希望ある明日に向かって歩むぞメッセージ

1.近況と今の思い  私は、労災職業病センターというNPO法人の職員として働いています。主に労災補償の申請手続きの相談、支援、認定までのサポート、またグレーゾーンなど認定基準に厳しい方達の救済や事業主の責任などに対する支援と運動なども含まれています。私はその幅広い職業病の中のアスベスト(石綿)の患者さんたちに対するサポートを主に対応しており、呼吸器疾患の患者さんたちを相手に、家族、遺族などに対してもサポートしていたので、「肺炎」というのは常に身近にある病気でした。私たちが大丈夫であっても患者さんたちが免疫力ないとちょっとした菌で肺炎を起こしてしまうのです。これが命取り、風邪が命取りになってしまうこともしばしばでしたから、(労災の患者さんたちは死亡原因や経過によっては遺族補償に繋げられないこともある)今まで以上に気を付けて対応しているという感じです。今回の騒ぎで共通しているなと感じているのは、新型コロナも病名確定までに時間がかかるということ。これが中皮腫の確定診断と似ています。そして治療法が確立していないことなど・・・・急に亡くなってしまうケースもあります。そのような中、本人やご家族、そして亡くなった後のご遺族のケアは今も変わっていません。このような事態になりましたが、私の仕事は変わらず(協力医療機関に週二日勤務しているのもあり)、抗癌剤治療して私のところに面談される患者さんが今でもいらっしゃいます。患者さんやご家族、ご遺族にとっても変わらずに面談で対応できることが救いになっているかなと感じています。

2.岩◎さんに対して思うこと 彼女が、NYのマウントサイナイ医科大学(シナイ山医科大学といった方がいいのでしょうけれど)の最前線にて働いていることにびっくりしました。私がルーテルを卒業後フィリピンに留学していたのですが、彼女が会いに来てくれました。そこで、彼女が海外で看護師になりたいという希望があることを話してくれました。20年以上前のことになります。NYで看護師をしていたことは最近になって後輩を通じて知り、夢を叶えたんだなと思っていましたが、まさかマウントサイナイ医科大学にいたとは!不思議なつながりを感じました。ここの病院はアメリカでもアスベスト被害のパイオニア的存在の病院で、私が今の仕事場ともつながりが深い病院だったからです。30年以上も前に、自分の仕事場がアスベスト被害の取り組みを始めた頃、日本では労災としてもまだまだ認定しづらい時代がありました。職場の理事長、所長(共に医師)がアメリカの学会に行き、マウントサイナイ医科大学のセリコフ教授(故人ですがとても有名な医師です)に会えた・・・ということから自分の職場でのアスベスト被災者の救済へというのが始まっていました。唯一、そこで日本人の病理医として働いていたS先生に初めてお会いしたのも日本の地方の裁判所での証人尋問の傍聴からでした。アスベストでの労災認定がむづかしい事案は、ご本人とご家族に説得をし、亡くなられたときに解剖をしてもらい、その標本をアメリカにいるS先生宛に航空便で送り・・・・病理報告書を送っていただき・・・・という時代でした。そうでなければ労災認定が取れなかったのです。
2002年、あのアメリカ同時多発テロの翌年になりますが、機会があり、マウントサイナイ医科大学を訪問する機会にあずかりました。同時多発テロ以降、救済をした労働者やボランティアの人たちの呼吸器疾患が問題とされ(アスベストばく露もあります)当時のNY市から予算を勝ち取り、現地の労災職業病センター(安全衛生センター)と協働して無料の健診施設及び名簿登録をする特別な診療所ができていました。特にアスベストを多量に吸い込んでいるボランティアの人たちは3〜40年後に発症する可能性があるので、その人たちの健康管理が将来に渡ってフォローできるようにしないと大変なことになるからです。しかし、ここで私は他の面を見ました。この当時から移住労働者が多く、フィリピンからの看護師もかなり多い時代でした。日本人はその時には病理のS先生だけで、その時の話で後継者を作っていないという話があり、そこで「人種の壁」を感じました。マウントサイナイ医科大学はイーストハーレムも目の前で、通りが違うと雰囲気がガラッと変わっていたのも見ました。公園には多数のフィリピン人がアメリカ人の子供たちをケアしていてというのも見ました。その時に滞在していたのもアメリカ聖公会へ異動したフィリピン人司祭のお宅で、看護師である奥様や間借りしていたフィリピン人家政婦さんに仕事の実態を聞き取りしたことが懐かしく思えます。この頃からかなり中南米系の労働者も多く働きに来ていて、労災・職業病も外国人労働者の健康を守るにはと議論をしていました。あれから、数十年、今やマウントサイナイには日本人医師なども増えてきていて働いていることも知り、時代は変わったなと感じましたが、底辺の人たちに対する救済がまだまだなのだなと思いました。それは日本でも同じです。こちらでも協力医療機関の一つが外国人医療を担っていますが、あの頃と、現在では外国人労働者も定住化が進み、新たな課題が出てきているように思います。私の仕事としては、この様々な困難に向かっている人たちに手を差し伸べてこえていけるような仕事なので、とにかく目の前にあることに対応する、むづかしければ世間にも訴えていく、日頃の積み重ねや、協力してくださる人たちと共にぶつかっていく・・・これしかありませんが、そこには希望があります。とにかく信じ続けることが大事ですね。
彼女の話を聞いた時に、なんて世の中狭いんだろうと思いましたが、そこはやっぱりルーテルなのかな、とも思いました。彼女ならきっとやり遂げられるでしょう!とも思っています。

 落ち着いたら、私がNYに行くか、彼女が帰国するかのチャンスで会いたいですね。いろんな人のつながりで今の私たちが生かされているので・・・語り合いたいなと思っています。

最後に、市川先生、このような機会を作ってくださり感謝します。

                池田理恵 1989年卒