「私にとって大切なもの」
2022年10月2日(日曜日)、日本福音ルーテル教会に聖日礼拝で、メッセージをさせて頂きました。市ヶ谷教会は、恩人である故石原寛先生を送り出し、また長く神学校、大学・大学院をお支え下さった教会です。今回が大学の教員として最後の講壇奉仕であり、改めて心より感謝いたします。
1.メッセージをさせて頂くことの感謝=ルーテル学院大学39年間の感謝
今日、市ヶ谷教会におきまして、礼拝のメッセージを述べさせて頂きますこと、心より感謝いたします。私は本年度で定年を迎えますが、私が学長であった14年間も含め39年間、私とともに、日本ルーテル神学校、ルーテル学院大学・大学院をお支え下さいました。今日は、感謝をもって、「私にとって大切なもの」というテーマで、お話しさせて頂きます
2.コロナ禍における問題
コロナ禍にあって、2つの危機が顕在化しました。ひとつは、関係性の危機です。その代表的な状態がひきこもりです。内閣府は2019年3月29日、自宅に半年以上閉じこもっている「ひきこもり」の40~64歳が、全国で推計61万3千人いるとの調査結果を発表しました。7割以上が男性で、ひきこもりの期間は7年以上が半数を占めています。内閣府では15~39歳も合わせた引きこもりの総数は100万人を超えるとみています。さらに2020年3月より続くコロナ感染症の拡大によって、特に高齢者・障がい者の孤立化が顕著となり、感染を恐れて外出や関わりを控えた結果、ひきこり状態にある虚弱な高齢者、認知症の高齢者が増加したのではないかと危惧されています。
もう一つは経済的危機です。生活保護受給者の数は、2021年1月現在被保護実人員は2,049,630人、被保護世帯は1,638,184世帯に達し、コロナにより仕事を失った方々も増え、生活保護の申請が増加しています。また、非正規雇用、失業のなかで生活に困窮する現役世代が増え、結果として子どもに及ぶ貧困の悪循環をどのように断ち切るかが課題になっています。
今は、私たちが経験したことのない深刻な生活問題が顕在化していると同時に、今まで何とか生活を維持してきた脆弱な生活基盤のもとに暮らしていた人がコロナの影響で基盤を失っています。そして、多くの危機は、顕在化している以上に、社会の中で深く潜行し、進行しているのです。
3.老いても希望を失わず、生きていく姿は、神様の愛そのもの。だから、生きていく姿を多くの人に伝えたい。
私は、特に、混迷する社会において彷徨い、自分の居場所がなく、追い詰められている若者が増えている現状を心配しています。今の生活に絶望することなく、明日を一緒に歩んでいくために、若者に、大切なもの、すなわち希望をもって生きていくことができるよう、すなわち神様の愛を伝えたいと思っています。
確かに予想していないことに直面し、戸惑い、立ち止まってしまう時があります。私の14年の学長としての時期をふりかえり、いくつもの困難があったことを思い出します。学長としての最初の困難は、前任者の恩師である清重先生の後継になりえるのか。自信も確信もありませんでした。それも教会が建てた大学の運営を、牧師でない一信徒である自分が担えるのか、戸惑いと孤独感が重く私の肩にのしかかりました。周りの方も随分心配なさったと思います。その葛藤の中で、私が覚悟したことは、講壇奉仕だけでなく、講演や仕事で近くまで行った時に、日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団の教会を訪問することでした。今数えてみると、訪問していない教会は、全国の119教会中、10以下になっていました。私は教会を訪問し、牧師や信徒の方々にお会いし、それぞれの思いを知ることができましたし、自己紹介もできました。教会訪問によって、学長として立ち位置を学ぶことができたことは、私にとって貴重な経験でした。なお、2002年4月に学長になって以降、当時の理事長で、市ヶ谷教会の教会員であった故石原寛先生は、いつも私の思いを受け止め、いつも応援して下さいました。私の恩人です。
しかし、本当に辛い時もありました。その一つは、病気、交通事故、自死で学生が亡くなるという現実に直面した時です。ご家族の嘆き、学生や教職員の動揺、関係者の不安等々、大学は急に混乱ただ中に置かれました。今までの笑顔が一瞬で消え、悲しみが大学全体を覆います。当然、学長としての判断が問われました。まさに浅野順一牧師が書かれたヨブ記の世界。浅野順一氏は、ヨブ記について書かれた書物 (『ヨブ記』岩波新書1968年、p.23~27)で、 こう言われました。「生活や心の中に穴が開いており、そこから冷たい隙間風が吹き込んで来る。そして、その穴から何が見えるか。穴の開いていない時には見えないものがその穴を通して見える。貧しきこと、悲しむこと、義のために迫害されることはそのままでは幸福に結びつかない。それは穴を埋めるだけでなく、 むしろ穴を通して何かを見る、そのことによって不幸が幸福に変えられるのであって、ここに宗教のもつ逆説が成立する」と。
私は、事態の連鎖が怖く、事実を曖昧にしたいと思うこともありました。言葉にならない悲しみを経験し、葛藤のただ中にあった私たちは、神様から祝福された与えられた命をきちんと受け止めることが、第一にすべきことだと確信し、悲しい事実に真向かおうと決意しました。神学関係の授業を教え、牧師である教員の存在はとても大きかったことを思い出します。その決意以降、私たちの視界が広がり、覆っていた霧が晴れていきました。貴重な青春時代に大学で学んでいる学生、一緒に歩んで下さる教職員、支えてくださっている教会員やたくさんの方々の存在を再確認できました。そして、苦しみのただ中にある私たちに差し出された神様の救いのみ手が見えたと思いました。そもそもルーテル学院には、中心的場所として礼拝堂がある。ならば、学内に祈りの場を設け、皆でその学生を追悼する礼拝を行い、神様に勇気づけられて、皆で事実を受け止めることを目指しました。皆で亡くなった学生への感謝と哀悼の意を表し、互いの思いを大切に、一歩づつ、明日に向かって歩みだすことができたのでした。
4.「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」
聖句に戻ります。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べもにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです。」(コリント人への手紙第2)
パウロは、キリスト教に改宗し、伝道者となります。それは今までの名誉と地位、生活を捨て、迫害される立場になることを意味します。パウロは20数年、各地をまわり、追われ、最後には捕まり、処刑されます。コリント人への第二の手紙は、パウロがコリント人への第一の手紙を書いたすぐ後,彼の教えに反する暴動がエペソで起こり(使徒19:23-41参照),パウロはマケドニヤへと逃れ、その地で書かれたものだとされています。
そのような状態にあって、パウロは「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的で過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」と語るのです。
5.老いを生きる
私には、老いの生活が待っています。加齢によって、これからもますます身体の機能は低下します。愛する家族や親しかった友人を失う悲しみは増えるばかり。しかも仕事は定年を迎え、自分にふさわしい新たな役割を探さなければならない。なのに、明日への希望を持つことができるだろうか不安です。頭を抱えて、明日への歩みを止めてしまっています。しかし、感動する心と希望をもって、明日に向かって今を生きておられる先輩の方々の生き方に、私は感動を覚えます。そして、その生きる姿は、神様の愛そのものだと思っています。コロナ禍にある生活は困難が伴います。生きていくことは大変です。だからこそ、「老いの坂をのぼりゆき、かしらの雪つもるとも、かわらぬわが愛におり、やすけくあれ、わが民よ」(日本基督教団讃美歌第一編284番)と讃美歌にあるように、山の頂に向かって歩み続ける方々の生きる姿に私は勇気づけられます。繰り返しになりますが、「生きること」が神様の愛であると思うのです。
確かに、楽しかった時に戻ることはできません。また、誰にも将来を見通すことはできません。過去の後悔に押しつぶされそうになります。しかし、神様の愛のまなざしを心にとめ、日々祈りつつ今を生きることによって、過去の事実は変わらなくとも、過去の意味が変わっていく感動を、神様はたえず私たちに与えてくださっているのではないでしょうか。
6.これからの自分自身が目指す生き方
私には、まだまだ仕事があります。今は、まだ現役として働いています。年齢を重ね、それができなくなっても、大切な仕事があります。それは最後の時、支えてくれた家族や人びとに感謝するという仕事が残されます。それは人生最後でもっともすばらしい証し。感謝する自分の命が光る。家族や友人、専門職等の見看る人びとの思いがその人の命を通して光る。その人を支えてきた神様の愛が、その人の人生を通して光り続ける。神様の愛は、とどまることなく最後まで私たちに注がれています。私は、人生に停年はないと言いたい。
私は、こんなにケアを必要とする状態になっても生きているのはエゴだという意見を聞くことがあります。「生きる」メッセージを見逃しているのではないかと思います。このような人生に生きている方々の姿を、私は多くの若者に伝えたいのです。人生の最後まで生きる姿は、世代を超えた共通言語です。解説する必要はありません。
これまでのお話しでおわかりになって頂けたら幸いです。「私にとって大切なもの」とは、生きることであり、それ自体が神様の愛です。神様が、日々の生活を通して、一人ひとりの命を祝福して下さっている。だから生きること自体が神様の愛なのです。老いを自分自身のことと考え、コロナ禍にあって、様々な困難に直面することによって、私は、少しづつ、見えなかった神様の愛に気がつくようになってきました。聖書には、「見えないものは永遠に存在するからです」と書かれていますが、見えないものとは、神様の愛ではないでしょうか。
ちなみに、私たちの卒業生は、この神様の愛に応えるべく、日々働いているのです。