大学関連

ニューヨークの病院で働く卒業生からのメッセージ⑶

<市川>16日の朝、岩◎さんからメールが来ました。3つのメールです。日本は12時間早いですので、看護師の仕事から帰り、私たちにメールを書いてくれています。感謝を持って、掲載します。岩◎さん、ありがとう。そして、くれぐれも健康に留意して下さい。

<岩◎>①「市川先生、改めて、沢山の仲間からの応援メッセージをありがとうございました。応援してくれる仲間がいると思うと心強いです。

こんな生活にも少しずつ適応してきて、客観的に色々なことを考えることができるようになりました。私の働く心臓外科ICUがコロナの患者さんの激増と共にあっという間にCOVID ICUになってしまいましたが、その時に、病棟内の患者さんを見て、ほとんどの患者さんがマイノリティー(ヒスパニック系とアフリカンアメリカン系)だと言うことに気が付きました。60%以上がヒスパニック系、35%以上がアフリカンアメリカン、5%以下が白人でした。病院がハーレムに近い場所にあることも関係しているのかな、と思ったのですが、どんなに患者さんが入れ替わってもこの比率は同じでした。

先週、NY市長とNY州知事の会見で、コロナの患者さんはマイノリティーが人口の比率に比べて圧倒的に多いとのこと。私が考えていたのと同じで、NY州とNY市内のどちらも、ヒスパニック系がだんとつに多く、それに続いてアフリカンアメリカン系が多い、との統計が出されました。それは、低所得地域で生活する貧困からくる、教育が十分でない、また、貧困で健康を守れない人たちや、自宅での仕事ができるホワイトカラーの白人とは反対にブルーカラーで仕事に行かなくてはいけない低所得者層が関係しているのです。ブルーカラー労働者としては、デリバリーの人、タクシー運転手などなど様々ですが、貧困が関係しているとのことでした。他の州でも同じく、シカゴでは圧倒的にアフリカンアメリカンのコロナの患者さんが多いので、同じことが他の大都市でも言えると思います。

NY市長はこれから、低所得地域を中心にコロナのテストを行うとともに、保健師やソーシャルワーカーが地域で活動してコロナの増加を防ぐような対策を始めるようです。アメリカは日本よりはコミュニティの中でお互いを助ける、と言う概念がとても薄いです。反対に、ドイツでは地域の医師が自宅を訪ねて市民の状況を把握し、教育をしながら状況が悪くなったら病院との連携をすることも行っていると聞きました。これからは、お互いが地域で助け合うことが、このコロナに関しても大切になってくるようです。先生のおっしゃっている地域でのネットワーク作りがもしかしたらこれからは日本でコロナを防ぐ大切な役割になってくると確信しています。

また、今後、日本のでのコロナ対策として、看護師の確保、マンパワーの不足、医療の体制が大きな焦点になってくることも考えられます。アメリカでは医療崩壊が起こっていますが、なんとか持ちこたえているのが、医師と看護師の連携・チームワークのバランスが取れているからです。

私がアメリカで看護師をして一番日本と違うなと思ったことは、看護師の自律性です。アメリカの看護師は看護師としての独自の意思決定があり、それを医師が尊重してチームとしてのバランスが取れています。例えば、今の状況で言うと、患者さんの部屋はネガティブ・プレッシャー(陰圧)の個室の隔離室になっていて、多くの人がコロナに感染しないように、限られた人だけが部屋に入ることにしています。その限られた人とは、看護師やポータブルのレントゲンを撮るレントゲン技師、人工呼吸器を扱う呼吸器専門のセラピストです。患者さんの部屋のドアがガラス張りになっていて、部屋の中が見えるので、医師が部屋に入ることなくガラス越しに患者さんを見て、看護師からの細かい情報や看護師の判断を仰ぎ、看護師と医師が対等に話し合い、患者さんの治療方針を決めます。

看護師も看護師としてのできる範囲が広く、動脈血ガスを採取してそれを病棟内にある機械に自分でかけて、その結果を見て、看護師が自ら人工呼吸器のセッティングを変えたり、または、変えることを医師と相談します。状況によっては看護師が自分で判断し、処置をして、それから医師にそれを報告し、医師に後から指示書を書いてもらうこともあります。

技術的なことは、中心静脈カテーテルと言う大きな静脈に入るカテーテルやスワンガンツカテーテルと言われる心臓の中に入って心臓の状態を見るカテーテルの抜去、または気管挿管の人工呼吸器の管の抜去も看護師が行います。そのため、医師がわざわざベッドサイドまで行ってやらなくても良いことが多く、少ない数の医師だけでも沢山の患者さんの治療方針の決定や指示書を出すことなど、医師としての業務に専念できます。そのような絶妙なチームワークが今の医療の現場を保っています。

情報を集めて、根拠に基づき自分の意見をはっきり言うことを私も学びましたが、日本に帰ったら空気が読めなくなって、やっていくのが難しくなってしまうかも知れません(笑)

今後、これからの医療の在り方や地域包括支援の部分でも多くなり、変化が起こってくることが予想されます。私たちはコロナで大打撃を受けていますが、NYの知事が「ニューヨーカーは強く、賢く!」と言っているように、これがもしかしたら、みんなが心を一つにして、良い未来へのドアを開けてくれることになるかも知れません。

私たちの未来のためにもお祈りください。

岩◎」

16日日本時間で11時頃 

<岩◎>②「ソーシャルワーカーが今、本当に地の塩、世の光となる時代になっています。とても大切な役割を持っていますし、これからの日本を左右するとも思えます。これ、現場からの声です!

取り急ぎ。 岩◎」

<岩◎>③16日第3信 「市川先生、明日の勤務に備えて、就寝の時間になりましたが、少し、お伝えしたいことがあります。

今、自宅待機が続き、子供も大人も家にいて、そのために仕事がなく、収入が途絶えて苦悩しているNY市民、特に低所得者が沢山います。悲しいことに、そのために、今、ドメスティックバイオレンスが増加しています。信じられないかも知れませんが、NYの貧困層の子供は学校給食に頼って栄養のバランスがかろうじて取れている状況です。NY市長が最後までパブリックスクールを閉鎖しなかったのは、児童の生活と栄養の不足と危険が懸念されたからです。

今、NY市内では、公的サービスの必要さがとても見直され、不可欠となっています。

コミュニティの包括サービスがどれほど大切かを身をもって実感しています。

岩◎」

ニューヨークの病院で働く卒業生からのメッセージ⑵

卒業生の皆さんへ
 皆さん、お元気ですか。コロナの猛威は凄まじい。どうぞ、くれぐれも健康に留意してください。

<市川>さて、遅れて届いた卒業生からの応援メッセージを再度岩◎さんに送りましたら、以下のメールが届きました。私がメッセージを送って、少し時間が経ったので岩◎さんが体調を崩したのではないかと心配していましたが、無事がわかってほっとしました。

<岩◎>4日「応援メッセージをありがとうございます。懐かしい名前があり、嬉しく読ませていただきました。3日間連続の12時間勤務が終わり、ほっとしていますが、身体にはかなりこたえます(笑) 今の状態は悪化していませんが、良くもなっていないので、このままこの状態が続きそうです。私もこの新しい環境に少しづつアジャストしてきていて、仕事と休養のバランスなども取れてきています。同僚が体調不良やコロナの症状で次々に仕事に来れない中、私の健康は守られていますので、ご安心ください。」

<市川:卒業生へ>岩◎さんの踏ん張りに感動するとともに、彼女の生き方に励まされます。同様に、卒業生の多くは、直接相談やケアを行い、まさにギリギリのところで踏ん張ってくれています。高齢者や障がいをもつ方が生活しているホームで働いている卒業生、医療現場で患者の相談に応じ、治療後の患者の復帰を支援している卒業生、地域で生活する高齢者や障がいをもつ方を支援する卒業生、子育て支援を行っている卒業生、生活困窮者を支援している卒業生など、その働き場は多様です。彼らは、仕事の中で、自分がコロナウイルスに感染するのではないか、また利用者にコロナウイルスをうつすのではないか、家族や友人への感染の危険性はないかと心配し、不安と緊張の日々が続いています。でも、彼らの働きがなければ、その方々の生活が成り立ちません。

 今は、社会福祉を支える卒業生たちの繋がりが大切だと思います。そして、その輪が、保健医療福祉の様々な分野で働く方々に広がり、互いに辛い思いや苦労を理解し合いながら、支え合って、明日への希望を生み出したいと思っています。

 落ち着いたら、また皆と会いたいね。

<追加>岩◎さんからの当日のメッセージです。 「マスクなどももちろん足りないのですが、病院で使うN95と言うコロナのウイルスを通さない特別なマスクがFront lineでは必要なので、どうぞ、心配して物資のサポートはされなくても大丈夫です。今は足りないなりに、使い回しなどでやりくりしています。色々なお気遣いをありがとうございます。今は祈りがどれほどパワフルかと言うことを実感していますので、どうぞ私たちことを心に留めていてください。ありがとうございます。
こちらの状態などがわかる記事とニュースで報道された動画を添付いたしました。これはNY市内のクイーンズの病院のことですが、どこも同じ状態です。参考までに。https://www.bbc.com/news/world-us-canada-52137160 https://www.cnn.com/2020/03/31/us/coronavirus-medical-shortages-us/index.html

ニューヨークの病院で働く卒業生から学ぶ⑴

<市川>4月2日午前8時、同期を介して、ニューヨークにいる卒業生の岩◎さんよりラインが届きました。私の卒業式のメッセージや卒業生への呼び掛け文を読んで、涙したこと、心が癒やされたこと、そしてニューヨークにおける医療現場の厳しさが書かれていました。

私は、早速、今でも繋がっている卒業生に対して、以下のメール・ラインを送りました。 

<市川><岩◎さんへの応援メッセージの依頼>

「こんにちは。

さて、1992年度岩◎さんから、ラインが届きました。励ましのメッセージを送ろうと思います。

「私は今、マンハッタンのMount Sinai Hospital と言う大きなhealthcare system の中の一つのHospital のCOVID ICUで働いています。3日前ですでにMountSinai System の全部の病院での死者が187人に上り、今日の時点では死者の数がもっと増えていると思います。霊安室も一杯でご遺体を置く場所もありません。ICUベッドもICUナースも足りないし、人工呼吸器も足りません。私の働くICUでは<省略>まさに、戦場下です。数週間前までは普通に生活をしていたのに、人間の生活ってこんなにまで急に変わってしまうのですね。自分の身を守るためのマスクやガウン、フェイスシールドなども不足して、自分の身も守れません。こんなに時ですが、いつも私が神様に願っていたこと「神様のために私を用いて下さい」と言うことが、もしかしたらこれなのかも知れません。・・・・・。」

励ましの気持ちを伝えたい卒業生は、私個人に100字以内のメッセージを送って下さい。今週末には、まとめて送りたいと思います。」

 そのメール・ラインを受けて、私にたくさんの励ましのメール・ラインが届きました。4日の午後、それをまとめて岩◎さんに送りました。私たちの思いを込めて。

 今日5日に、早速、岩◎さんからメールが届きました。

<岩◎>「市川先生、

ルーテルの皆さんからのメッセージを一つひとつ大切に読ませて頂きました。涙が止まりません。皆さん、本当にありがとうございました。

そして、多くの方の祈りに支えられて私の毎日があるのだと思いました。皆さんの祈りを大切にこれからも頑張っていきます。どうぞ、これからも私たちのために祈ってください。

今の時点で、NY市内でのコロナ患者さんの死者が2600人以上にのぼりました。まだまだ、上昇のスピードが衰えておらず、今後2週間後あたりにピークが来ると言われています。

統計からみると、病院にコロナで入院した3分の2の患者さんは後遺症があるにしても自宅や施設に退院しています。その反面、3分の1の患者さんは重篤な状況になり、ICUで治療されているか、または亡くなっています。重篤患者さんの増加に伴い、私の病院ではICU病棟が70床以上にまで増やされました。<省略>お年寄りの患者さんの数も多いのですが、若くて既往歴の全くない健康な30歳代、40歳代の重篤なコロナの患者さんも増えており、自分は若いから大丈夫だということはコロナに関しては通用しない恐ろしさがあります。

<省略>

ご存じのように病院のベッドが足りず、コンベンションセンターや海軍の船が病院としてコロナでない患者さんを収容していますが、今、一番深刻なのは看護師、医師不足です。特にICUの看護師が不足して、私たちICUナースは通常の2倍の量の患者さんを受け持っており、同僚たちもオーバーワークで次々に体調を崩していっているので、これからは体力勝負となってきました。

看護師、医師不足を解決するために各州で、免許を持っていて今は臨床で働いていない看護師や医師のリクルートも始まり、定年退職した看護師や医師にも現場に戻ってきてもらるようにしています。最悪の場合、看護学生や医学生の導入もバックアッププランとして考えられています。

医療従事者の不足もちろんのことながら、人工呼吸器やその他の医療器具の不足も深刻な中で、この状態が続けば患者さんのトリアージをして、助けられる命を選択して治療を行っていかなくてはいけないことになるかも知れません。それだけは避けたいと願っています。

患者さんの看護を通して見えない敵、コロナの怖さを見せつけられていますが、問題なのは効果的な治療がないことで、今は、防ぐことだけが多くの人の命を救うことにつながっています。日本でも、医療関係者が日本でも数週間後にアメリカのような状況になってしまうこともあるかも知れない、と言っておられますが、確かにその危険はあるかも知れません。ですから、今、一人ひとりができること、他人事とは思わずに外出自粛、自宅待機などを守っていくことで、アメリカのような状況は防げると思っています。

皆で心を一つにして生きていく時になりました。

私も皆さんの祈りに支えられて頑張っていきます。

また、近況をお知らせします。

本当にありがとうございました。

岩◎」

<市川:卒業生へ>今回の呼びかけを通して、私が感じたことは、以下の通りです。

1.私がメール・ラインを送った卒業生の多くは、相談やケアを行い、まさにギリギリのところで踏ん張ってくれていること。例えば、生活しているホームで働いていたり、医療現場で一般の患者の相談に応じ、また治療後の患者の復帰を支援している卒業生、訪問をして、高齢の方や障害をもつ方を支援する卒業生、子育てに関わる支援を行っている卒業生、生活困窮者を支援している卒業生がいます。彼らは、仕事の中で、自分がコロナウイルスに感染するのではないか、また利用者にコロナウイルスをうつすのではないかと、不安と緊張のただ中に置かれていること。でも、彼らの働きがなければ、利用者の生活が成り立たないことも事実であり、緊張の日々が続いていること。

2.それゆえに、自分のことで精一杯なことは、十分理解できること。

3.このように献身的に働いている専門職に対する社会の配慮、応援、理解が乏しい言動や動きが散見されること。

4.卒業生には家族がおり、小さい子どもを含めて、養育していかなければならないこと。また、親の介護の責任がある卒業生もいること。家族にウイルスをうつさないか、心配は尽きない。

5.ウイルスの感染によって大きな影響を受ける子どもを必死で守っている何人もの卒業生がいること。

私は、それぞれの卒業生の働きに心から感謝し、それぞれの生き方に敬意を表します。

確かに、コロナウイルスの広がりは、今までの関係を打ち砕き、不安、恐怖、不信、怒りを生み出し、負の連鎖が広がってきています。

だからこそ、私は、大切なもの、大切なことを守る決意が必要だと思います。私は、その中に「人への思いやり」を加えたい。そして、今回の卒業生との絆を、これからも大切にしていきたい。絆を寸断されるのではなく、より強めたいと思っています。そのためにも、皆には、何としても罹患せず、生き抜いてほしい。

非力な私ですから、それぞれの悩みや痛みを聞く役割しか担えません。しかし、卒業生とこれからも歩んでいく可能性を模索し続けていきたいと思っています。一緒に明日を切り開いていきましょう。

感謝

 2018年度より2年間の学長の仕事を終えることができました。一時期、体調を崩しましたが、教職員、学生、卒業生、後援会推進委員、教会、教育、福祉等の関係者、行政、社協等、たくさんの方々がご支援下さり、ルーテル学院創設110年の実績を社会にお示しすることができました。本当に実り豊かな日々でした。

 これからは、学生の教育、研究の体系化、私のライフワークである「困難に直面する方々を支援し、希望の光を届ける人材を育て、支援する仕事」を進めてまいります。ご指導頂けますよう、お願いいたします。

卒業生の皆さんへ

卒業生の皆さん、お元気ですか。

コロナウイルスの影響は計り知れないですね。今も、私たちは、言い表せない不安のただ中に置かれています。そして、これからさまざまな問題が顕在化してくるでしょう。

だからこそ、私は、大切なもの、大切なことを守る決意が必要だと思います。私は、その中に「人への思いやり」を加えたい。

今日は、雪です。気候の変化は老体にはこたえますね。あと3日で学長の役割を終え、またあと3年で定年です。しかし、この1ヶ月、今まで気がつかず、当たり前のように思っていたことに感動しています。

大学に咲いていた桜と、数日前に近くで咲いていた桜の写真を送ります。また来年、大学の桜を一緒に見ましょう。

お元気で。

ちなみに、自分だけでは抱えられないことがあれば、私個人に連絡を下さい。何が可能か、一緒に考えましょう。

                          2020年3月29日

                          市川一宏

大学に咲く桜の花。最初はトリニティホールの2階から見た桜の花。次は正門から見える桜の花です。

市川の履歴(2020年3月)

市川一宏(いちかわかずひろ)                2020年4月1日現在

1.教育歴

 1983年4月より 日本ルーテル神学大学専任講師

 1992年4より ルーテル学院大学助教授を経て 教授

 2002年4月より2014年3月まで ルーテル学院大学学長

 2014年4月より2018年3月まで、大学院研究科長・学事顧問・教授

 2018年4月より2020年3月まで、ルーテル学院大学学長

2.現在 

ルーテル学院大学人間総合学部人間福祉心理学科・大学院人間福祉学研究科社会福祉学専攻 教授

3.学歴

 早稲田大学法学部、日本社会事業学校研究科、東洋大学大学院社会学研究科社会福祉専攻博士前期課程・後期課程、ロンドン大学ロンドン・スクール オブ エコノミックス(LSE)特別研究員2002~2004年

4.専門分野:社会福祉政策・地域福祉・高齢者福祉

5.研究テーマ:全国・都道府県・市区町村の行政、社協、民間団体における計画の策定、実施、評価および調査研究、人材養成・研修等に多数関わる。

全国各地の実践から、様々な「地域の福祉力」を学び、各地域に合った地域福祉実践を研究テーマとしてきた。特に近年、地域の福祉力を高め、孤立を防ぎ、「おめでとう」で始まり、「ありがとう」で終わる一人ひとりの人生が守られる、希望あるまちづくり、共生型社会づくりに挑戦している。

6.学会の活動

・日本キリスト教社会福祉学会会長(2017年6月まで)

・日本地域福祉学会理事(渉外担当)、査読委員<2020年6月まで>

・日本福祉学会監事<2020年5月より>、査読委員

7.法人関係等役員

・東京神学大学評議員

・三鷹ネットワーク大学推進機構副理事長

・福祉系大学経営者協議会理事

・医療法人財団慈生会野村病院監事

・ニッセイ財団高齢社会助成審査委員

・厚生労働省寄り添い型相談支援事業等選定・評価委員会委員

・学校法人九州ルーテル学院理事(2019年4月まで)

・学校法人浦和ルーテル学院評議員(2019年3月まで)

・日本ソーシャルワーク教育学校連盟相談役(2019年5月まで)

・認定社会福祉士認証・認定機構研修認証委員会理事(2018年5月まで)

8.最近の主な学外活動 

・国際基督教大学非常勤講師「社会福祉概論」

・石巻市ボランティアセンターアドバイザー・地域福祉活動計画策定委員会アドバイザー『第3次地域福祉活動計画』・石巻市地域福祉アドバイザー

・小金井市介護保険運営協議会会長

・調布市高齢者福祉推進協議会顧問

・三鷹市介護保険事業計画検討市民会議委員

・武蔵野市健康福祉総合計画推進会議会長・地域福祉計画策定委員会委員長

・練馬区介護保険運営協議会会長、練馬区地域福祉パワーアップカレッジ学長(2019年7月まで)

・世田谷区共同募金配分委員会委員長、評議員専任・解任委員会委員長

・東京都高齢者保健福祉計画策定委員会委員・東京都共助社会を進めるための検討委員会委員長・社会貢献表彰専門部会会長

・東京都社会福祉協議会総合企画委員会委員長、法人理事

・神奈川県地域福祉支援計画評価・推進等委員会会長(2019年6月まで)

・全国社会福祉協議会全国ボランティア市民活動振興センター運営委員長、評議員選任解任委員会委員

・『日本の都市総合力評価(JPCI)有識者委員会(Expert Committee)』 委員<社会福祉担当>(森記念財団)

9.著書・論文等

(単著)

・2014年6月『「おめでとう」で始まり 「ありがとう」で終わる人生 福祉とキリスト教』教文館

・2009年5月『知の福祉力』人間と歴史社 等

(2019年度における論文等)

・2019 年1月この人に聞く「ソーシャルワーカーは、専門職である前に一人の人間であれ」聞き手松本すみ子先生、『ふくしと教育』(日本福祉教育・ボランティア学学会機関誌)2019 通巻26 号、p.38〜p.41

・2019年5月「岡本榮一理論へのキリスト教社会福祉からのアプローチ」(単著) p.90〜108『ボランティア・市民活動実践論』ミネルヴァ書房

・2019年5月「序章 三鷹市における地域ケアの現状と未来への展望」(単著)p.9〜22、「第1章 三鷹市における地域包括ケアシステム構築の現状と課題」(単著)p.28〜37、「地域ケアの過去、現在、将来」(特別対談 清成忠男前理事長)p.243〜251、「地域ケアネットワーク創設への想いを語る」(インタビュー 清原慶子前三鷹市長)p.235〜242、『人生100 年時代の地域ケアシステム―三鷹市の地域ケア実践の検証を通して』(編集代表・共著)NPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構

・2019年10月(有識者委員)『日本の都市特性評価2019』森記念財団都市戦略研究所

・2019年11月(書評)森清著『ひとりでも最後まで自宅で』『本の広場』p.12・13教文館 

・2019年11月「慈愛園から学ぶ」『100周年記念誌』社会福祉法人慈愛園

・2019年11月「健生会の歩みは地域に希望の光を届けてきた歴史である」『創立35周年記念誌』NPO法人健生会

・2020年1月「明日の地域を描く」(自著)『地域福祉パワーアップカレッジねりまの「歩み」』p.5〜7(発行人)パワカレの歩み編集委員会

・2020年1月「キリスト教社会福祉実践の原点を考える」(発題要旨)『キリスト教社会福祉学研究』52号、p.80〜82日本キリスト教社会福祉学会

・2020年2月「桐ヶ丘地域のまちづくり再生」実践の持つ意味」(コメント)『第33回ニッセイ財団シンポジウムの記録集「高齢社会を共に生きる」』p.63・64日本生命財団

・2020年3月「自治体とコミュニティの関係性を踏まえた人材確保のあり方」(全国市長会の講演録)『コミュニティの人材確保と育成~協働を通じた持続可能な地域社会~報告書』日本都市センター

・2020年3月「解説 民児協運営のポイントと会長としての心構え」(自著)p.6・7『VIEW No.214』全国社会福祉協議会民生部 

10.講演・研修等

5月20日「これからの民生委員・児童委員活動を考える」大阪府民児協、大阪府民生委員児童委員大会

5月27日「介護支援専門員らしく、利用者や地域を支えるために」大分市居宅介護支援事業者連絡協議会、研修会

6月10日「これからの民生委員・児童委員活動を考える」新潟市民児協、新潟市中堅民生委員児童委員研修会

6月12日「自治体とコミュニティの関係性を踏まえた人材確保のあり方」地域社会を運営するための人材確保と人づくりのあり方に関する研究会、全国市長会

6月17日「地域福祉の方向性と地域福祉コーディネーターの役割」(講義と演習)長野県社協、長野県地域福祉コーディネーター養成講座

6月28日第60回日本キリスト教社会福祉学会大会シンポジウム「神と隣人に仕えるー地域共生社会形成におけるキリスト教社会福祉の役割」(発題)

6月20日・9月12日「地域援助技術」(コミュニティソーシャルワーク):「これからの地域福祉と主任介護支援専門員の視点」(講義と演習)「地域福祉を進める専門職の目指す方向」(講義と演習)長野県社協、長野県主任介護支援専門員研修会

7月4日・16日「社会福祉概論」裁判所総合研修所、家裁調査官研修

8月20日・3月1日・16日「特別講義:問い直される社会福祉の使命―新しい共生社会の創造」中央福祉学院、社会福祉主事資格認定通信課程

9月9日「地域福祉をめぐる課題と展望」神奈川県、地域福祉担当職員研修(初任者編)

9日29日・10月3日・11月12日・1月23日「地域福祉をめぐる課題と展望」自治大学校、(管理職)課程講義

10月9日「県民一人ひとりが作る地域共生社会について」沖縄県社協、沖縄県社会福祉大会

12月17日「地域福祉コーディネーターの役割」新潟県社協、地域福祉コーディネーター養成研修

1月28日「単位民児協会長・副会長の心構えと役割について」香川県民児協、単位民児協会長・副会長研修

1月29日「地域福祉を推進する者として」名古屋市民児協、研修会

2月4日「これからの民生委員・児童委員活動を考える」土浦市、全体研修会

2月7日「民生委員・児童委員協議会の運営と副会長の役割について」埼玉県社協、民児協副会長研修

2月13日・14日「民児協のリーダーに求められる役割」(講義と演習)全民児連、全国民生委員大学

2月17日・18日「地域共生社会と民生委員・児童委員の役割について」「相談技術」長野県社協、県内研修会

2019年度後期卒業式

2020年3月13日午後2時より、本学院礼拝堂において、卒業生と専任教員、担当職員、パイプオルガン演奏者と独唱者が出席し、卒業式が執り行われました。保護者の方々や学院関係者の方々にはご遠慮頂き、本当に申し訳なく思っております。写真は、大学のホームページに掲載されています。以下、私のメッセージを掲載いたします。

輝く命

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3:5・6)

皆さんと共に今日の卒業式を執り行うことができますことに心から感謝し、その思いを込めて、お祝いのメッセージを送りたいと思います。

1.聖句の意味

この聖句は、2002年4月、今から18年前の4月の入学式で、学長として初めてメッセージを述べた時の思い出の聖句です。当時、戸惑いと緊張で心は激しく揺れていた時に、この聖句によって勇気を与えられたことを思い出します。

さて、箴言は、いわゆるバビロン捕囚後、すなわち紀元前約600年、新バビロニアによってユダ王国のエルサレムが征服され、ユダ国民がバビロンに連行され、50年間、囚われの身となりました。もっとも過酷で悲観すべき状況にある中で書かれたものです。

また、箴言は「知恵の書」と言われ、「実際の生活の中で、さまざまな問題や困難に遭遇する。これらの課題を巧みに解決・処理し、時と場合に応じて適切に行動する能力」(『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局)について書かれています。なお、この知恵は自分だけで得られるものではありません。さまざまな人と出会い、さまざまな行動や思いを知り、学び、また自らの経験によって得られることを確認したいと思います。

ふりかえって、私たちも、身近に地震、台風等による水害、風害、そしてコロナウイルスの流行等に直面し、不安に覆われた状態にあります。このような時代にあって、私たちは、それらの困難にいかに取り組むか、どのように生きていくのか問われており、今日は、1人の医師の生き方から学びたいと思います。

2.アフガニスタンにおける中村哲医師の働き

その人とは、アフガニスタンの地で、住民のために働いた医師中村哲さんです。アフガニスタンは、日本から西南に約6,000キロメートル離れた所にあり、南と東はパキスタンに、西はイランに接し、面積は日本の1.7倍、中央には、ヒンズークッション山脈がある山の国です。人口は2000万人から2400万人で、気候は乾燥地帯ですが、かつては、全人口の80%を占める農民が自給自足の生活をしていました。しかし、約50年前から内乱が続き、また約20年前に大干ばつがあり、1200万人が危機に直面し、飢餓線上400万人、100万人が餓死線上にあって、イランやパキスタンへの数100万人が難民となりました。

中村医師は、1984年にパキスタン北西部に赴任し、1991年よりアフガニスタンの東部の都市ジャララバードを拠点として、診療所を開設し、医療活動を行いました。99.9%の住民は10円、20円のお金もなく医療を受けられない状況でした。

中村医師は、医療活動を続けながら、子どもたちが日本では治る腸の病気にかかり、「コロリ」と亡くなってしまう現実を知りました。その理由は栄養失調と貧困です。子どもたちは、乾きを潤すために汚い水を飲まざるを得ず、その結果、体を壊す。また水がない故に作物ができず、十分な食べ物がなく、栄養失調状態にありました。そして、長く続く内乱の混乱も合わさって、急激に砂漠地が増加している現実を見て、中村医師は、2000年8月井戸を堀ることを決意しました。さらに、食べ物となり、生活を維持する農作物づくりのための用水路を建設することに挑戦し、聴診器を土を掘り、岩を砕く道具に持ちかえたのです。

 2002年以来、1600箇所に井戸をつくり、また用水路建設に取り組み、2017年現在、用水路は27キロに及び、灌漑面積は、3500ヘクタールに及びました。東京ドームは4.7ヘクタールなので、800個分になる計算になります。用水路が延びるたびに緑が生まれ、村ができる。そして15万人が住むコミュニティが作られたのです。しかも、一緒に用水路を作り、知識と経験をもつ住民がそこに住み、用水路を守り、コミュニティを継続していくという、当事者による自立を目指したのでした。それらの事業を、日本で設立されたペシャワール会(注1) が、それらの活動を支援したのでした。

注1.シャワール会は、1983年、パキスタン北西辺境州で貧困層のハンセン病治療をし、79年の旧ソ連侵攻で生じたアフガニスタン難民も治療する中村哲医師の支援組織として結成された。会員数約1万3千人。寄付金により同州やアフガニスタンで複数の病院や診療所を運営している。受診者は延べ100万人を超える。中村医師は2003年、アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞した。

(以上、『天、共に在り〜アフガニスタン三十年の戦い』NHK出版、2013年10月第一版、「京都環境文化学術フォーラム」記念講演より)

3.中村哲医師の生き方から学ぶ

 私は、中村哲医師の生き方に敬意を表しつつも、同じような生き方ができない。しかし、だからこそ、中村医師の生き方から学びたいのです。福岡市の西南学院中学に進学し、キリスト教と出会った後の生き方から、生き方の本質を引き継ぎたいのです。

<出会いを大切にしてきた生き方>

中学時代からの友人、福地庸吉さん(73)が中村医師に現地に赴任した理由を尋ねると、かつて蝶を調査する登山隊の一員として行った時に診察できなかった村人たちの「恨めしそうな顔が頭から離れんかったとよ」と答えたと言われたとのこと。また、中村医師は言います。「様々な人や出来事との出会い、そしてそれに自分がどう答えるかで、行く末が定められていきます。私たち個人の小さな出来事も、時と場所を越え縦横無尽、有機的に結ばれていきます。そして、そこに、人の意思を超えた神聖なものを感じざるを得ません。この広大な縁の世界で、誰であっても無意味なものはない。私たちに分からないだけです。この事実が知ってほしいことの一つです。現地30年の歴史を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人の真心は、信頼に足るということです。」その言葉から、出会いを大切にしてこられた中村医師の生き方を学びます。

<「一隅(ぐう)を照らす」>

中村医師は、たびたび「一隅(ぐう)を照らす」と言われます。一隅とは、ひとすみと書きます。今いる場所で希望の灯(ひ)を灯すこと。それは、0か100ではない。その間には、1から99の生き方がある。さらに、アフガニスタンの国全体から見ると、限定的な活動だが、自分がいる場所で生きていくことが一隅を照らすことであり、そこに意味がある。また援助にはブームがあり、ブームが終わると多くの援助が引き上げられるが、中村医師は、現地に残り続けた。だから、経験の通して、現在のアフガニスタンでの戦争が、決して平和を生み出さないこと、憎しみは生まれるが、信頼は生まれないことを説得力をもって言い続けることができたのです。

2019年12月4日、中村医師は、銃撃され、亡くなられました。私は、中村医師が生涯を通し証明したその思いを、忘れないようにしていきます。

4.卒業生に贈る言葉

君たちはそれぞれに生きてきた。そしてここにいる。また、君たちとともに、ご親族、友人、教職員は、一緒に歩んできた。今までのことで、無駄なことは何もない。そのことに気がついてほしい。そして、今までの経験を無駄にするかしないかは、これからの君たちの考え方、生き方による。そのことを忘れないでほしい。

そして今、君たちは、旅立とうとしている。不安もある。恐れて歩みを止めることもあるかもしれない。しかし、私は、漠然と不安を抱くのではなく、今を大切にして、生きていってほしいと伝えたい。いろいろ困難に直面した時に、決して一人ではなかったことを思い出してほしい。

これからの君たちの歩みのその一歩一歩が、「輝く命」そのものである。そして、君たちの思いと共に、共に歩んでくれた方々の思いが、君たちを通して輝いているのです。そのことを忘れないで頂きたい。

だから、今日は、君たちに、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」という聖句を贈ります。

卒業、おめでとう。これからもよろしく。

資料1.歩み

1984 パキスタン北西部に赴任

1991 アフガニスタンに診療所を開設ペシャワルの病院に訪れる患者の半数は、戦乱を逃れてきた隣国アフガニスタンの難民だった。アフガニスタン山間部の無医地区の苦境を知り、国境の峠を越えて診療所を開設。その後も活動地域を広げ、最も多い時期は両国の11カ所で診療所を運営した。

2000 干ばつを受け井戸を掘る アフガニスタンで大干ばつが発生。農地の砂漠化が進み、住民たちが次々と村を捨てた。飢えと渇きの犠牲者の多くは子どもたち。「もはや病の治療どころではない」。かんがい事業を決意し、井戸掘りを始める。2016年までに井戸は1,600カ所となった。

2003 用水路建設に着手 井戸掘りを進める中で直面したのが、地下水の枯渇。水不足で小麦が作れない住民たちは現金収入を得るため、乾燥に強く、ヘロインやアヘンの原料となるケシの栽培を広げていた。「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」。地下水に頼るかんがいの限界を知り、用水路の建設を始めた。

資料2.
『天、共に在り〜アフガニスタン三十年の戦い』NHK出版、2013年10月第一版、「砂漠の啓示」より

砂漠は美しく静かだ。日中の気温は50度に迫り、強烈な陽光があらゆる生命の営みを封じる。人為を寄せつけぬ厳しさに、人はただ伏して恵みを乞う。ガンベリ砂漠の凛(りん)とした表情は変わらない。 だが緑の防砂林を境に情景は一変する。幅300メートルほどの樹林帯が延々5キロ、砂漠と人里をくっきりと分けている。高さ十数メートルに成長した紅柳の薄暗い森を抜けると、1本の水路が流れている。両岸のヤナギ並木が目を和ませ、小鳥のさえずりが聞こえる。水路沿いに数万本の果樹の園、スイカ、野菜、米や小麦を豊富に産する田園地帯があり、今も開拓は営々と進む。6年前に建設された用水路は確実に威力を広げている。 当時は粗末な小屋で、熱風と砂嵐の中、食事に混じる砂粒を噛(か)みながら指揮を執った。数百人の作業員たちは倒れても決して仕事の手を休めなかった。三度の食事を家族に与え、故郷で暮らすこと。それが彼らの願いであった。 その司令塔は今、広々とした記念公園の中に記念塔として立つ。塔の上から眺めると、砂漠に向かって押し寄せる一面の樹林の緑が圧倒的だ。恵みは人の思いを超えて、備えられてあることを訴える。奇跡ではない。一つの神聖な啓示だ、と皆は確信を深める。 砂漠の一角で得たこの光景は、誰の心にも鮮やかに刻まれている。わが職員、作業員は隣接地域で次々と取水堰(ぜき)の建設に取り組み、アフガン東部に穀倉地帯の復活をと意気軒高である。多くの場所で取水堰を造り、「緑の大地計画」は15年目にして完成を目前にした。2020年までにPMS(平和医療団)は1万6500ヘクタールの沃野(よくや)をよみがえらせ、65万農民の生きる空間を確保しようとしている。 PMSでは来る5年を準備期間とし、全国展開を目指している。アフガンでは全耕地770万ヘクタールのうち灌漑(かんがい)地域は200万ヘクタール前後。減少の一途という。 気候変動による干ばつは、ようやく為政者に危機感を与え始めている。全部を救えないにしても、PMSが確立した取水技術は多くの地域で恩恵をもたらすと期待され、全国展開の機運が高まっている。現在、「大同団結」をあらゆる勢力に呼び掛け、調査と準備が進められている。 殺りくで糧を得ることなど誰も好まない。故郷で耕して生きるのが一番だ。戦乱の中で生きざるを得ない人々は、PMSの灌漑事業に平和への望みをかける。その祈りは切実である。 この事情は日本に伝わりにくい。戦の背後にある現実が知られず、貧しい人々の犠牲に実感が持てないこともあろう。 折から報ぜられる安保法制議論は、悲しいものだ。進んで破壊の戦列に加わり、人命を奪ってまで得る富は、もうよい。理屈で固めた「平和」は血のにおいがする。富と平和はしばしば両立しない。日本国民はいずれを選ぶか。」

2020年新年礼拝「山の頂きから見えるもの」


「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(口語訳聖書:ヘブル人への手紙12:2)

<はじまり>ルーテル学院大学のチャプレンに、年頭礼拝のメッセージの依頼を受けたその時から、私は何を述べることができるのか迷いました。そこで、私の生きていく原点の一つである場に立ち、今までを振り返り、そこで率直に考えたことをお伝えしようと思いました。その場が、石巻市にある日和山でした。

<日和山>日和山は標高61.3メートルの山ですが、石巻市内を一望できる場所としても知られており、眼下には、漁港、仮面ライダー等で有名な石ノ森章太郎の萬画館、旧北上川の河口から広がる太平洋が見えました。しかし、近年、石巻市の大きな変化を見る場所になっています。

<東日本大震災>2011年3月11日に発生した東日本大震災により、石巻市は大きな被害を受けました。2019年12月4日現在、死者は3,277人 関連死は275人 行方不明は420人に達しています。日和山に置かれていた案内板には、こう書かれています。「門脇、南浜地区は急速に市街化が進み、石巻市立病院、石巻文化センター、そして約3,000件を超える人家が建ち並ぶ街として発展しました。しかし、東日本大震災の大津波はこれらの家々をすべて押し流し、同時に発生した津波火災が街を焼き尽くしました。この地域は、災害危険区域として居住できない地域となりました。」

発災時には、雪が降っている中、多くの市民が日和山に登って津波から避難しましたが、住民は、その場で津波の驚異を目の当たりにすることになりました。

<日和山に登る>1月5日の朝6時、20年近く親しくして頂いている石巻市社協の友人とホテルのフロントで待ち合わせをし、私は日和山を目指しました。まだ暗い朝、2メートルを超える津波に襲われた地域をしばらく歩き、そして日和山の頂きに行くために急な坂を登りました。頂きの公園に着くと、空は段々明るくなってきました。私は、友人に案内され、工事途中の新しい橋、南浜地区復興祈念公園、いくつも建っている復興住宅等、新たな石巻の姿を見ました。十分防寒対策をしていきましたので、たかをくくっていましたが、気温はマイナス2度で、少し風もある。案の定、手袋をしていた手を寒さが突き刺しました。そのぶん、日の出は待ち遠しく、だんだん空が赤くなり、日をさえぎる雲を焼くように、光の断片が見えだし、丁度7時に、日が登りました。とてもきれいな日の出でした。

<日和山から見えるもの>被害にあった地域の多くの時計は、津波が襲ってきた時間を指したまま止まりました。しかし、被災者の人生の時計の針が、今、そして明日に向けて動いていくために、働きかけているたくさんの方々の姿を、私は見続けてきました。

私が日和山の頂きに立って日の出を見ながら、思うことは2つ。

1つは、東日本大震災の被害が、人ごと、他人事とは思えなかったこと。震災が起こるまで一緒に生活していた配偶者、子ども、親、友人を突然なくし、さらに生活してきた地域が面影もなく消え去ってしまう事実に直面して、私はいてもたってもいられなかった。発災当時たくさんのボランティアが来ましたが、その方々には、思わず駆け寄っていく気持、誰かのために役に立ちたいという気持があったと思います。それは、誰もがもっている気持。発災後何年も石巻で働かせて頂き、この気持を大切にしてこられたことに、私は心より感謝しています。

2つ目は、地域生活支援について一緒に考え、挑戦してきた友人、関係者の方々がおられたこと。被災地における自分の無力さを「いやっというほど」知ることにより、思いを同じくする方々と一緒に歩むことの大切さを学びました。石巻での経験と一緒に挑戦してきた友人は、私の財産です。

 聖書に立ち戻ります。口語訳のヘブル人への手紙12:2では、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」と書かれています。説教黙想アレテイア『ヘブライ人への手紙』で、加藤常昭牧師は、「共に走りつつ」というテーマを出され、繰り返し、本聖書の説教者は、相手に「すべきである」というような第2称で話していない。一緒に走ろうと言っている。そこに、「励ましの言葉」としての意味があると言われました。
さらに、聖書には「イエスを仰ぎ見つつ」とも書かれています。イエスは、「恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座する」方です。しかも、イエスは、私たちが歩き始める前に、すでにこの道を歩まれ、今は私たちを見守って下さる。そして私たちが見上げると、イエスがおられる。だから私たちは勇気を与えられ、さらに明日に向かって共に走っていくことができるのです。

 皆さんも、自分にとっての山の頂に立ち、自分を見つめ、さらに周りを見渡して下さい。ルーテル学院を支えて下さった諸先生、諸先輩がおられる。ルーテルのミッションを学んだ卒業生が、困難に直面している方々に希望の光を届けている。それぞれの家庭や地域で安心して生きていく場を築いている。互いに支え合っている家族、友人がいる。教職員、在学生、教会の方々、ルーテル学院と関係のある方々が共に歩んで下さっている。

だからこそ、私は2020年を、思わず駆け寄っていく気持、誰かのために役に立ちたいという気持を勇気にかえて、明日に向かって歩む1年にしたいと考えております。

感謝。
(新共同訳聖書では、「信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びの捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのなったのです」と書かれています)

 石巻市日和山に登る(2020年1月5日)

石巻市

最後の2枚は、一緒に山を登ってくれた友人が撮っていてくれた写真です。

日和山から見える今の石巻市

110周年資料(学院の歩み)

http://kichikawa06-08.sakura.ne.jp/blog/wp-content/uploads/2019/12/a399deb3e509b5bdbc954be27fa4419f.pdf

学院創立110周年・三鷹移転50年記念式典、ホームカミングの感謝

11月30日に開催されました学院創立110周年・三鷹移転50年記念式ホームカミングには、たくさんの方々にご出席頂き、盛会裏に終えることができました。午前の部でも、たくさんの来賓、後援会、教会、関係施設、市民の方々が来られ、礼拝堂の席が埋まり、また第二会場には、約150人の方々が出席下さいました。本当に感謝しております。

同時に、たくさんのうれしいメールを頂いています。「市川先生✨今日はありがとうございました。帰ってこられる場所があるのは本当に嬉しいです。変わらずあたたかく迎えてくださる先生方、同期のみんなや色々な懐かしいお顔に沢山元気をいただきました😊またお会いできる機会を楽しみにしています🎶」等のメールをたくさん頂きました。
 
 また、来賓の方々からも感謝の言葉を頂きました。
 「創立110周年&三鷹移転50年の式典にお招きいただきまして本当にありがとうございました。そして、おめでとうございます! お席も確保していただきまして、お気遣いに感謝いたします。向谷地先生の「共に生きる社会を目指す」という講演会内容は、発想の転換に驚きました。(常にポジティブなところは、凄いです。) 息子が医療関係の仕事をしており、以前「精神病棟に入ると、医師がいくら退院許可を出しても家族が認めない。」と嘆いておりました。「一緒に発見することで、つながりを持てる」との言葉は、響きました。そして、私は松澤理事長先生のお話に、ハッとさせられました。「どんな人間でも、社会と関わり、社会に貢献する能力を持っている。ただ、常にひとつだけ忘れないでおきなさい。見返りを求めて行動する人間ほど愚かな人間はいない、ということをね。」と幼い頃より母にいつも言われ続けました。点字に出会い、沢山の方々に出会ったことに感謝しつつ、「1日生きることは1歩前進することでありたい」という言葉のように、残りの私の人生、更に努力をせねばと反省しました。本当に素敵な式典でした。ありがとうございました。」(点字ボランティア三鷹きつつき会)
 
 学院は、110年にわたり、教会、児童福祉、高齢者福祉、障害者福祉、医療、教育、心理等の多様な分野で、働く人材を育ててきました。卒業生が本学のブランドであり、困難に直面する方々に希望の光を届けてきました。今後も教職員一同、人材を育て、社会に送り出す使命をこれからも遂行していきます。

なお、2020年度より、私は、通算14年間の学長の任を降り、石居基夫新学長体制が始まります。今後とも、皆様方のご支援、ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。

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入場門(礼拝堂を背景に)
100周年記念礼拝
記念講演(向谷地先生)

記念式典(挨拶)