大阪るうてるホーム研修会

2014年11月9日(日)にルーテル学院大学学事顧問である市川一宏先生にるうてるホームに来ていただき、キリスト教社会福祉の視点から「これからの社会福祉法人に求められること」というテーマで全体職員研修を行いました。今年度の法人主催の研修テーマは「価値と倫理」。6月の賀来周一先生の「スピリチュアルケア」研修に続き、ルーテルならではの研修会となりました。また、翌日には、法人幹部に対してのマネジメント研修もしていただき、とても贅沢な2日間となりました。(石倉常務理事)
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2014_11_10_10_10_27 9日の朝、私は、日本福音ルーテル大阪教会の礼拝に出席しました。私にとって、本教会は、起点となる教会です。松澤先生に理事長をご依頼する時にも、本教会で礼拝に出席して出かけました。滝田牧師のメッセージは、いつも本当に勇気を与えて下さいます。

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Ω十一月九日説教

イエスさまの返答はファリサイ派には意外でした。ファリサイ派はイエスさまが律法に何か新しいことを加えるのではないかと予想していたからです。そして、何かを加えれば直ちに律法違反の罪を告発しようと考えていたのです。しかしイエスさまは決して「目新しいこと」を語って人々を引き付けようとはしませんでした。むしろイエスさまは繰り返し神さまのみ心は不変であること、自分はそのことをもう一度伝えにきたということを語っておられたのです。

そうだとすればいったいファリサイ派はどこでイエスさまとぶつかることになるのでしょうか。ファリサイ派も律法を守れと常に語っていました。しかし彼らは律法を「行う」という外面的なことに力を傾け、最も重要な神さまを愛するということをしませんでした。愛する、ということある方は大切にすると訳されます。それもいいと思いますが、ルターは、これを「信頼する」と理解しました。神さまを信頼して生きるということが大切なののに、彼らは律法を都合よく薄め、守りやすく変更していったのです。たとえば彼らは神さまの前で誠実であるということを「手を洗う」という外面的な事柄にすりかえ、自分たちは守っているが、君たちは守っていないと民衆を脅しました。

しかしイエスさまは、何の解釈も逃げ道もつくらず、律法は一点一画もくもりなく守れとおっしゃったのです。そしてそれを徹底されたのです。「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして」とはそのことです。外面的なことに留まらず、全身全霊を持って神さまを愛せとおっしゃったのです。程度の問題ではないときっぱりと断言されたのです。

私たちは、この律法の厳しさを薄めてはなりません。私たちはどこかで思い違いをしていないでしょうか。「赦し」を前提に罪を考えてはいないでしょうか。どこかであらかじめ逃げ道を作っていないでしょうか。しかし最も重要な掟は、何一つ変更されていません。「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、主なる神を愛する」、それが私たちの掟です。

私たちはぐうたらで、だらしない一人前になれないものを暖かく包むのが神さまの愛だと考えているところがあります。ただ、それはあくまでも神さまの愛の一面でしかないことを知るべきです。神さまのみ心とぶつかりあうということを避けてはいないだろうか。自らが打ち砕かれるということを逃げていないだろうか。誤解を避けたいのです。外面的な行為を言っているのではありません。もっと奉仕をすべきだとか、祈るべきだとか、そんなことを言っているのではないのです。神さまのみ心を心で受けとめないで小手先で守ったと言うことでななく、心から私たちは神さまを信頼して生きているだろうか、そのことが問われているのです。

詩編十八編に「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う」という言葉があります。私は、神さまを慕って生きているという詩編の作者の言葉を聞いたとき驚きました。神さまの力を信頼しているから、私は神さまを慕ってやまない、自分にとって神さまはそういう方だというのです。

だから聖書を読むと、ダビデや詩編、預言者たち、そしてパウロたちは神さまに、まず最初に祈ります。四方八方万策尽きて神さまのところには誰もいかないのです。問題が起きたら、まず神さま助けてください。あなたしか私を救える方はいないと詩編は歌うのです。私たちはそのように本当に神さまを神さまとして、信頼して慕って生きているだろうか。そのように神さまに正面からぶつかり、祈る中で、彼らはもう一つのことに気づいていきます。自分がそれほど神さまを信頼していないという惨めさです。祈っていながら、信仰をもっていると言いながら、慕うほどには愛していない自分の姿です。神さまなど何ができるという思いで、自分本位に生きている罪深い自分です。

しかし、まさにそこで彼らは、み言葉に打ち砕かれるという経験をしたのです。そして、そこにおいて彼らはまさにイエス・キリストの十字架に出会ったのです。あの十字架によって、自らが滅ぶべきものであり、何の言い訳もできない者であることを知った時、キリストと共に復活したのです。律法主義は私たちを苦しめますが、死なすことはありません。しかしキリストの十字架は私たちを滅ぼしますが、新しくすることができるのです。

律法に根差した愛は、打算と見せかけの偽善にしかなりません。しかし、死すべき者が生かされているところにうまれる愛は、生き生きと隣人に向かうのです。イエスさまは、第一の掟も、第二の掟も同じだとおっしゃいます。キリストの愛に愛されている、まず、しっかりとこの第一の掟を心に留めたいのです。そして、そこから生まれる隣人への愛に生きる群れでありたいと思います。