2011年度前期卒業式 未来への聖火リレー

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただの一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。フィリピの信徒への手紙3:12〜14

1.今日の聖書から学ぶこと

今日は、「何とかして捕らえようと努めているのです。キリスト・イエスによって捕らえられているからです」という箇所について考えたいと思います。このパウロの前向きな生き方に、私は圧倒されます。私が20歳の時、洗礼を授けてくださった大村勇牧師は、連続14週の礼拝説教でピリピ書簡講解を行い、自分が喜ばないで、神を語ることはできないと言われ続けました。まさに喜びとは、私の存在の中に神がおられるという確信から喜びが生まれる。存在の根底から湧き出てくる喜びから、歩みが始まると言われます。これが、「何とかして捕らえようと努めているのです。キリスト・イエスによって捕らえられているからです」という聖句の意味です。(『大村勇説教集 輝く明けの明星』日本基督教団阿佐ヶ谷教会1991年3月)先生の礼拝説教の多くは、神の愛を覚え、感謝して、隣人に神の愛を伝えなさい、という招きであったことを思い出します。

また、ルーテル学院大学の名誉教授で、前神学校長の徳善義和先生は、「パウロは絶えず新しく、このキリストにとらえ直されている。このキリストを絶えず新しくとらえ続けている。恵みとして感謝して受け止め続けている。このキリストから、絶えず新しく、新しいいのちをいただいて、日々を生きている。キリストを知り、それゆえに<キリストを得><キリストのうちにいる>今を生きている姿である。」とパウロの姿勢を語っておられます。(「フィリピの信徒への手紙3章3節2—11節」『説教黙想 アレテイア』2011年71号p.13)今をキリストにあって生きるパウロの姿が、手紙全体を通して、浮かび上がってきます。

2.パウロとは、

この手紙の主人公パウロとはどのような人でしょうか。

パウロは、キリストを信じる人々に対して、軍隊を使い、厳しい迫害を行っていた人でした。しかし、パウロは、突然、キリストに出会い、以前の富のむなしさを知り、キリスト教に改宗し、伝道者として使命を担おうとします。しかし、それはパウロに約束されていた名誉と地位、豊かな生活を捨て去ることを意味するだけでなく、迫害していたキリスト教徒にも信じてもらえず、また以前自分が行っていた迫害を、今度は自らが受ける身になることを意味します。神を伝える伝道の20数年、各地をまわり、そして迫害を受け、追われ、最後には逮捕、拘留、処刑される。このような想像を絶する働きをした伝道者パウロが、「何とかして捕らえようと努めているのです。キリスト・イエスによって捕らえられているからです」と語る迫力に、その謙虚さと力強さに、私はただ圧倒されるだけです。

3.パウロの時代

パウロが伝道した時代は、弾圧と分裂の時代と言われています。ローマ皇帝ネロが君臨し、また大飢饉や災害が起こり、ユダヤ各地で救い主を自称する者たちが現れ、社会は混乱をきわめていました。迫害は日本においてもなされ、その悲劇を私たちは知っています。キリストがつけられた十字架の処刑が各地で行われていました。キリスト教徒は、各地に離散していきます。しかし、同時に、そのような激動の時代は、歴史の転換点でもあったのです。

4.ふりかえって、今の日本は。

日本も今は、歴史の転換点に立ちました。自然も、今までとは違う、私たちが経験したことのない姿を見せます。地震、津波、台風、集中豪雨に、私たちは耐え抜いていかなければなりません。また世界経済を見てみると、アメリカ、ヨーロッパという経済先進国での問題は深刻であり、被災し、人口が減少して経済力が明らかに低下している日本において、円高の進行という逆の現象が起こっています。宗教や文化の対立は、世界各地で紛争や戦争を引き起こしています。また身近では、孤立の広がりを防ぐことができない。自殺は12年間3万人を超える異常事態。愛の反対は無関心であり、信仰の反対が思い煩いであるならば、日本社会は、無関心と思い患いに支配されている。まさに明日が見えない、海図を描けない時代となったと言えるでしょう。

5.私たちは、今、何をなすべきか?

私たちは、今、何をなすべきでしょうか。しかし、私は、パウロの代わりはできない。その力がない。あきらめて、投げやりになり、また誰かのせいにして、無関心になること以外に、私に残された道はないのでしょうか。そう思う時、私は、日本において、貧しい人々とともに生きてくださった、カトリックのゼノ神父の、「一本のろうそく」の話を思い出します。

今から約60年前、戦後の混乱のただ中にあった日本で、大型台風が東京を襲い、多くの家が水につかりました。その時、ゼノ神父は、浅草の闇市でローソクとマッチを買い占め、一隻のボートを借り、真っ暗やみの中、二階に避難して孤立していた人々を一軒一軒ボートで訪ね、励ましの言葉にそえて一本の蝋燭を配ったと聞きます。

社会福祉の第一人者である阿部志郎先生は、こう言われます。その晩に手にしたローソクは、被災した人々の大きな慰めとなった。ローソクが自らの身体を燃焼させながら放つ光が、人の心を温め、希望を与えるからであろう。人間の真実の人格価値が輝くことを、様々な働きを通して、この社会に語り続けたい、と。(『シリーズ福祉に生きる15ゼノ神父』寄稿「一本のロウソク」大空社1998年)

6.被災地支援の意味

被災地を訪問し、まだ瓦礫が片付かず、生活の拠点を失った方々の生活の場が築かれていない現実、支援が遅れている現状をつぶさに見てきました。しかし、自分たちで、コミュニティを再建しようとする動きが確実に生まれており、この地道な歩みと足を揃えることが、今、本当に求められていると思います。復旧に三年、復興にさらに三年と言われています。明日を目指して、被災地で生まれた「希望の光」と共に歩みたいのです。

そして、日本全国で、今回の死亡者、行方不明者の数を超える人たちが、自殺、孤立死している現状に、少しでも挑戦したいと思っています。

すなわち、被災地支援を通して、今、日本社会が求めている「希望」と「絆」を再生していくこと。今は、それぞれの場で、互いに支えあい、生きていくことが大切な時期になっています。

そして、私は、その基盤を築き、子どもたちが、希望を持って生きていくことができる社会づくりに努力したいと思っています。

7.私たちの未来である子どもたちが希望を持って生きていける社会を

私も孫をもつ身になりました。我が家の前は、通学路になっていて、たくさんの子どもたちが学校に通います。しかし、私たちは、子どもたちが希望を持てる社会を築いているでしょうか。皆で歌った賛美歌21 371番のように、皆が、それぞれの生活の場で、学びの場で、希望の光を灯すことが必要です。ここに輝くローソクを見てください。聖書に書かれているように、「世にあって星のように輝(フィリピ書2章15節)」いていますが、それは決して栄光の光ではない。共に歩む私たちの思いであり、共に悩む心の涙です。命の大切さを知り、守り、伝える人が放つ光なのです。それは同時に、私たちを支え、導き、共に歩んで下さったキリスト、また父・母・兄弟姉妹、友、恩師の思いが、それぞれの人生を通して光っているのです。そして、本当の暗闇だからこそ、どんな光も相手からよく見えるのです。

この光を届けませんか。愛されていること、共にいることを伝え、希望を届けませんか。共に力を合わせて、子どもたちが希望をもって生きていくことができる社会を築き、そこで光る愛の聖火を、10数年後、子どもたちが大人になった時に託したいのであります。

8.卒業生諸君へ

卒業する皆さんは、今、スタートラインに立ちました。これまでの学びの過程で、たくさんの人や出来事と出会い、様々な課題を自分で解決してきて、今がある。その自信は、決して無駄なものでもなく、これからの力となるでしょう。そして、一緒に未来への聖火を、明日を担う子どもたちに、一緒に手渡ししていきましょう。このことを、私は、切に願っています。

卒業おめでとう。これからもよろしく。

讃美歌21 371番 「このこどもたちが」

1 このこどもたちが 未来を信じ、つらい世のなかも 希望にみちて、

生きるべきいのち生きてゆくため主よ、守りたまえ、平和を、平和を。

2 戦いあらそい ここにかしこに  地をとどろかせて 燃えさかる時、

子らは泣きさけぶ、血をながしつつ。

主よ、とどめたまえ、いくさを、いくさを。

3「剣を鋤とし 槍を鎌とし、洪水のように 正義を流せ」。

神のみ言葉は世界にひびく主よ、教えたまえ、み旨を、み旨を。

4 このこどもたちの 未来を守り、生きるべきいのち、共に生かされ、

平和をよろこぶ 世界を望む。 主よ、祝したまえ、大地を、大地を。