、ホールン、本田伝喜の4名を救済委員に任命し、在京のスタイワルトと本田に一任しました。両氏は、臨時の病院等のそれぞれの避難場所を訪れ、支援を始めたが、その時、スタイワルト宣教師が掲げた聖句が、この聖句です。東京老人ホームとベタニアホーム(母子生活支援施設等)の始まりです。自分の人生を通して、そのミッションを守ってこられた方々の思いと実践を、明日への希望とすること。これは困難な時代にある今だからこそ、私は可能であると思います。なぜならば、そこには、命への共感があります。

 この聖句は、たくさんの先駆者、先輩の方々の歩みを支えた御言葉でした。(瀧野川学園等) また、キリスト教社会福祉実践の原点には、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(ルカ10:27)、「わたしの目にあなたは価高く 貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする」(イザヤ43:4)という聖句がたびたび用いられています。

 自分の人生を通して、そのミッションを守ってこられた方々の思いと実践を、明日への希望とすること。これはこの困難な時代にあるからこそ、私は可能であると思います。なぜならば、そこには、命への共感がある。

2.困難に直面するかけがえのない存在を見逃さない

 聖句には、「私の兄弟であるこの最も小さい者」と書かれています。すなわち、この困難な時代を生き、仕事を失い、また今までの絆を断ち切られ、悲嘆しておられる方々の存在を神が守ろうとしておられる。私は、神がすべての人を祝福されて命を与えられたという原点に立つ必要があります。

 しかも、困難に直面している一人ひとりの存在を知らせるべく、その方々のそばに神が立ち、私たちを招いておられると思っています。神が私たちに一人ひとりの存在の大切さを伝えておられます。そして、いと小さくものは、自分自身であることを知る時、そこには共感が生まれるのです。

3.人間理解、人間の存在理解を明らかにする

 人間とは、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記二章七節)とあるように、命の息吹がスピリチュアリティであり、私は、人間の存在の根幹となるものであり、人間の生命の尊厳を表す考え方、生きることの意味を示すものであると考えています。

 コロナ禍の感染拡大により、日常において病や死が身近なものになりました。それゆえに、地域社会において、「死」とは何かを考え、この世に生まれ、死に逝くという人生の物語を紡ぐことの意味を確認し、ひとり一人の存在が唯一無二であることや生きることの意味について語り合う場が求められていると、がんセンターでソーシャルワーカーとして働く卒業生が話してくれました。さらに末期がんの状態で入院している高校生が、学校に行くことができなくても先生や友だちとのつながりを保ち、どんな状態であっても自分の存在が社会の一員として大切にされていることを実感することができるよう、学校と病院で連携を図りながら支援しているという実践について聞き、私は命の尊さ、関わりの深さを学んでいます。そしてその人と人の命の営みに寄り添う神の姿が見えたように思うのです。

4.痛みの共感から始まる地域の再生

 私は、ナウエンから多くのことを学んでいます。すなわち、生の関わりによってつくられる自己、そして苦しむ者・痛む者としての共感をコンパッションと言います。この語源は、パッション(情熱、受難、苦悩)であり、ラテン語の pati の過去形 passus「苦しむ、耐える」です。com は「cum」一緒の古形とされ、神による憐れみとも訳されますが、私は、共感と訳すことができないかと考えています。社会秩序から生を考えるのではなく、その人の痛みから出る社会を考え、人生の喜びを、生きていく希望を共に確認することができる地域。確かにその希望は、まぶしく、光り輝やくものというよりは、互いの尊さと、共に生きていく術を確認していく中で築かれる、自分の存在の拠り所であり、そこから明日を切りひらく力が生み出されるのではないでしょうか。((H.J.M.ノーエン/D.P.マックネイル/D.A.モリソン著、石井健吾訳『コンパッション〜揺り動かす愛』女子パウロ会、2001年4月第3版) そのような地域を描きたい。

 関係性、経済的危機等が深刻化、私たちは厳しい生活状況に直面しています。ならば、共にもっている痛みの共感から始まる地域を描いていきたいと思います。

)今日におけるキリスト教社会福祉実践の課題(問5:「したいこと」「できること」「求められていること」は?)

 岸川洋治氏は、学会誌の巻頭言「今、教会とキリスト教社会福祉が問われていること」において、中道基夫教授の指摘を取りあげ、①教会は宣教の場・社会との繋がりの喪失、②教育、福祉はミッションの喪失、働き人の喪失、③霊性の喪失(なぜ人と共生するのかのモチベーションの喪失)と指摘されておられます。私はその通りだと思います。ただ、キリスト教社会福祉というと、それを実践する主体によって、期待される役割が違い、また可能な実践も異なります。ですので、コロナ禍における基本的視点をお示しします。

1.キリスト教信仰に基づき設立された社会福祉法人・NPO法人・福祉教育を行っている学校法人への期待 

コロナ禍にあって利用者とともに耐え忍んできたことをふりかえる

 私は、まず、Ⅰ)基本的考え方①で書きましたように、それぞれの働きに対して、感謝し、お礼を申し上げたいと思います。まだまだアフターコロナではありませんし、私たちが直面する困難な生活状況は、改善できていないばかりか、今後より深刻化することが予想されています。「そのために、まず自らの働きを問い直すことが必要です。コロナによって、さまざまな活動が止まりました。その結果、大切な FACE to FACE の関わりができにくくなってきました。そのことによって、互いの心の交流ができなくなり、支援してきた方々が生活困難のただ中に置かれてしまった。<省略>ならば、何としても関わりを再生するか、それに代わる行動を生み出していかなければなりません。そのようなウイルスの脅威にさらされているからこそ、改めて自らの働きの意味・目標を確認し、可能な方法を見いだすことが必要ではないでしょうか。」(再掲)

そ して同時に、今は、担い手の方々に、少しでも心と体を休めて頂きたいと願っています。

ミッションに立ち返り、社会福祉のあり方を示す

 キリスト教信仰に基づき設立された組織が、困難に直面する人の生活、生命、存在を支える先駆的・開拓的役割を担っていたことは、歴史が示す通りです。そして、多くの場合、各リーダーの強い個性と情熱、信仰が、使命を担う事業の推進力となり、先駆的に社会的役割を担っていました。

 また、ミッション(当時の外国伝道会)の支援と派遣された宣教師が果たしたリーダーシップが、事業の創設と発展を可能にしていました。しかし、時代に応じて社会環境は変わり、それに応じて組織も変えられていきました。当然、理念についても見直しが必要でしょう。しかし、私は、周年行事等を通して、キリスト教社会福祉実践・教育の創設の理念、組織の存立意義を問い直し、新たに事業や運営体制を見直している法人をいくつも知っています。

「求められていること」はすでに申し上げました。その課題に対する解答は「したいこと」「できること」を確認することです。「どのように支援するか」というだけでなく、「どうして支援するのか」という事業の原点に立ち戻り、今日の社会福祉において求められる人間理解、人間の存在理解を示す役割が、キリスト教社会福祉を担う福祉施設・教育機関に期待されていると思います。

 また、組織の創設時には、燃えるようなエネルギーが生まれ、組織を生み出しました。ふりかえって、当時は、ボランティアリズムが強く影響していたのではないでしょうか。すなわち、必要な支援を生み出した先駆的働き、当事者のニーズに応じた多様な支援・教育内容、当事者が置かれている状況を代弁する姿勢、そして自発的であり、独自性を持った働きは、ボランティアリズムそのものだと思います。今、民間組織にその理念が必要ではないでしょうか。

 さらに、今だからこそ、支援について考えてみることができるのではないでしょうか。「生きる」一人の人間の姿と専門職が見る利用者の姿の狭間がなかなか埋まらないという指摘が、利用者の決定的な不満と結びついていると思います。悲しみや痛みを感じ、喜びや感動する心を抱き、自分らしく生きたいと葛藤し、人間としての誇りを生きる糧とし、安心する心の拠り所を求めさまよう、そうした人生を一歩一歩積み重ねて生き抜いてきた利用者の「生きる」場を提供してきたか、今は、考える良い機会であると思っています。

③協働の取り組みに関わる

「神は苦しむ人間の姿を見て、見逃さず駆け寄り、寄り添い、その痛みを背負って下さる方であることから、強い共感が生まれる。神と同じように人々の苦しむ姿に共感して駆け寄るならば、神を信じる、信じないにかかわらず、意識するとしないとに関わらず、神と結ばれた共に歩む隣人である」(カトリック司教森一弘先生)という考えに私は共鳴しています。だからこそ、協働の意味、協働の方法を確認し、地域社会への働きかけを強化していくことは可能でしょうか。これからは、各自治体において、協働システムの再検討、協働した取り組みが進められていきます。

 生活困窮者自立支援制度、地域共生社会実現の取り組み、重層的支援体制整備事業、生活支援体制整備事業、社会福祉法人の公益事業等の施策が始められています。また、地域福祉計画、地域福祉活動計画等の策定を行っている自治体、個別に地域ケアについて可能な取り組みを始めた地域も増えています。

 サービス提供者、活動の実践者としての参加だけでなく、ニーズの発見プロセスへの参加、地域ケアの計画プロセスへの参加、評価プロセスへの参加等、多様な参加の形態を模索して頂けないでしょうか。

 なお、この考え方は、組織内部における協働においても、不可欠な視点であると考えています。確かに、非営利団体のマネジメントの考え方を導入するのは、組織として不可欠であることは言うまでもありません。しかし、キリスト教社会福祉における新たなマネジメントを検討することが必要だと思っています。また、リーダーシップは、状況対応型リーダーシップ=リーダーとしての絶対的な正解はない。状況において適確であるかが必要。資源の吟味と活用を前提に組織の現状を把握し、外部環境の動向に応じて組織の方向性を変化させていく。

2.日本キリスト教社会福祉学会への期待

 今日、キリスト教社会福祉実践は、きわめて幅広く行われています。たとえば、北九州の認定NPO法人抱僕、北海道の社会福祉法人浦河べてるの家、和歌山県の特定非営利活動法人白浜レスキューネットワーク、社会福祉法人こころの家族、カリタスジャパンの活動等々、実績と社会的影響をもつ活動は健在です。他方、伝統的な社会福祉法人である熊本県の慈愛園、静岡県のやまばと学園、横須賀基督教社会館等は、周年行事としてミッションと今までの実績をまとめ、新たな歩みを始めています。学会は、これらの実践現場とともに、キリスト教社会福祉実践の実証的研究を行い、将来に向けて進むべき道を提示して頂けないでしょうか。

 そしてキリスト教社会福祉を担う施設、組織の地域での取り組みの検討と支援、㋑キリスト教社会福祉の担い手への支援、バックアップ、㋒21世紀キリスト教社会福祉実践会議等を通した関係組織の連携の支援、を検討頂けないでしょうか。

 学会は、私にとって、教育、実践、研究の原点であったし、今もそうであることを実感しています。だからこそ、期待を述べさせて頂きました。

3.教会への期待 多様な教会があることを前提に、

社会福祉の担い手の働きが正当に評価され、担い手が癒やされ、新たな歩みを始める場

 担い手が日々取り組んでいる仕事は、簡単に解決ができず、また時には、担い手自身が押しつぶされそうになることも少なくありません。自分が目指したことが、当事者、家族、担い手から理解してもらえず失意のなかにある時、希望を届ける仕事を行なっている自分自身が希望を見失った時、逆に当事者が歩みを始める感動を味わった時等、それらの時々にあって、心の重荷を下ろす場、痛みを癒す場、日々の苦労の意味を確認し正当な評価を受ける場、自分の使命を確認して再び歩み始める場が必要です。私にとって、私にとって教会は、神が私たちを祝福して命を与えられたこと、神に愛されていること、だから一人で生きているのではないことを確認できる場です。コロナ禍にあって、担い手の負担はますます大きくなっているからこそ、その思いは強くなっています。

聖書の御言葉に立ち、自分の使命を確認できる場

 実は、私自身、明確な正解をもつことなく、今、目の前に見えていることに精一杯取り組もうとしているという現状にあります。

 エルムスハースト・カレッジに建てられたニーバーの記念碑に刻まれた「冷静を求める祈り」を思い出します。「神よ、変えることのできない事柄については受け入れる冷静さを、変えるべき事柄については変える勇気を、そしてそれら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。」(チャールズ・C・ブラウン、高橋義文(訳)『ニーバーとその時代』聖学院大学出版会、p.388、2004 年)と、教会において祈りたいと思います。

)むすびにかえて〜コロナに問われているのは、私自身です。

「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上第3章9節)

 この聖句は、サムエルが、主の呼びかけに対して言った言葉です。繰り返しになりますが、今社会が直面している問題は、私たちが今までに経験したことがない深刻さと広がりをもっています。また、知的障害者施設津久井やまゆり園で起こった当事者の方々の殺傷事件とそれに伴い広がったその行為を賞賛する意見に接し、私は、今までの私たちの働きは何だったのかという絶望感に襲われました。自分自身の弱さと非力さを実感しました。神の御言葉を聞き、実践する覚悟があるのかが問われています。

 阿部先生より、以下の課題が与えられています。「人間は、なぜコミュニティを必要とするのであろうか。孤独に耐えつつも、意志的に自立への道を歩もうとするからではないか。自立する人間にとって、孤独に耐えさせる環境、そして、社会的孤立から守られる場、それがコミュニティなのではないか。自立は、連帯の支えなくしては成就しない。自立と連帯は密接不可分で、この両者の組み合わせとしてコミュニティが形成される。」(阿部志郎『社会福祉の思想と実践』中央法規、2011年)

 私は、この文章から、2つのことを学んでいます。第1は、自分自身の生き方、一人の人格としての自立を目指し、神様に応答する覚悟はあるのかという問いです。ある程度の覚悟がないと、歩みがブレると思います。第2は、自立と連帯というコミュニティを目指して歩みを続ける道程において、学び、気づきの時があり、そこからまた歩み続けることができるという確信です。だから、今、コミュニティの再生を目指して挑戦し続けることができるし、たえず原点に戻り、神様から許される限り、たくさんの方々と、希望ある明日を築いていきたいと思っています。まさに、それは人生の物語をつくる作業でもあり、いつも進行形です。

 今、私たちが置かれている現実を見ますと、★私たちの歩みを照らす神の御言葉、★困難に直面する人々のそばに立ち,私たちを招いておられる神、★今まで、いと小さき者と歩んできた実績をもつ方々の存在、★たくさんの住民、当事者、関係者による地域再編の取り組みという4つの存在を確認できます。

 それぞれの配置がなされているのです。その中で、キリスト教社会福祉はどのような原点に立つのか問われています。私は、だからこそ、以下の聖句に立てば、自ずと道は開けると思います。

「主よ、お話しください。僕は聞いております」

「大切なことは、目に見えている」

 ルーテル学院キリスト教週間の4月20日(水曜日)、礼拝堂で「大切なことは、目に見えている」というテーマのメッセージを行いました。いろいろな意味で、私にとっても、大切な機会でした。 

1.今日の課題

 今、私たちが直面している大きな課題は、それは格差です。経済的格差はもちろん、特にひきこもり、孤立といった関係性の格差が社会に広がっています。内閣府は、2019年3月、満40歳から満64歳の者5,000人を対象にした生活状況調査を実施しました。その結果、自宅に半年以上閉じこもっている人が全国で推計61万3千人いること、そしてひきこもりの期間は7年以上が半数を占め、ひきこもりの高齢化、長期化が鮮明になっていることがわかりました。なお、15~39歳の引きこもり状態にある人を加えると、100万人を超えていることになります。そのような中では、希望ある明日が見えない。

 私は、恩師から、「お金を失うと生活の危機、名誉を失うと心の危機、希望を失うと存在の危機」であり、社会福祉の使命は、存在の危機に対応して、それぞれの方々が尊い一人の存在であり、持っている希望を消さないこと、希望を届けることであると教えられてきました。

2.希望を届ける働きを学ぶ

私は、希望を届ける働きを学び、実際に見てきましたし、実際に取り組んできました。コロナの影響、不安な世界の動向、頻繁に起こる地震等の自然災害に直面している今だからこそ、困難に直面する人々に希望を届ける働きを振り返りたいと思います。

1924年9月1日、関東大震災が起こりました。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟で、190万人が被災し、死者・行方不明者は推定10万5,000人となりました。

その時、日本福音ルーテル教会史には、「10.救護事業の組織化と老人、母子両ホームの設立」として、「わがルーテル教会は、震災の直後直ちに、スタイワルト、滝本幸吉郎、ホールン、本田伝喜の四名を救済委員に任命し、在京のスタイワルトと本田に一任した。麻布のスペイン公使館を借り入れ・・・」と書かれています。スタイワルト先生と本田先生は、臨時の病院等の避難場所を訪れました。留まっているのではなく、避難者の元に駆け寄った。そして、多くの高齢者、母子の方々が生活していく場を提供したのでした。その時スタイワルト先生が掲げた聖句が、「一人のいと小さき者になしたるは我になしたるなり」でした。

3.「大切なことは、目に見えている」

 私たちが困難のただ中にあった時に生まれたこの取り組みから2つの社会福祉法人が生まれました。一つは、西東京市にある東京老人ホームで、全国でも先んじて個室化を実現したホームであり、配食サービス、地域支援等、先駆的な実践を行ってきました。また墨田区錦糸町にあるベタニアホームは、ひとり親家庭の自立や乳幼児保育の充実、子育て支援事業を行っています。

 その源流を流れる『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイによる福音書第25章第40節)という聖句から、私は3つのことを学びます。

①神が最も小さき者を大切にしておられること。

一つ目は、神が最も小さき者を大切にしておられること。聖書には、「私の兄弟であるこの最も小さい者」と書かれています。すなわち、この困難な時代を生き、仕事を失い、また今までの絆を断ち切られ、悲嘆しておられる方々の存在を神が守ろうとしておられる。私は、神がすべての人を祝福されて命を与えられたと確信しています。生まれてきた子どもに、「おめでとう」と言う。

②神が立っておられるところはどこか

 二つ目は困難に直面している一人ひとりの存在を知らせるべく、その方々のそばに神がおられること。神が私たちに一人ひとりの存在の大切さを伝えておられる。だからこそ、私たちには、一人ひとりの存在の大切さが見える。

 皆さんは、コロナ禍において、何が大切か考える機会がたびたびあったのではないでしょうか。今まで一緒に歩んでくれた大切な家族、友人、共に歩いてくれた人々となかなか会えず、とてつもなく大切な人であったことに気がついたのではないでしょうか。一人ひとりの存在の大切さが見えている

③いと小さき者の一人にしたこと、すなわち共に歩むこと

 自分がこれから何に向かっていくのか、何が自分の未来なのか、今をどのよように生きていけば良いのか、私たちは、なかなか答えを見いだせません。私も、今もって確実な正解を見いだせない。今のように混沌とした社会にあって、不安が先立ちます。

 だからこそ、私は、皆さんにそれぞれに答えを見いだそうと歩みを始めてほしいと思っています。その歩みは。0か100かの歩みではありません。その間に1から99の可能性があります。そして、私は、いと小さき者と神が言われた方々に、皆さんと一緒に希望を届けたいのです。

 そのことによって、たくさんのことを学ぶことができます。支援していたつもりが、助けられていた経験を何度もしてきました。たとえば、自分自身が痛みを抱えているからこそ、同じような痛みを持つ人のことを理解することができる。自分が辛いことを経験したからこそ、今辛い思いをしている方々と共に歩んでいくことができるのではないでしょうか。一人ひとりを大切にする行為から、自分も大切な存在であることに気がつく。今を共に生きていくことによって、過去の事実は変わらなくとも、過去の意味が変わっていく。それが支え合っていくことの意味です。このような大切なことは、目に見えています。

 皆さんは、いと小さきもののそばにおられる神を見つけた時、思わず指を指すかも知れません。しかし、指の先にある、いと小さきものとそばにおられる神を見ずに、指の先を見ているのではないですか。本質も見ろと今でも恩師に言われています。本年で39年目になる大学での教員生活をふりかえって、私は、自分の指を見ていたのかもしれないと反省しています。学びのスタートです。

 今日の聖句の意味を、一緒に学んでいきましょう。

「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ第29章40節)

https://youtu.be/ReWHrr3Jya4

録画

希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる

コロナ過の中、心乱れる日が続いていますね。偶然ですが市川先生の研究室の企画を知り投稿させていただきます。私の2回目の大学生活の様子をお話しすることで、改めてルーテル学院大学の素晴らしさを知っていただこうと思います。

子育てというものはクリエイテブだと確信していますが、知的&身体の障害を持つ長女を育てているうちに息苦しさを感じていました。明日も今日の繰り返し?とです。そんな時目に留まったのがルーテル学院大学の公開講座の案内でした。思わず飛びついて週に1~2回ささやかな私だけの時間を持ち始めました。

平均年齢の半分を過ぎ、ふと、立ち止まった時、今までの繰り返しで自分の一生が終わるのかと、今までの繰り返しなら、もう体験したことだから、難なくこなしていけるだろうけれど、私の一生はこれだけでしかないのかとも思いました。

何かするなら今かなぁ?あの子のせいで、これが出来なかった、あれをしたかったのにできなかったというのは言い訳で、長女に対して失礼だと思いました。私にとっても、たった一度の人生です。あの子のせいでといういい訳はしたくないと思いました。色々試みて、結果として今と同じなら、それはそれでいいだろうと。

一方、障害児の母は元気はつらつとしていて、PTAも地域の活動も一所懸命やらねばならないと確信していた私は、20年以上にも及ぶそんな頑張りに疲れていました。強い意志と、丈夫な体を持ち、誰からも後ろ指指されないようにと誓い、決して生活に疲れた顔はしたくないと頑張りましたが、疲れたのです。でも、それは口が裂けても言うまいと、心にしまっていました。

主人の転勤先の神戸で結婚生活が始まりましたが、長女が三歳半で次女が産まれ転勤で東京に戻りました。そして運命とも言える出会いがありました。障害児はどこも断られ途方にくれていたとき、保健婦さんが「保健所の隣に教会幼稚園あるわよ!」下心ミエミエ、キリスト教系なら心優しき人に違いないと、門を叩いたのです!

牧師先生は長女を年少クラスに預かって下さり、私の話をじっと聞かれて「明日またきてください。」あくる日、藁をもすがる思いで出かけると「昨日職員といろいろ相談しました。本当に私どもでお役に立つなら。」といわれ、夏の暑い日でしたが流れる汗が引くくらい感激し、牧師先生に後光がさしたように見えました。キリスト教では後光は射さないのですよね。

こうしてキリスト教と向き合うきっかけが生まれましたが、振り返ってみれば実に多くのキリスト者に助けられていた事を後で知ったのです。

長女はお世話になった教会の幼稚園を卒園後も日曜礼拝に出席していたのですが、20歳になった時洗礼を勧められたのです。送迎だけをしていた私は知的障害の彼女がどのようにキリスト教を受け止めているのか興味が湧きました。

公開講座は通い続けていましたので、だんだん受講したい教科がなくなってきました。気分転換の公開講座通いでしたが、キリスト教学科以外の授業には目が向きません。文化とキリスト教入門の授業のあと、U先生に来年はどんな楽しい講座が開設されるのかとお訪ねしたら「学生になるのは如何ですか?」という答え。願書締め切りまで一週間もなく大慌てでしたが、学力より意欲で3年に編入させていただきました。興味津々のキリスト教を頭の中が嵐のようになりながらも必死で理解に努めました。

学芸員も目指していたので、お隣の中近東文化センターで行われる授業は気分が全く変わり、資格取得への意欲が湧きました。学芸員実習では、貴重な所蔵品に触れる機会が持て緊張もしましたが感激しました。大学の授業は殆ど10人以下のクラスで、先生がたも学生の顔を見ただけで名前がお解かりの和やかできめ細かい内容で本当に贅沢な授業だと思いました。

長い間その周りを廻っていたキリスト教について、自分なりの整理をしたいので次から次へと興味が湧きますし留まるところをしりませんでした。納得行くまで質問をし、疑問を解決していきました。私は履修していた全ての授業で質問し、疑問をぶつけていましたがキリスト教学科の先生は一つ一つ丁寧に、対応してくださりました。

思う存分自分の時間を使いたいという欲求は益々高まりました。2年間の大学生生活は本当に楽しく充実していて日々感謝でした。そして、一番感じたことはこのキャンパスに集う人たちの、優しさです。人それぞれでは有りますが、多分それはキリスト教というアイデンティティがあるからです。キャンパスで見かける先生がたの姿が、お人柄がほっとする物を感じさせ、あこがれを持たせてくれるのだと思います。疲れ果てていた私には、先生方や友人たちの優しさは救いでした。ああ、ここはのんびりできる、こんな素敵な場所があったんだと。まさに、オアシスでした。そして、初めて口に出す事ができました。「私は疲れた」と。

毎日聖書を開かない日はないという学生生活が終わった後、暫くはボーっとしていましたが、もう周りを廻るのは止めようと思いました。今までの自分を振り返り、全て神の摂理の中で動かされていたのだと納得したからです。

将来に悩みがないといえばウソになりますが2度目の大学生生活が送れるなんて予想だにできなかったことが実現しました。願って行動すれば門は開かれるようです。

次の聖句は私の入学式の翌日、鈴木学科長のチャペルメッセージで読まれました。まるで私のこと見たいと、妙に納得した言葉です。「そこで、わたしはいっておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

ルーテル学院大学で2年間の学生生活で私が得たものはとても素晴らしい物だったのです。後援会の皆さまのルーテル学院大学・神学校に寄せる熱き思いが私に伝わったことをご報告させていただき、話を終わります。

                      2021年5月20日  IKE (現在、後援会推進委員)

希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

 2021年3月11日にルーテル学院2020年度卒業式が行われました。学長の石居基夫先生はイザヤ書46章4節の言葉を取り上げ、卒業生たちにメッセージを送りました。

 東日本大震災からちょうど10年。未曽有の災害により何もかも失ってしまった人たち。自然の驚異を目の当たりにしたとき何もできない人間の小ささに傷を負った人たち。しかしそれでも互いに支えあい、励ましあって生きて来た人たち。神様はその人達に語るのです。「わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

 震災後、私も学生たちと共に何度も東北に出かけ、震災のあり様を目の当たりにしました。その光景はショッキングなものでしたが、でもその中で今もはっきりと覚えているのは、そこで生きていこうとする人たちの顔であり、言葉です。「立て直す家は近所の子どもを預かれるような場所にしたい。」「これからは全国を回って、このような災害に対する日々の備えの大切さを伝えていく。」途方もない困難にあっても、なお明日に向かって生きて行こうとする人たちがそこにいました。自然を前にして確かに人は弱いが、それでもどのような困難にあっても人は明日を生きていこうとする強さをも持つことを知りました。だから私もそのような人たちに「白髪になるまであなたを担い、背負い、救い出す」という神様の言葉を送りたいのです。

 コロナ禍にあって、仕事の面でも生活の面でもまだまだ多くの困難が続く社会に送り出された今年の卒業生です。でも、神様はけっして私たちから離れられません。むしろ困難な時にこそ、なおさら私たちのそばに来て、明日に向かって生きる力を与えてくださいます。チャプレンとして、これからも卒業生を思い起こしては神様の豊かな祝福を祈っていきます。 

希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

 東日本大震災ルーテル教会救援「となりびと」の支援活動時に、大変お世話になりました市川一宏先生のご依頼を受け、現在、医療・福祉現場で新型コロナウイルスの対応に苦労されている方々に、震災10年を覚えて、ショートメッセージをお送りします。

 今年3月11日、東日本大震災から10年を迎えました。その10年を前にして先月には、大きな余震がその被災地を襲いました。幸いにも「となりびと」で支援した方々には物理的な被害はありませんでしたが、その精神的な痛手は私たちの想像を超えるものでした。

 宮城県では、この震災で亡くなられた方々に追悼の意を表し、震災の記憶を風化させることなく後世に伝えるとともに、震災からの復興を誓う日として毎年3月11日を「みやぎ鎮魂の日」とし、亡くなられた方々を追悼するため、震災の発生時刻である午後2時46分に黙祷を捧げられれるよう呼びかけられます。特に今年は特設サイト『東日本大震災10年オンライン行事 あの日を学びに10年目に伝えあう』が開設されています。

 先日、その10年を前にして、「となりびと」で支援をしていたわかめ養殖をされていた方から、三陸の春の便りである「めかぶ」が今年も届きました。この方は震災時に義理のお姉さんと甥を津波で亡くされ、わかめ養殖のための漁具もすべて流されてしまいました。そんな時に「となりびと」の支援が始まりました。その後、わかめ養殖は再開されましたが、その働き手であった旦那さんが、震災後の心労などにより突然、旅立たれたのです。しかし、その後、毎年送られてくる「めかぶ」などの宅急便には、その旦那さんの名前とその方の名前が並んで印刷されています。それは、彼女にとって、今も旦那さんがいつも一緒にいてもこの震災後の10年も共に歩んできた証なのです。

 被災地の方々は、この10年、彼女と同じような思いで過ごしてきたことだと思います。そして、私たちもこの10年、被災地のことを覚えてきました。その証が、「ルーテルとなりびと」http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/のブログのアクセス数です。その数は、2021年3月10日現在で375,011ページビューとなっています。

 教会の暦では、今、私たちひとり一人の罪を贖われるために十字架へ向かわれるイエスさまを覚える四旬節に入っていますが、その第2主日(2月28日)の日課(創世記)には次のように記されていました。

「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」

 私は、その「虹」が、津波によって84名が一度に召された石巻市立大川小学校旧校舎にかかった姿に一度だけ「となりびと」の活動中に出会い、この聖句を思い浮かべました。そして、この神さまの契約が守られるよう祈ったのです。

 今、私たちは新型コロナウイルスによって、東日本大震災のように未曽有の大災害に見舞われています。特に、医療現場や福祉現場などで働かれているエッセンシャルワーカーと呼ばれる方々の苦労は図りしれないものがあると思います。

 しかし、イエスさまはマタイによる福音書の最後で、その苦労されている方、お一人お一人に次のように言ってくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

 私たちはこれからもこのみ言葉を信じ、被災された方々と新型コロナウイルスで苦しんでいる方々のことを覚え、一日も早い、新型コロナウイルスの感染終息を祈りたいと思います。

  みのり・岡崎教会牧師 野口勝彦(元東日本大震災ルーテル教会救援派遣牧師)

希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

 5年前、熊本地震にあたって教会で私的避難所を運営することになりました。この時、最大40人以上もおられた避難者さんたちの全員が短期間で生活自立を果たし、避難所は45日間で完全解消をなしとげることが出来ました。多くの公的避難所が、避難者さんを別の避難所に移動させ、統合によって避難所を閉鎖していったのに対して、この教会避難所では、避難者さんの全員が、自分の元の住まいを整備するか新しい住まいを確保することによって避難所を「卒業」していかれたのです。避難者さんたちの中には、妊婦さんや高齢者、母子家庭、障がいを持つ方々や外国籍の方など、社会的に困難さを抱えておられる方が多かったことを思えば、びっくりするような短期間での完全解消でした。その秘密は、教会避難所みんなが囲んだ食卓にありました。この避難所では、地域の被災者さんも教会員の被災者や支援者さんも、またボランティアの人たちも、毎食ともに教会のテーブルを囲んで、食卓をともにし続けたのです。食卓をともにすることによって、お互いに不安や心配事をわかちあい、慰めや励ましを受け、相談を受けたり相談に乗ってあげたりしながら、みんなそこで力を得て生活を再建していかれたのでした。その様子を間近に経験させていただきながら、これこそイエスさまの食卓につらなるわかちあいの食卓であるとの思いを強くしました。

 聖書の中に、イエスさまと敵対するユダヤ教の指導者たちが、「あなたの弟子たちは手を洗わずに食事をしている」といってイエスさまを非難する場面が出てきます。当時のユダヤ教は、律法を守らない外国人をケガレた存在だと見なしていました。そのため、宗教的な清めの手続きとして手を洗うことを行わなければケガレが食卓に持ち込まれてしまう、と考えたのです。このように、立場の異なる人たちを自分たちの食卓から排除するために律法を用いていくユダヤ教の習慣を、イエスさまは大胆に批判なさいました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何も」ない(マルコ7:15)。むしろ多様な人たちと食事をともにすることによってこそ、わたしたちは理解しあい、支えあう共同体を育んでいくことができるのだ。イエスさまはそのことを、ご自身のまわりに集われる多様な人たちとのわかちあいの食卓によって、身をもって示され続けたのでした。今日のキリスト教会もまた、このイエスさまの食卓の伝統につらなっていることを思います。

 ところが昨年来、わたしたちは新型感染症に苦しめられ、食卓を通して励ましあったり、力づけあうことを著しく制限されるようになりました。ともに食卓を囲む場面での会話は、最も避けるべきことだとされてしまいました。礼拝においても、被災地を初めとするさまざまな支援の活動においても、共に食べることを活動の基礎においてきた教会にとっては、本当にもどかしい日々。これまでイエスさまの食卓をわかちあうことによって力をいただいてきたわたしたちは、どのようにこれを越えていけるのか、新しいチャレンジの前に立たされています。思考停止に陥ってフリーズしてしまうのではなく、ウイルスなど怖くないと蛮勇に走るのでもなく、なによりイエスさまが、こうした壁の前に立ってそれを乗り越えて前にすすまれたことを思い起こしたいと思います。

 3月上旬。北国では、地面を覆っていた分厚い雪がとけ、少しずつ庭の黒土が顔を見せはじめました。そこでは雪がとけはじめたばかりというのに、すでに小さな緑の草花が芽吹いています。草花も雪の下で時を待っていたのです。あの東北大震災から10年。街も人も、復興は一気にではなく少しずつしかすすみません。新型感染症の影響下、出来ることは限られるかもしれません。それでもわたしたちは、少しずつ前にすすむことが出来る。出来ないからあゆみを止めるのではなく、出来ることから、そして出来る時を待ちつつ力を蓄えながら、多様な者がその場を通して力づけあう共同体を育んでいく。それぞれの場でともにつながりあいながら、そんなイエスさまのわかちあいの食卓を再び興していきたいと願います。

          小泉基 (コイズミモトイ 日本福音ルーテル函館教会牧師)

 ちなみに、4月中旬、『わかちあいの食卓 熊本地震・教会避難所45日』が、かんよう出版から発行予定だそうです。

希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

 東日本大震災から10年目をむかえます。私たちの周りでは、この10年で次から次と災害が起こりました。その度に支援活動がおこなわれ、ボランティアが活動し「寄り添い」を実践してきました。今日も熊本球磨村では支援活動が継続されています。コロナ禍の状況のため、いまも泥出し作業が行われています。臨床宗教師のお坊さん仲間が重機の免許を取り、動かし土木作業をしながらそこに生きる人々の命に寄り添っておられます。コロナ禍で働く皆さんと同じように。

 3月8日~12日、宮城県石巻・南三陸に行ってきます。10年目の今年、再び現場の苦しみに伊藤文雄牧師と共に身を置いてきます。9日は南三陸の海辺から防災センターへ宗教宗派を超えて追悼行脚をします。それぞれの宗教が自分たちの祈りを唱えながら歩きます。あの時、何もできず泣きながら歩いたことを思い出します。本当につらかった。死臭漂う中に立たされ、祈るしかなかった。宗教宗派など関係なく、ただひたすら雪の降る中、夢中で祈りながら歩きました。宗教者として痛み苦しみのど真ん中に身を置かされた出来事でした。「現場から逃げずに踏みとどまれ。苦しむ人々と共にいろ」。それしかできなかった。しかし「神仏はまさにそこにおられる」出来事でした。その痛み苦しみの現場とのつながりが10年経ったいまもあります。

 先週、宮城石巻十三浜から生わかめ、メカブが送られてきました。生ワカメは今の季節のみです。早く食べないと悪くなる。それでも取れたてを送ってくださいました。もう8年目です。「復興したら一番にとれたワカメ送るっちゃね」との約束通り。今年もまた届きました。このワカメをいま私の周りにいる皆さんに食べていただけることが幸いです。このつながりの原点を、ワカメを食べるたびに思い返します。それが「寄り添い」です。

 あのとき現場の苦しみから逃げず、そこに必死に踏みとどまった。いやそれしかできなかった。祈りつつ現場の苦しみに身を置いて。十字架の主がそこにおられるから。現場の命に寄り添っておられる方にエールを送ります。あなたの横には必ず神様がいてくださる。祈ってます。

              日本福音ルーテル広島教会 牧師 立野泰博

希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

新型コロナウイルスはすべての人の生活に影響を与えています。こ れまでできていたことや、やりたいたいことができなくなる、いま までの生活様式を変える、いままでの仕事の仕方を変える、人との 距離をとる、人との関わり方を変える、人と関わらない・・・とさ まざまな「変える」「変わる」を今まさに経験しています。新型コ ロナウイルスに「感染しないため」に。
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先日、以下のような話をとある大学の先生から伺いました。
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「私のすんでいる地域はいわゆる“田舎”です。先日、母子家庭のお 母さんが新型ウイルスに感染しました。お母さんと高校生の娘の世 帯です。それまでその地域では新型コロナ感染者は出ていなかった のですが、このお母さんが感染したことによって起こったこ と・・・それは「うわさ」による地域からの差別・排除でした。 “田舎”に暮らしたことがあればわかると思いますが、住民の間では 『どこどこの誰々さんはどんな仕事をしていて、子どもはどこの学 校に行っていて・・・』とプライバシーが住民の間ですぐに共有さ れてしまいます。うわさも含めて。結局、その母子はその地域で暮らしていくことができなくなり、 引っ越しを余儀なくされました。」
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この話を聞いたとき、とても大きな衝撃・悲しさとともに、地域に 暮らす人びとの「恐さ」に、私たち福祉に携わる人間は目をそらし てはいけないと思いました。そもそも感染してしまったことは罪なのでしょうか。私たち(ソーシャルワーク専門職養成教育界隈)はこれまで、「地 域」や「地域住民」像をキラキラしたきれいで理想的な一面だけを 切り取って伝え過ぎていやしないか・・・(自戒の念です)
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いま、「地域共生社会」という政府の政策理念のもとで社会福祉士 等の国家資格養成教育の内容も見直されることとなりましたが、 ソーシャルワーク専門職の養成に携わる人間は、国の政策理念がど うであれ、すべての人が持っている「個」を大切にし、多様性を認 め、「社会的つながりが弱い人」「つながることができない人」 「つながりたくない人」「つなぎたい人」などいろんな考え方の人 たちがいることを認めた上で「共生」を考えなければならないと思 います。そして、社会で弱い立場にある人が差別(うわさ)され、 抑圧(いやがらせ)され、排除(引越し)される状況を良しとせ ず、変えようとするソーシャルワーカーを育てなければならないと 思っています。このスタンスは「変えてはならない」「変わっては ならない」ものでしょう。
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新型コロナウイルスを正しく恐れる事はとても大事なことですが、 もっと恐れるべき「こと」が起こっています。それはソーシャル ワーク専門職養成にとって極めて重要なイシューであること、そし て私たち福祉に関わる人間はこのイシューにもっと敏感にならなく てはなりません。そのために私もがんばろうと思います。

小森 敦/日本ソーシャルワーク教育学校連盟事務局(日本ルーテル教団北見教会と繋がりのある方です:市川より)