2020年3月13日午後2時より、本学院礼拝堂において、卒業生と専任教員、担当職員、パイプオルガン演奏者と独唱者が出席し、卒業式が執り行われました。保護者の方々や学院関係者の方々にはご遠慮頂き、本当に申し訳なく思っております。写真は、大学のホームページに掲載されています。以下、私のメッセージを掲載いたします。
輝く命
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3:5・6)
皆さんと共に今日の卒業式を執り行うことができますことに心から感謝し、その思いを込めて、お祝いのメッセージを送りたいと思います。
1.聖句の意味
この聖句は、2002年4月、今から18年前の4月の入学式で、学長として初めてメッセージを述べた時の思い出の聖句です。当時、戸惑いと緊張で心は激しく揺れていた時に、この聖句によって勇気を与えられたことを思い出します。
さて、箴言は、いわゆるバビロン捕囚後、すなわち紀元前約600年、新バビロニアによってユダ王国のエルサレムが征服され、ユダ国民がバビロンに連行され、50年間、囚われの身となりました。もっとも過酷で悲観すべき状況にある中で書かれたものです。
また、箴言は「知恵の書」と言われ、「実際の生活の中で、さまざまな問題や困難に遭遇する。これらの課題を巧みに解決・処理し、時と場合に応じて適切に行動する能力」(『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局)について書かれています。なお、この知恵は自分だけで得られるものではありません。さまざまな人と出会い、さまざまな行動や思いを知り、学び、また自らの経験によって得られることを確認したいと思います。
ふりかえって、私たちも、身近に地震、台風等による水害、風害、そしてコロナウイルスの流行等に直面し、不安に覆われた状態にあります。このような時代にあって、私たちは、それらの困難にいかに取り組むか、どのように生きていくのか問われており、今日は、1人の医師の生き方から学びたいと思います。
2.アフガニスタンにおける中村哲医師の働き
その人とは、アフガニスタンの地で、住民のために働いた医師中村哲さんです。アフガニスタンは、日本から西南に約6,000キロメートル離れた所にあり、南と東はパキスタンに、西はイランに接し、面積は日本の1.7倍、中央には、ヒンズークッション山脈がある山の国です。人口は2000万人から2400万人で、気候は乾燥地帯ですが、かつては、全人口の80%を占める農民が自給自足の生活をしていました。しかし、約50年前から内乱が続き、また約20年前に大干ばつがあり、1200万人が危機に直面し、飢餓線上400万人、100万人が餓死線上にあって、イランやパキスタンへの数100万人が難民となりました。
中村医師は、1984年にパキスタン北西部に赴任し、1991年よりアフガニスタンの東部の都市ジャララバードを拠点として、診療所を開設し、医療活動を行いました。99.9%の住民は10円、20円のお金もなく医療を受けられない状況でした。
中村医師は、医療活動を続けながら、子どもたちが日本では治る腸の病気にかかり、「コロリ」と亡くなってしまう現実を知りました。その理由は栄養失調と貧困です。子どもたちは、乾きを潤すために汚い水を飲まざるを得ず、その結果、体を壊す。また水がない故に作物ができず、十分な食べ物がなく、栄養失調状態にありました。そして、長く続く内乱の混乱も合わさって、急激に砂漠地が増加している現実を見て、中村医師は、2000年8月井戸を堀ることを決意しました。さらに、食べ物となり、生活を維持する農作物づくりのための用水路を建設することに挑戦し、聴診器を土を掘り、岩を砕く道具に持ちかえたのです。
2002年以来、1600箇所に井戸をつくり、また用水路建設に取り組み、2017年現在、用水路は27キロに及び、灌漑面積は、3500ヘクタールに及びました。東京ドームは4.7ヘクタールなので、800個分になる計算になります。用水路が延びるたびに緑が生まれ、村ができる。そして15万人が住むコミュニティが作られたのです。しかも、一緒に用水路を作り、知識と経験をもつ住民がそこに住み、用水路を守り、コミュニティを継続していくという、当事者による自立を目指したのでした。それらの事業を、日本で設立されたペシャワール会(注1) が、それらの活動を支援したのでした。
注1.シャワール会は、1983年、パキスタン北西辺境州で貧困層のハンセン病治療をし、79年の旧ソ連侵攻で生じたアフガニスタン難民も治療する中村哲医師の支援組織として結成された。会員数約1万3千人。寄付金により同州やアフガニスタンで複数の病院や診療所を運営している。受診者は延べ100万人を超える。中村医師は2003年、アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞した。
(以上、『天、共に在り〜アフガニスタン三十年の戦い』NHK出版、2013年10月第一版、「京都環境文化学術フォーラム」記念講演より)
3.中村哲医師の生き方から学ぶ
私は、中村哲医師の生き方に敬意を表しつつも、同じような生き方ができない。しかし、だからこそ、中村医師の生き方から学びたいのです。福岡市の西南学院中学に進学し、キリスト教と出会った後の生き方から、生き方の本質を引き継ぎたいのです。
<出会いを大切にしてきた生き方>
中学時代からの友人、福地庸吉さん(73)が中村医師に現地に赴任した理由を尋ねると、かつて蝶を調査する登山隊の一員として行った時に診察できなかった村人たちの「恨めしそうな顔が頭から離れんかったとよ」と答えたと言われたとのこと。また、中村医師は言います。「様々な人や出来事との出会い、そしてそれに自分がどう答えるかで、行く末が定められていきます。私たち個人の小さな出来事も、時と場所を越え縦横無尽、有機的に結ばれていきます。そして、そこに、人の意思を超えた神聖なものを感じざるを得ません。この広大な縁の世界で、誰であっても無意味なものはない。私たちに分からないだけです。この事実が知ってほしいことの一つです。現地30年の歴史を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人の真心は、信頼に足るということです。」その言葉から、出会いを大切にしてこられた中村医師の生き方を学びます。
<「一隅(ぐう)を照らす」>
中村医師は、たびたび「一隅(ぐう)を照らす」と言われます。一隅とは、ひとすみと書きます。今いる場所で希望の灯(ひ)を灯すこと。それは、0か100ではない。その間には、1から99の生き方がある。さらに、アフガニスタンの国全体から見ると、限定的な活動だが、自分がいる場所で生きていくことが一隅を照らすことであり、そこに意味がある。また援助にはブームがあり、ブームが終わると多くの援助が引き上げられるが、中村医師は、現地に残り続けた。だから、経験の通して、現在のアフガニスタンでの戦争が、決して平和を生み出さないこと、憎しみは生まれるが、信頼は生まれないことを説得力をもって言い続けることができたのです。
2019年12月4日、中村医師は、銃撃され、亡くなられました。私は、中村医師が生涯を通し証明したその思いを、忘れないようにしていきます。
4.卒業生に贈る言葉
君たちはそれぞれに生きてきた。そしてここにいる。また、君たちとともに、ご親族、友人、教職員は、一緒に歩んできた。今までのことで、無駄なことは何もない。そのことに気がついてほしい。そして、今までの経験を無駄にするかしないかは、これからの君たちの考え方、生き方による。そのことを忘れないでほしい。
そして今、君たちは、旅立とうとしている。不安もある。恐れて歩みを止めることもあるかもしれない。しかし、私は、漠然と不安を抱くのではなく、今を大切にして、生きていってほしいと伝えたい。いろいろ困難に直面した時に、決して一人ではなかったことを思い出してほしい。
これからの君たちの歩みのその一歩一歩が、「輝く命」そのものである。そして、君たちの思いと共に、共に歩んでくれた方々の思いが、君たちを通して輝いているのです。そのことを忘れないで頂きたい。
だから、今日は、君たちに、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」という聖句を贈ります。
卒業、おめでとう。これからもよろしく。
資料1.歩み
1984 パキスタン北西部に赴任
1991 アフガニスタンに診療所を開設ペシャワルの病院に訪れる患者の半数は、戦乱を逃れてきた隣国アフガニスタンの難民だった。アフガニスタン山間部の無医地区の苦境を知り、国境の峠を越えて診療所を開設。その後も活動地域を広げ、最も多い時期は両国の11カ所で診療所を運営した。
2000 干ばつを受け井戸を掘る アフガニスタンで大干ばつが発生。農地の砂漠化が進み、住民たちが次々と村を捨てた。飢えと渇きの犠牲者の多くは子どもたち。「もはや病の治療どころではない」。かんがい事業を決意し、井戸掘りを始める。2016年までに井戸は1,600カ所となった。
2003 用水路建設に着手 井戸掘りを進める中で直面したのが、地下水の枯渇。水不足で小麦が作れない住民たちは現金収入を得るため、乾燥に強く、ヘロインやアヘンの原料となるケシの栽培を広げていた。「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」。地下水に頼るかんがいの限界を知り、用水路の建設を始めた。
資料2.
『天、共に在り〜アフガニスタン三十年の戦い』NHK出版、2013年10月第一版、「砂漠の啓示」より
「砂漠は美しく静かだ。日中の気温は50度に迫り、強烈な陽光があらゆる生命の営みを封じる。人為を寄せつけぬ厳しさに、人はただ伏して恵みを乞う。ガンベリ砂漠の凛(りん)とした表情は変わらない。 だが緑の防砂林を境に情景は一変する。幅300メートルほどの樹林帯が延々5キロ、砂漠と人里をくっきりと分けている。高さ十数メートルに成長した紅柳の薄暗い森を抜けると、1本の水路が流れている。両岸のヤナギ並木が目を和ませ、小鳥のさえずりが聞こえる。水路沿いに数万本の果樹の園、スイカ、野菜、米や小麦を豊富に産する田園地帯があり、今も開拓は営々と進む。6年前に建設された用水路は確実に威力を広げている。 当時は粗末な小屋で、熱風と砂嵐の中、食事に混じる砂粒を噛(か)みながら指揮を執った。数百人の作業員たちは倒れても決して仕事の手を休めなかった。三度の食事を家族に与え、故郷で暮らすこと。それが彼らの願いであった。 その司令塔は今、広々とした記念公園の中に記念塔として立つ。塔の上から眺めると、砂漠に向かって押し寄せる一面の樹林の緑が圧倒的だ。恵みは人の思いを超えて、備えられてあることを訴える。奇跡ではない。一つの神聖な啓示だ、と皆は確信を深める。 砂漠の一角で得たこの光景は、誰の心にも鮮やかに刻まれている。わが職員、作業員は隣接地域で次々と取水堰(ぜき)の建設に取り組み、アフガン東部に穀倉地帯の復活をと意気軒高である。多くの場所で取水堰を造り、「緑の大地計画」は15年目にして完成を目前にした。2020年までにPMS(平和医療団)は1万6500ヘクタールの沃野(よくや)をよみがえらせ、65万農民の生きる空間を確保しようとしている。 PMSでは来る5年を準備期間とし、全国展開を目指している。アフガンでは全耕地770万ヘクタールのうち灌漑(かんがい)地域は200万ヘクタール前後。減少の一途という。 気候変動による干ばつは、ようやく為政者に危機感を与え始めている。全部を救えないにしても、PMSが確立した取水技術は多くの地域で恩恵をもたらすと期待され、全国展開の機運が高まっている。現在、「大同団結」をあらゆる勢力に呼び掛け、調査と準備が進められている。 殺りくで糧を得ることなど誰も好まない。故郷で耕して生きるのが一番だ。戦乱の中で生きざるを得ない人々は、PMSの灌漑事業に平和への望みをかける。その祈りは切実である。 この事情は日本に伝わりにくい。戦の背後にある現実が知られず、貧しい人々の犠牲に実感が持てないこともあろう。 折から報ぜられる安保法制議論は、悲しいものだ。進んで破壊の戦列に加わり、人命を奪ってまで得る富は、もうよい。理屈で固めた「平和」は血のにおいがする。富と平和はしばしば両立しない。日本国民はいずれを選ぶか。」
投稿日 20年03月16日[月] 3:13 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,大学関連,社会福祉関連
2019年12月、卒業生、行政、区社会福祉協議会、講師が協力して編集した『歩み』が刊行されました。私は、地域福祉パワーアップカレッジねりまの学長を12年させて頂いたこともあり、序文を書く機会が与えられました。
明日の地域を描く
今、地域において、様々な課題が顕在化し、それを生み出す地域自体をどのように変えていくのかという問いが出されています。地域福祉パワーアップカレッジねりま(以下、「パワカレ」という)は、自主的に地域福祉を学んだ方々が、それぞれの生活の場でカレッジの学びを実践できるように支援することを目的として、創設されました。
ふりかえって、2005(平成17)年、志村豊志郎前区長の強いお気持ちもあり、練馬区の幹部の方々がルーテル学院大学に来られ、私は、学長室で、地域福祉を担う人材の育成などを目指した学びの場を創設したいとの相談を受けました。迷いましたが職員の方々の熱意に心を動かされ、検討の責任者をお引き受けしました。検討会では、区民、行政、社協、NPO等が、テーマごとに複数のテーブルを囲み、ワークショップを行い、受講生の意思やお考えを尊重した、柔軟で将来の練馬区の地域を描く学びの場について何度も話し合いがなされました。そして区独立60周年を記念し、平成19年10月にパワカレが開設されたのでした。そして、現在の前川燿男区長も積極的に応援して下さいました。
カリキュラムの主要な方針は、地域福祉の基礎学習、地域探索と実践の見学等による実践重視、発表等の自己研鑽で構成され、一年目は基礎知識を、そして徐々に実践的理論と方法を学ぶ機会を取り入れていきました。運営に関しては、受講生の意思やお考え、取り組みを尊重しながら、行政、社協が協力してパワカレの運営を支えました。また、カレッジ祭は、パワカレにとって、学んだことを地域の方々にお示しする機会であり、私は、地域福祉を高める役割を担ってきていたと思っています。しかし、1回目から今回の12回目のカレッジ祭を通して、在学生の方々は大変苦労をなさってこられたことは、承知しています。
また、パワカレは地域そのものです。今までの生活や価値観が異なる住民が、話し合い、啓発し合い、そして助け合って2年間の学びをなさって卒業していかれた。また、様々な理由でお辞めになった方々もおられますが、私は、すべての方が、出会った大切な方々であると考えています。パワカレで学んだ方々の出会いが、パワカレの歴史を創り上げてきました。
今一度、パワカレを振り返り、その特徴を5つ述べさせて頂きます。
第1の特徴は、パワカレで学ばれたそれぞれの方々が、 地域の課題と様々な取り組みを学び⇒自らの立ち位置と、課題そして可能性に気付き⇒自らが今までとは変わり⇒自分の周りを変えていくというプロセスをたどっておられると私が感じることは度々ありました。同期の方々が助け合い、励まし合い、支え合い、時には意見や考え方の違いに失望し、また新たな関係を築いていく過程を通し、これからの自分の生き方を模索していった方々に、私は感動を覚えました。
第2の特徴は0か100ではない学びと実践です。0か100とは、実行するか、しないかという意味で使われます。しかし、パワカレは、その間にある1から99、そして100を目指していたと考えています。パワカレで学んだ方々は、様々な地域福祉活動をなさっておられます。また、一人の住民として、日々地域で暮らしながら、困難に直面する方々や地域福祉実践の理解者でおられる方々もいます。また行政や社協、民間団体の委員会のメンバー、役員の方々もおられます。それらの意味で、パワカレは、地域に根ざし、広がった草の根活動を生み出しています。パワカレのブランドは学ばれた方々です。
第3の特徴は、耐えず挑戦であったこと。今、地域では、様々な生活問題が生じています。2025年問題、8050問題、孤立死、児童虐待、自殺等の問題は、日本社会全体で生じています。たくさんの方々がそれらの問題の発生を防ぎ、問題の解決に取り組んでいますが、いまだ絶対的な解決策を見いだしていない。福祉政策も明らかに地域福祉を制度に組み込んでいますが、従来の家族、地域、職場が果たしてきた扶助機能は想像していた以上に弱まり、深刻な問題が顕在化してきています。だからこそ、アフリカで砂漠の緑化に取り組んでいたNPOのリーダーが言われていたように、「一本の木を植えなければ、砂漠の緑化は始まらない」のではないでしょうか。私は、パワカレが、卒業生の方々に、これからの自分を考えるさまざまな挑戦の機会を提供してきたと信じています。
第4の特徴は、自主的な同窓会活動です。2010(平成22)年に同窓会準備会が発足し、2011(平成23)年に同窓会が発足しました。その後、パワカレ生・同窓生・練馬区内の福祉団体等による会員制SNSパワカレネットワークシステムであるキャンディハートの運営が開始されました。練馬つながるフェスタ等の様々な行事への参加、パワカレ授業への協力等、練馬に根ざしたネットワークとしての役割を担っています。
そして第5の特徴は、一人ひとりの思いが輝いていること。パワカレの歴史をまとめ、後継に手渡しすることが私の最後の使命と思っていました。あまり長く学長を務めると、パワカレの運営がマンネリ化しますし、良くないと思いました。ただ、パワカレの変革期にあって、今までの卒業生の思い、活動実績を散失してしまうことは本当に残念です。一緒にパワカレの運営を考え、それぞれが支えあって築いてきたパワカレの足跡は、練馬区の財産であり、地域福祉活動そのものであると思います。今回歩みへの投稿をお願いした10期までの入学者は380名、卒業生は295名を数えます。様々な理由で途中でパワカレをお辞めになった方もおられます。
また、講師、区民、行政、社会福祉協議会、関係諸機関・団体の方々も一緒にこれからの練馬の地域福祉を考え、パワカレの運営に携わって下さいました。各期の特徴を大切にした練馬区の担当者は、創設の際に担当なさった北原さん、安定した運営の礎を築いた三枝さん、地域福祉の新たな展開に応じてパワカレを発展させたの稲永さん、社会の多様なニーズに応じた運営のためにパワカレの模索期を支えた横山さん、そして橋本さん等です。受講生への丁寧なお働きに心より感謝しています。また、練馬区社会福祉協議会の担当者による受講生の学習支援、活動支援は、受講生の可能性を広げ、地域福祉の担い手を養成するパワカレの土台を築いて下さいました。もちろん、講師の中島先生、西田先生、照井先生、正田先生のお働きなくして、パワカレは運営できなかったと思っています。
私の呼びかけに応じ、卒業生の方々が、パワカレの歩みの編纂に携わって下さいました。特に、編集代表として、1期岡本敬子さん、2期松村光典さん、3期須藤朔宏さん、4期高原進さん、5期小原あき子さん、6期二葉幸三さん、7期宮本幸一さん、8期清水明朗さん、9期橋本欣郎さん、10期渡部みさ子さんが、編集に携わり、自主的・主体的に本の内容を創り上げて下さいました。また、140名を超える卒業生が原稿を寄せて下さいました。編集委員の問いかけに応じ、原稿を書かれませんでしたが、本の出版を応援して下さった方々も何人もおられました。本当に感謝しています。なお、1期の編集をバックアップして下さった萬澤宏さんが、急逝されたことを本当に悲しく思います。ご冥福をお祈りいたします。
今もパワカレで学ばれたたくさんの方々の顔が浮かびます。授業だけでなく、カレッジ祭、懇親会、学外活動等で受講生の方々が一緒に悩み、考え、実行してきたいくつもの思い出が浮かび上がります。これは、私自身にとっても、かけがえのない経験ですし、これらの経験を共にしたパワカレ卒業生が、それぞれの場で、それぞれのやり方で、明日の地域を描いて下さると思います。もし卒業生の方々のお許しを頂けましたら、私は、このご縁をこれからも大切にしていきたいと考えています。2019年9月
私にとって、貴重な体験であり大切な思い出です。
投稿日 20年01月19日[日] 2:43 PM | カテゴリー: カテゴリ無し
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(口語訳聖書:ヘブル人への手紙12:2)
<はじまり>ルーテル学院大学のチャプレンに、年頭礼拝のメッセージの依頼を受けたその時から、私は何を述べることができるのか迷いました。そこで、私の生きていく原点の一つである場に立ち、今までを振り返り、そこで率直に考えたことをお伝えしようと思いました。その場が、石巻市にある日和山でした。
<日和山>日和山は標高61.3メートルの山ですが、石巻市内を一望できる場所としても知られており、眼下には、漁港、仮面ライダー等で有名な石ノ森章太郎の萬画館、旧北上川の河口から広がる太平洋が見えました。しかし、近年、石巻市の大きな変化を見る場所になっています。
<東日本大震災>2011年3月11日に発生した東日本大震災により、石巻市は大きな被害を受けました。2019年12月4日現在、死者は3,277人 関連死は275人 行方不明は420人に達しています。日和山に置かれていた案内板には、こう書かれています。「門脇、南浜地区は急速に市街化が進み、石巻市立病院、石巻文化センター、そして約3,000件を超える人家が建ち並ぶ街として発展しました。しかし、東日本大震災の大津波はこれらの家々をすべて押し流し、同時に発生した津波火災が街を焼き尽くしました。この地域は、災害危険区域として居住できない地域となりました。」
発災時には、雪が降っている中、多くの市民が日和山に登って津波から避難しましたが、住民は、その場で津波の驚異を目の当たりにすることになりました。
<日和山に登る>1月5日の朝6時、20年近く親しくして頂いている石巻市社協の友人とホテルのフロントで待ち合わせをし、私は日和山を目指しました。まだ暗い朝、2メートルを超える津波に襲われた地域をしばらく歩き、そして日和山の頂きに行くために急な坂を登りました。頂きの公園に着くと、空は段々明るくなってきました。私は、友人に案内され、工事途中の新しい橋、南浜地区復興祈念公園、いくつも建っている復興住宅等、新たな石巻の姿を見ました。十分防寒対策をしていきましたので、たかをくくっていましたが、気温はマイナス2度で、少し風もある。案の定、手袋をしていた手を寒さが突き刺しました。そのぶん、日の出は待ち遠しく、だんだん空が赤くなり、日をさえぎる雲を焼くように、光の断片が見えだし、丁度7時に、日が登りました。とてもきれいな日の出でした。
<日和山から見えるもの>被害にあった地域の多くの時計は、津波が襲ってきた時間を指したまま止まりました。しかし、被災者の人生の時計の針が、今、そして明日に向けて動いていくために、働きかけているたくさんの方々の姿を、私は見続けてきました。
私が日和山の頂きに立って日の出を見ながら、思うことは2つ。
1つは、東日本大震災の被害が、人ごと、他人事とは思えなかったこと。震災が起こるまで一緒に生活していた配偶者、子ども、親、友人を突然なくし、さらに生活してきた地域が面影もなく消え去ってしまう事実に直面して、私はいてもたってもいられなかった。発災当時たくさんのボランティアが来ましたが、その方々には、思わず駆け寄っていく気持、誰かのために役に立ちたいという気持があったと思います。それは、誰もがもっている気持。発災後何年も石巻で働かせて頂き、この気持を大切にしてこられたことに、私は心より感謝しています。
2つ目は、地域生活支援について一緒に考え、挑戦してきた友人、関係者の方々がおられたこと。被災地における自分の無力さを「いやっというほど」知ることにより、思いを同じくする方々と一緒に歩むことの大切さを学びました。石巻での経験と一緒に挑戦してきた友人は、私の財産です。
聖書に立ち戻ります。口語訳のヘブル人への手紙12:2では、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」と書かれています。説教黙想アレテイア『ヘブライ人への手紙』で、加藤常昭牧師は、「共に走りつつ」というテーマを出され、繰り返し、本聖書の説教者は、相手に「すべきである」というような第2称で話していない。一緒に走ろうと言っている。そこに、「励ましの言葉」としての意味があると言われました。
さらに、聖書には「イエスを仰ぎ見つつ」とも書かれています。イエスは、「恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座する」方です。しかも、イエスは、私たちが歩き始める前に、すでにこの道を歩まれ、今は私たちを見守って下さる。そして私たちが見上げると、イエスがおられる。だから私たちは勇気を与えられ、さらに明日に向かって共に走っていくことができるのです。
皆さんも、自分にとっての山の頂に立ち、自分を見つめ、さらに周りを見渡して下さい。ルーテル学院を支えて下さった諸先生、諸先輩がおられる。ルーテルのミッションを学んだ卒業生が、困難に直面している方々に希望の光を届けている。それぞれの家庭や地域で安心して生きていく場を築いている。互いに支え合っている家族、友人がいる。教職員、在学生、教会の方々、ルーテル学院と関係のある方々が共に歩んで下さっている。
だからこそ、私は2020年を、思わず駆け寄っていく気持、誰かのために役に立ちたいという気持を勇気にかえて、明日に向かって歩む1年にしたいと考えております。
感謝。
(新共同訳聖書では、「信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びの捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのなったのです」と書かれています)
石巻市日和山に登る(2020年1月5日)
石巻市
最後の2枚は、一緒に山を登ってくれた友人が撮っていてくれた写真です。
日和山から見える今の石巻市
投稿日 20年01月10日[金] 2:55 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,出会い,大学関連,思い出記
阿部志郎先生が、第28回石井十次賞を受賞されました。それを記念する講演会・お祝い会が12月初旬に開催されました。2020年に94歳を迎えられる先生が、ひたすら福祉の原点を示し、さらに追い求め続けられる生き方を目にし、参加者にとって、励まされる時でした。今までも、今も、そしてこれからも、阿部先生の後ろ姿を見ながら歩んでいくことができることに、私は心より感謝しています。

式典の資料はこちらをクリックしてください
投稿日 19年12月15日[日] 12:32 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,社会福祉関連
11月30日に開催されました学院創立110周年・三鷹移転50年記念式ホームカミングには、たくさんの方々にご出席頂き、盛会裏に終えることができました。午前の部でも、たくさんの来賓、後援会、教会、関係施設、市民の方々が来られ、礼拝堂の席が埋まり、また第二会場には、約150人の方々が出席下さいました。本当に感謝しております。
同時に、たくさんのうれしいメールを頂いています。「市川先生✨今日はありがとうございました。帰ってこられる場所があるのは本当に嬉しいです。変わらずあたたかく迎えてくださる先生方、同期のみんなや色々な懐かしいお顔に沢山元気をいただきました😊またお会いできる機会を楽しみにしています🎶」等のメールをたくさん頂きました。
また、来賓の方々からも感謝の言葉を頂きました。
「創立110周年&三鷹移転50年の式典にお招きいただきまして本当にありがとうございました。そして、おめでとうございます! お席も確保していただきまして、お気遣いに感謝いたします。向谷地先生の「共に生きる社会を目指す」という講演会内容は、発想の転換に驚きました。(常にポジティブなところは、凄いです。) 息子が医療関係の仕事をしており、以前「精神病棟に入ると、医師がいくら退院許可を出しても家族が認めない。」と嘆いておりました。「一緒に発見することで、つながりを持てる」との言葉は、響きました。そして、私は松澤理事長先生のお話に、ハッとさせられました。「どんな人間でも、社会と関わり、社会に貢献する能力を持っている。ただ、常にひとつだけ忘れないでおきなさい。見返りを求めて行動する人間ほど愚かな人間はいない、ということをね。」と幼い頃より母にいつも言われ続けました。点字に出会い、沢山の方々に出会ったことに感謝しつつ、「1日生きることは1歩前進することでありたい」という言葉のように、残りの私の人生、更に努力をせねばと反省しました。本当に素敵な式典でした。ありがとうございました。」(点字ボランティア三鷹きつつき会)
学院は、110年にわたり、教会、児童福祉、高齢者福祉、障害者福祉、医療、教育、心理等の多様な分野で、働く人材を育ててきました。卒業生が本学のブランドであり、困難に直面する方々に希望の光を届けてきました。今後も教職員一同、人材を育て、社会に送り出す使命をこれからも遂行していきます。
なお、2020年度より、私は、通算14年間の学長の任を降り、石居基夫新学長体制が始まります。今後とも、皆様方のご支援、ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。
https://www.dropbox.com/s/9345lcs6ft7p27m/110%E5%91%A8%E5%B9%B4%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%98%A0%E5%83%8F%EF%BC%88mp4%E5%A4%89%E6%8F%9B%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%B8%88%EF%BC%89.mp4?dl=0
入場門(礼拝堂を背景に)
100周年記念礼拝
記念講演(向谷地先生)
記念式典(挨拶)
投稿日 19年12月09日[月] 2:51 PM | カテゴリー: 大学関連
卒業生の皆さん、
ご無沙汰しています。
さて、11月30日(土)には、ルーテル学院の創立110周年記念礼拝と、精神障害の方々の自立に取り組んでいる北海道「浦河べてるの家」の向谷地生良先生の講演会、そして午後には、恒例のホームカミングパーティが予定されています。退任された教職員の方々も来られます。
創立記念式典を含め一人でも多くの卒業生の方々に来て頂きたいし、お会いし、学生時代の思い出を分かち合いたいと思っています。なかには、この機会に同期会を行う方々もおられます。私たち教職員にとっても、卒業生同士の絆があることは、とてもうれしいことです。
皆さんには、是非ともご出席頂きたいですし、同期を含め、学友の方々にも呼びかけて頂き、110周年の記念の日をたくさんの方々と一緒に祝いたいと願っています。詳細は大学のHPもご覧ください。
なお、出欠人数の把握をしたいので、以下のURLから参加可否の登録して頂けませんか。
https://www.luther.ac.jp/inquiry/homecoming.html
どうぞ、よろしくお願いします。
2019年年11月 ルーテル学院大学学長 市川一宏
投稿日 19年11月03日[日] 10:40 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,大学関連
11月17日に、縁の会の講演会があります。縁の会は、高齢者福祉に関わる者たちの自主グループで、参加者が情報交換をしながら、お互いに支えあい、励まし合い、新たな気持で高齢の方々のケアにあたることができる機会を提供したいと思い、年に一回、会を開催しています。今、高齢者福祉の現場は、非常に多忙で、多くの職員は疲弊していると考えています。だからこそ、仕事についた原点に戻り、またリフレッシュできる機会が大切だと思っています。どうぞご参加下さい。
投稿日 19年10月12日[土] 7:55 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,社会福祉関連
社会福祉大会を終え、参加して下さった方々との出会いに感謝し、空港で飛行機を待ちました。その時、綺麗な夕陽を見ていたら、飛び立つ飛行機を見て、思わずシャッターを押しました。思い出の写真です。
投稿日 19年10月10日[木] 7:51 PM | カテゴリー: 出会い
10数年ぶりに沖縄県社会福祉大会の記念講演「県民一人ひとりが作る地域共生社会について」をお引き受けしました。今回は、西原町を訪問し、住民の方々が主体となって地域の絆を築いていく取り組みに感銘を覚えました。また、沖縄の地域福祉活動に関していろいろお聞きし、沖縄県民の心に流れる「ちむぐくる」という思想に出会いました。
岩手県では、「イーハトーブ」という思想が良く取り上げられています。これは宮沢賢治が目指した理想郷を意味していると言われています。「アメニモマケズ カゼニモマケズ ユキニモ ナツノアツサミモマケズ ・・・・イツモシズカニワラッテイキル」というメッセージから、どんな苦難に直面しても、人生を生き抜いていく一人の人間の姿が浮かんできます。
また、私は徳島県におけるボランティアの広がりを目指したさまざまな取り組みに関わってきました。たくさんの市町村社協の友人たちとたくさんのことに挑戦して、たくさんの思い出があり、今でもそれらを大切にしています。そこでの経験を通して、お遍路さんに対する住民の「おもてなし」の伝統は、隣人に対する思いやりに通じていました。「ちむぐくる」とは、思いやり、優しさ、人に気遣いを言い、一人ひとりの心に宿っていると実感しました。感謝です。

投稿日 7:45 PM | カテゴリー: 共助社会づくり,社会福祉関連
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