ボランティアについて、考える


ボランティア活動

私にとって、大切な18歳の時の出会い。今から50年近く前に遡りまsu.

私が、友人の代わりに、東京都大島にある知的障害施設大島藤倉学園での夏のボランティア活動に参加しました。当時は、地域で、知的障害をもつ方とお会いすることは本当に少なく、私は、多くの不安を抱きながら、夜、浜松町にある竹芝桟橋から船で大島に向かいました。早朝に大島に着き、歩いて学園に行き、1週間のボランティア生活が始まりました。朝7時から、穴堀をし、また炎天下、友人たちと働き、汗を流しました。また、たくさんの学園の子どもたちと出会いました。別れ際、互いに涙がとまらなかったことが、とても懐かしく思い出されます。そして、知的障害児者の父と言われる糸賀一雄先生の生き方と思想に出会いました。

私は、ボランティアとは、人のためにすることであると思っていました。だから、「この子らに世の光を」届けようと思ったわけです。

ところが、糸賀先生は、「この子らを世の光に」と言われました。子どものそれぞれの個性と発達の可能性を信じ、そして「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」という、大切な生き方を示されました。この子らが安心して歩んでいける社会こそ、私たちがめざすべき社会であることを願って。

私は、この言葉から、3つのことに気がつかされました。

  • それぞれが、自分の能力を活かし、光を放っていること。
  • その人を思う心が、愛の光となって、その人を通して、輝いていること。
  • 実はその活動によって、自分自身が育っていること。

この考え方を、私は信念としています。

2018年9月、私は、都立練馬高校の学園祭に行き、ボランティア部が企画する部屋を訪問しました。8月に開かれたスクールボランティアサミットでお会いした関係で、応援に行きました。学生諸君は、部屋に来られた方々にボッチャ(ヨーロッパで生まれた重度脳性麻痺者もしくは同程度の四肢重度機能障がい者のために考案されたスポーツで、パラリンピックの正式種目です。ジャックボール(目標球)と呼ばれる白いボールに、赤・青のそれぞれ6球ずつのボールを投げたり、転がしたり、他のボールに当てたりして、いかに近づけるかを競います。障害によりボールを投げることができなくても、勾配具(ランプ)を使い、自分の意思を介助者に伝えることができれば参加できます。 競技は男女の区別なくのクラスに別れて行われ、個人戦と団体戦(2対2のペア戦と3対3のチーム戦)があります。障害の程度によりクラスが分かれており、同じクラスの選手どうしが対戦します。クラスはBC1、BC2、BC3、BC4、オープンの5つで、オープン以外の4クラスがパラリンピック等の国際大会対象クラスです。<日本ボッチャ協会>)を体験してもらい、その醍醐味と楽しさを通して、障害者の方々と共み歩むことも意味を理解して頂こうとしていました。その思いに、私は感銘を覚えています。

今と、私の高校生時代とは、社会の状況や障害者理解がずいぶん違うと思っています。しかし、今は、障害者が自分らしく生きていくことができる社会となっていると自信をもって言えない自分がいます。

また、2016年7月26日の未明に神奈川県内の障害者支援施設「津久井やまゆり園」において大量殺傷事件が起き、入所されている方々のなかで、特に障害の重い方々を狙い撃ちにしたということ、犯行後、警察での取り調べに対して「障害者なんていなくなればいい」と語ったとのこと。

同年11月に、私は、神奈川県議会の特別部会で、以下のことを申し上げました。「今回のやまゆりで起こった残虐な行為は、以下の特徴があると思います。

①障害者の生命を軽視し、侮辱し、その存在を否定した行動であり、共生の社会という目指すべき社会への取り組みと真逆である

②地域に生活する一人ひとりの障害者理解が問われた。

③家族も多くの苦しみを背負った。何故、氏名を明らかにしなかったかを理解する必要があるのではないか。

④地域における障害者施設の使命を再確認する必要がある。今までの地域住民と入所者が築いた絆を寸断させてはならない

⑤精神障害者をもつ人が起こした事件であり、精神障害をもつ人自身が、差別を恐れ、戸惑っていると聞く

⑥マスコミの報道を含めて、情報について、再度確認する必要がある。

⑦多くの献身的に働いておられる福祉の専門職への誤解も生まれていると聞く。私の大学の卒業生も働いており、悲しみの中に大きな痛みを抱いている。もっと、その働き人が評価されるべきではないか。また、確かに、犯人は、以前職員であることは事実であるが、一人ひとりの人格には、様々な側面がある。職員であることを強調することは問題。全体的に取り上げることが必要。

今、私たちが築いてきた、共に生きる社会を取り戻さなくては。だからこそ、高校生のような日々の地道な活動が、いつも、そしてこれからも必要とされると改めて確認できました。それが、完璧なものでなくても良いのです。ボランティアとしての思いが示されてれれば、それで十分です。それが、ボランティアの原点です。日々の生活を通して、理解を広げていくこと。その挑戦をし続けていくこと。

私は、若き友人諸君の活動に敬意を表し、これからも応援していきたいと思っています。