東日本大震災被災地支援から能登半島被災地支援

東日本大震災被災地支援から学ぶ能登半島被災地支援

2024年1月1日、16時10分、石川県能登半島で起こった地震は、マグニチュード7.6に達し、以降連続して地震が頻発し、能登半島、特に北部の奥能登の被害は甚大でした。地盤の液晶化や地震による家の崩壊、津波、地盤隆起、また一部地域における大規模な火災の影響は大きく、全国から被災地を応援する取り組みは広がっています。しかし、道路や水、ガス等のインフラの被害により、特に過疎地帯の被害の現状が分からず、私は、たくさんの方々から情報を提供して頂き、皆さんに提供させて頂きました。その状況は今も多くの地域で継続しており、道路や水道の普及というインフラ自体の問題が解決しておらず、ボランティアによる支援自体にも、困難な状況にあります。

そこで、私が関わらせて頂いた東日本大震災被災地支援を振り返りながら、私の意見をまとめていきたいと思います。

Ⅰ)2023年における福島県社会福祉大会、石巻ブロック民生委員児童委員大会を通して、学んだこと。

福島県社会福祉大会

 11月17日(金曜日)、福島市のパルセ飯坂において、福島県社会福祉大会が開催され、私は、「地域共生社会づくり」をテーマに講演させて頂きました。前日、30年近くの旧友である県社協の友人と一緒に食事をしました。友人とは、社協の管理職研修、社会福祉法人の生涯学習研修、ボランティア・コーディネーター研修等々を企画し、実施してきましたので、私にとって福島県の地域福祉、社会福祉の原点をふりかえった学びの時であり、今までの活動の意味と反省点をふりかえる確認の時を持つことができました。

なお、2011年3月11日の東日本大震災の影響は、今も残っています。改めて、講演をさせて頂き、私が学んだことを述べさせて頂きます。

災害は、被災地だけの問題ではない。

現在も、たくさんの福島県民が、県外で生活しておられます。2011年当初、<「仮の生活」「仮の人生」はない。「被災者なんだから」という考えは、「高齢者なんだから」「障がい者なんだから」という考え方に通じる。>と、2011年の発災後に訪問した東北厚生局の対策責任者であった藤木則夫さんよりお聞きしました。私は、藤木さんの発言と行動力に強い共感を覚えたことを思い出します。

 福島県社会福祉大会講演

私は、原発事故の結果、計り知れない被害を受けている福島県において、どのような講演ができるか、正直迷いました。でも、私自身の問題認識にこそ、問題があると思いました。多くの住民の方々は、どのような地域をつくろうか、実際に行動を起こしておられる。そして、希望を捨てておられない、その事実に敬意を表し、それをバックアップできるよう、精一杯自分の経験と知識を用いて、地域福祉活動の今日的意義をお伝えしました。

最後の拍手の大きさ、力強さ、そしてお帰りになる際の皆さんの反応を見る限り、参加した多くの方々のご期待を裏切らなかったと思いました。毎回チャレンジですが、私の講演を通して、住民活動が活発になるならば、それは私の本望です。

以下、会津若松市社協のホームページに書いて頂いた大会の報告をお示しします。

「11月17日(金)、第77回福島県社会福祉大会が福島市のパルセ飯坂で行われ、本会会長、理事・監事10名、受賞者5名、事務局2名の合計17名で参加しました。授賞式の前にはルーテル学院大学名誉教授である市川一宏氏による記念講演が行われました。

「地域共生社会づくりに向けて」と題して、さまざまな事例や体験談を紹介しながらユーモアたっぷりにお話され、参加された皆さんは熱心に聞いていました。

授賞式では、傾聴ボランティアの鳥塚冴子氏が福島県社会福祉協議会会長表彰の代表受賞を務められました。また、一箕小学校の生徒さんが赤い羽根共同募金運動のスローガンを発表するなど、会津若松市の方が大変活躍されていました。」

石巻ブロック民生児童委員連絡協議会(石巻市・女川市・東松島町)講演

2023年11月15日、石巻市民生委員児童委員協議会会長の蟻坂さんのご依頼を受け、講演をさせて頂きました。内容は、新聞に書かれている通りです。

私と石巻市社協との関わりは長く、深く、地域福祉活動計画の作成、実施、ボランティアセンターの立ち上げ、社協の組織強化のための研修等々の取り組みは、私の研究、実践の基礎を作ったという意味で、私にとって貴重な体験でした。親友の渋谷秀樹さん、遠藤正之さん、門間ひとみさん、千葉和宏さん、阿部由紀さん、峯田貴博さん、髙橋了さん、内海信康さん、小松龍哉さん等と議論を重ね第2次地域福祉活動計画を策定しました。またその後も伊藤勝弘さん、工藤雅弘さん、そして大槻英夫会長にはお世話になりました。石巻市社協の方々から学んだことは、40年間勤めたルーテル学院大学の最終年に『研究の足跡』としてまとめてあります。どうぞご覧下さい。

https://www.dropbox.com/scl/fi/edm0g40nhpqhudpuivrml/.pdf?rlkey=xmpnmuh69x95588vn4h9wn6jc&dl=0

支援から協働へ

今回、石巻を訪問し、復興住宅での孤立の問題が深刻化してること、防波堤や、居住地域の底上げ、環境整備を進めてきた地域での人口減少が顕著になっていること等の課題をお聞きしました。昨年作成された第4次地域福祉活動計画では、「本市では、今後も人口減少が続く一方で、高齢化率の進行とともに、単身高齢者数についても増加 すると見込まれます。市民アンケートからは、地域の希薄化が進んでいることがうかがえ、更には、コロナ禍によって、地域の交流が図りにくくなっており、社会的孤立やひきこもりとなる市民の増加が危惧されます。また、近年では地域における課題が複雑化・複合化し、従来の「縦割り」による制度では解決が難しい状況となっており、市民、地域、関係機関、市(関 係各課)の連携がこれまで以上に必要となっています。」と課題が明記されています。

私は、2011年から被災地を訪問し、その間、以下のことを感じ、学びました。「まだ瓦礫が片付かず、生活の拠点を失った方々の生活の場が築かれていない現実、支援が遅れている現状をつぶさに見てきました。また、徐々に支援団体が撤退していく現実に、寂しさを感じました。しかし、自分たちで、コミュニティを再建しようとする動きが確実に生まれており、この地道な歩みと足を揃えることが、今、本当に求められていると思いました。復旧に3年、復興にさらに3年と言われていますが、その過程で明日を目指して、被災地で生まれた「希望の光」と共に歩みたいと強く思いました。そして、日本全国で、今回の死亡者、行方不明者の数を超える人たちが、自殺、孤立死している現状に、少しでも挑戦したいと思っています。すなわち、被災地支援を通して、今、日本社会が求めている「希望」と「絆」を再生していくこと。今は、それぞれの場で、互いに支えあい、生きていくことが大切な時期になっています。私は、その基盤を築き、若者たちが、希望を持って生きていくことができる社会づくりに努力したいと再度思いました。」

この文章は、石巻市に来て、2013年に石巻市地域福祉活動計画の作成にアドバイザーとして関わり、その後、ボランティアセンターのアドバイザーであった2015年頃に書いたものです。私は、2020年3月に社協と行政の地域福祉アドバイザーを終えましたが、その時までずっともっていた私のモットーでもあります。

そして今、私は思っています。石巻が直面する生活課題は、日本全国で課題となっていることで、東京においても顕在化しています。ならば、互いに地域づくりを学んでいく。そして過酷な震災の被害に直面した石巻から、復旧、復興の歩み、すなわち地域づくりの歩みを学んでいくことが必要と私は考えています。

Ⅱ)東日本大震災から、学んでいること

地域づくりの原点を学ぶ

被災間近の混乱をふりかえる

発災後すぐに石巻を訪問しましたが、たくさんの家が津波にさらわれ、その跡の町の姿は、衝撃でした。またビッグバン等の緊急避難所を訪問して、そこで不自由な生活をしている方々を知り、心を痛めてきました。発災当初の被災地は、私自身の日常生活とは違い、支援に取り組みながら、心は絶えず興奮状態にあり、東京に戻ってクールダウンをする必要があったことを思い出します。当時をふりかえり、私が学んだことを整理したいと思います。

①行政、社協、社会福祉法人も被災していること。多数の石巻市職員が亡くなられました。社協は10名近くの職員や家族が亡くなられていました。行政として、社協として、十分な役割を担えない現状を支援することが重要となり、社協に関しては、全国から社協職員が応援に駆けつけていました。

なお、被災者の生活を支援するために緊急の生活福祉資金が始められ、たくさんの申請者が社協の窓口に殺到し、それに対応する現地の社協職員をサポートするために、応援に入った多くの社協職員が関わることになり、被災者の地域支援まで手が回らなくなりました。また地域支援に関わった派遣社協職員は、被災している社協、住民を励ましたが、本当に支えたのか、自分たちの今までのやり方を押しつけたのではないか、評価と課題があったことは明記したいと思います。

②伝わらない情報、手段がなく伝えられない情報→「広島の中学生」

ITmediaニュース 2012年03月06日 10時37分 更新 震災直後、NHKニュースを無断でネットに流した広島県の男子中学生(15)産経新聞

 3月11日の東日本大震災発生直後、大津波警報が赤く点滅するNHKのニュース画面を見ながら、広島県に住む中学2年の男子生徒=当時(14)=は「この画面をネットに流したら、助かる人がいるんじゃないか」と考えた。

 その瞬間、脳裏を懸念と不安が駆け巡った。「相手はNHK、あとでどうなるか」。手持ちのiPhone(アイフォーン、高機能携帯電話)を使って動画投稿サイト「ユーストリーム」で配信した経験もほとんどなかった。しかし、母親が阪神大震災の被災者だったことが、少年の背中を押した。「今、東北には自分よりも不安を抱えている人がものすごい数いるんだ。自分がやらなければ」

 配信を始めたのは、最初の大きな揺れから17分後の午後3時3分。ミニブログのツイッターを介し、「ユーストリームで地震のニュースを見られる」という情報は、またたく間にネットを駆け巡った。

 配信に気付いたユーストリーム・アジアの担当者は迷った。明らかにNHKの著作権を侵害した「違法配信」だ。普通は直ちに停止する。だが、停電などでテレビを見られぬ人には貴重な情報源ではないか。この状況を出張先の米国で知らされたユ社の中川具隆(ともたか)社長(55)は、午後4時ごろには、「われわれの判断で停止するのはやめておこう」と指示する。NHKの要請があった場合のみ停止する。中川氏は現場にそう伝えた。ツイッター上ではNHKの対応にも注目が集まっていた。NHKの番組宣伝を行う公式アカウント「NHK−PR」は、顔文字やユーモアを交えた「つぶやき」でツイッターの世界では有名人である。そのNHK−PRが午後5時20分、少年の無断配信のアドレスを、自分のつぶやきを読んでいるフォロワーに紹介した。そして、こう書いた。「私の独断なので、あとで責任は取ります」

襲い来る津波の情報が届かず、逃げ遅れた人々がいました。情報は迅速、明快、正確であることが必要です。

津波に襲われた地区に建てられた看板(がんばろう石巻)

③全国から届けられた緊急物資についての混乱

直接、たくさんの物資は届けられ、たくさんの人を救ったことは事実だと思います。しかし、実際には届かなかった避難所もあったそうです。また、緊急物資の品質が悪く、本来支援に回るべき人手が、送られてくる物資の整理に追われました。さらに刻々と変わる現場のニーズをどのように把握して、支援するのか、課題と感じました。

私にも、避難所における介護職員、看護職員が必要だという連絡が何度もありましたし、要望は刻々と変化しました。春になり、また夏を迎え、着るもの、必要な日常品、食料の内容をどのように把握し、送るのかが課題でした。また現地の農協倉庫に米があるにもかかわらず、活用されなかった等の混乱もあったと聞いています。

④現場を混乱させるボランティア

被災地の3月は、時にとても寒い。私も冬に石巻に行き、氷結した道路で何度も滑りましたし、防寒のために厚着の洋服を着ても、時に吹き荒れる風で体温を奪われる時もありました。当時、寒さ対策を十分せずに思いつきで被災地に入り、皆が避難している避難所の助けを求めてきた複数のボランティアがいたと聞いています。また、発災時の2,3ヶ月は、駆けつけるボランティアの方々への対応に現地の災害ボランティアセンターは追われました。多数のボランティアが来られるので、その方々に対応し、活動場所を調整することが必要になります。当然、現地の社協だけでは限界があります。石巻市社協では、ルーテル教会からの派遣ボランティアがセンターの受付窓口に立って調整に協力しました。

⑤地域における見守り等の活動をしていた方も、自分で自分や家族を守ることが優先されます。また、地震後に、身近な人と助け合うことが必要です。

東日本大震災によって、たくさんの民生委員児童委員の方が亡くなられました。つつしんで、ご冥福をお祈りいたします。なお、ふりかえり、以下の課題があったと指摘されています。

・強い使命感を有する民生委員だからこその自身の避難の遅れ、・津波が迫るなかでの委員活動の危険性、困難性 、・通信手段喪失に伴う民児協組織の機能停止(委員の孤立、自己判断による活動) 、・津波等による災害時要援護者台帳の喪失(必要書類等の保管のあり方) 、・避難所避難者の名簿等、避難者に関する行政等との情報共有の不足 、・発災時、またその後の民生委員活動に対する住民および関係者の理解不足 、・分散避難する地域住民に対する民生委員による支援継続の困難性 、・自身被災者でありながら活動する民生委員への支援の必要性(とくに精神面)

 そこで、現在は、「災害に備える民生委員・児童委員活動10か条」(民生委員・児童委員として災害に向き合う大原則)が出されています。紹介します。

第1条 自分自身と家族の安全確保を最優先に考える

第2条 無理のない活動を心がける

(平常時の取り組みの基本) 

第3条 「地域ぐるみ」で災害に備える

第4条 災害への備えは日ごろの委員活動の延長線上にあることを意識する

第5条 民児協の方針を組織として決定し、行政や住民等にも周知する

(市町村と協議しておくべきこと) 

第6条 名簿などの個人情報の保管方法、更新方法を決めておく

第7条 情報共有のあり方を決めておく

(発災後の民児協活動において留意すべきこと) 

第8条 委員同士の支え合い、民児協による委員支援を重視する

(避難生活から復旧・復興期の活動で意識すべきこと) 

第9条 支援が必要な人に、支援が届くように配慮する

第10条 孤立を防ぎ、地域の絆の維持や再構築を働きかける

発災時前の日頃の関わり、発災後の地域形成・まちづくりのメンバーとしての民生委員児童委員活動が大切にされています。

発災後数ヶ月経ち、以下の㋑㋒における生活の再建を考える次の支援の必要性

被災後の生活は、㋐震災後の避難所生活㋑仮設住宅における一時的生活㋒自立した生活への移行・復興住宅での生活、へと移行していきます。

避難所(体育館に段ポールで囲った生活)⇒市内にいくつものあった仮設住宅

復興住宅

その時に学んだことをご紹介します。

  1. 生活支援(バックアップ)、寄り添うケア⇒継続的な支援の必要性

要介護・要支援高齢者の増加、地域を離れなければならないサービス利用者の生活支援、避難所で見えてきた様々な問題の顕在化(避難所において、虐待、家族関係の崩壊、貧困、障害等の様々な問題が見えてきていました。特に、津波により、家族を失い、家や財産を流され、一気に失望の中におかれた高齢の方々の辛さは、深く大きいことを学んできました。石巻市では、発災後、地域福祉コーディネーターが各地区に配置され、個々の住民の地域支援に当たっていました。CSC最近の活動

https://www.dropbox.com/scl/fi/f4q5w00j4vtkwswhgzswq/CSC-2023.3.pdf?rlkey=el8dj7n9ktqj94nyboq4y812k&dl=0

CSC活動記録集

https://www.dropbox.com/scl/fi/4rh7v2169q1jd3ekcpq3s/CSC-_web-3.21.pdf?rlkey=zz0jlnlzjysyj9gax6iimggir&dl=0

地域福祉コーディネーターによる草の根支援が、被災者だけでなく、地域の方々の孤立を防ぎ、住民としての生活を下支えしています。当初のコーディネーターは、全国各地から来られた方でした。半数を超えるコーディネーターは、宮崎県、大分県、福岡県、高知県、山口県等々から被災地である石巻において、住民への地域支援の仕事しようと集まってきた方々でした。今は石巻で家庭を築かれている方もおられます。

さらに、瀧嵜博さんは、千葉県佐倉市社協の事務局長として定年を迎えられ、2013年から2018年まで石巻市社協復興支援課の地域福祉アドバイザーとして地域福祉コーディネータ―の育成にあたられました。石巻市の各地区での活動を終えて戻ってくる地域福祉コーディネーターの報告を受け、それぞれの意見を集約して取り組みに反映する丁寧な指導をなさっていたことを知っていました。退職後、病気で亡くなられましたが、そのお働きに感謝し、敬意を表したいと思います。

https://www.dropbox.com/scl/fi/qc5rhc767f74od6ccdyih/.-2016-2.pdf?rlkey=cc8c1o6c0j9bevndzeq4c3742&dl=0

このように、地域福祉コーディネーターによる草の根支援が、被災者だけでなく、地域の方々の孤立を防ぎ、住民としての生活を下支えしています。感謝。

②保健医療福祉ニーズの顕在化と個別支援

 児童の心の問題、要介護高齢者の増加、家族の確執、経済的課題、孤立問題、住まい・生活・仕事・将来設計等々に取り組む方々に格差が生じ、多くの痛みを抱える人々が顕在化しました。

③新たな生活の場での助け合いの仕組み作り=住民自身による自立支援を模索することの大切さ

 津波等で今まで住んでいた所から離れて生活することになった方々も多くおられます。従来の住民関係を維持できる方は、少ない状況でした。復興住宅に転居して安心した生活を送ることができたと思われるかもしれませんが、転居した途端、買い物の不便さに苦労し、日頃話すことができる人が少なく孤立状態に陥るという問題が新たに生まれることにもなります。

NHK2014年3月5日(水)放送分の記事を紹介します。
「支えあいの“縁”を創る ―石巻市・地域福祉コーディネーター―」の担当ディレクターです。
 地域福祉コーディネ―タ―の活動から、いま被災を受けた地域ではどんな支援ニーズがあるのか?そんな目線で取材に入りました。
 ほとんどの住民が家を失ってしまい、全壊を免れた23世帯だけが暮らしている門脇町。震災前は挨拶程度のつきあいしかなかったのに、今は住民自らがお茶会や体操教室などを行っています。釜・大街道地区では、高齢者や障害をもつ人たちが震災で助け合った経験から誰もが過ごせる居場所的なものをつくりたいと動き出していたり、自らの土地を提供して集会所を建てようとしていたり。地域を思って、住民自らが動き出している。そんな人たちがあちらこちらにいたのです。地域福祉コーディネーターは、「困っている人」だけを支援するのではなく、こうした地域にすでにあるもの、できていることを
地域の大切な資源として掘り出していきます。いずれ困ったときに支えてくれる人と関係を築こうとしているのです。取材中、地域福祉コーディネーターは、こうした住民さんたちの動きを「宝物」と言っていました。あくまでも地域の主役は「住民」。これから新しい地域づくりが始まるなかで、地域のことや人を思う気持ちが大切にされていることは、震災の地・石巻で希望の光を見たように思いました。

④継続的な心のケア=長期間の支援→すべての前提となる、地域関係、住民関係

⑤生活圏域における生活の必要な支援=インフラと生活基盤=買い物ができる場所・医療機関・移動手段等々のインフラは不可欠です。

⑥専門職への支援(燃え尽きる危険性・疲れ切っているし、自分も被災者です。また深刻化したニーズに日々対応しており、その苦労が蓄積していました)  ㋐バックアップ ㋑専門職の心のケア ㋒幅広い関係者のネットワーク ㋓支援する者の体力回復

以上の学びを通して、私が実感した被災地支援の原則をお伝えしたいと思います。

第1に、そもそも制度が、専門家が、事業者が、利用者、被災者の実像を見えにくくしていないだろうか。ならば、被災地では通用しない。生活者としての、住まい、仕事(産業)、援助(福祉)、生活環境、絆が、それぞれにあった自立の支援に結びつき、明日への希望と繋がる。

第2に地域の再生という視点からの復旧・復興が大切。全国各地で行われている「まちづくり」「福祉でまちづくり」と共通である。

第3に寄り添うケアの必要性。時を経て、状況が変わる。それぞれのニーズに対応していくこと。「靴に足を合わせるのではなく、足に靴を合わせる」、すなわちサービス、援助の枠組みに被災者を当てはめるのではなく、被災者の実像に合わせたサービス、援助を組み立てるという原点に立ち返る。

第4に被災地で起こったこと、そして支援を忘れないこと。被災者も支援者も互いに理解し合うこと。学ぶこと。被災地支援は0か100ではなく、その間には99通りの支援がある。すなわち、支援をしない0ではなく、完璧に支援を行う100でもなく、100通りの支援がある。それは、地域活動の歴史そのものではないでしょうか。

以下、福島県の東日本大震災の記録、同じく岩手県、宮城県、石巻市の記録をお示しします。ご検討頂ければ幸いです。今後の能登半島被災地支援に参考になると思います。

福島県 

https://www.dropbox.com/scl/fi/yjnit81fyc6iu2ka8sgne/.pdf?rlkey=ht18t7vn1dq6w66s2szw8ik4e&dl=0

岩手県

https://www.dropbox.com/scl/fi/cf78w6ogdbt4d3vzmxj92/.pdf?rlkey=n0ddamux22toemkwzh4vt52hv&dl=0

宮城県

https://www.dropbox.com/scl/fi/cn607h8fyddz0m6oe66h9/.pdf?rlkey=p9251cnm9iywq3zwvsbvjok8v&dl=0

石巻市

https://www.dropbox.com/scl/fi/kcb406w6w24ikpmxpi28e/.pdf?rlkey=lhskh9nv5p5da3wxp6l2t83nq&dl=0

日本医療ソーシャルワーカー協会『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援』

https://www.dropbox.com/scl/fi/62rt5oi5edutrv6fl6c8i/.jpeg?rlkey=c1e0ywbhd5b2dg6wh39684jyq&dl=0

Ⅲ)これからの能登半島支援を考える

 最初に申し上げたように、2024年1月1日に発生した能登半島地震から3ヶ月を過ぎましたが、依然、先行きが見えない状況にあります。崩れた家の片付けが終わらず、断水している多くの住宅があります。災害支援のために能登半島の各地を訪問し、先週金曜日に東京に戻ってきた災害支援の専門職は、「奥能登は、被災後変わっていない状況にある。水も通っていない。地理的問題があり、陸の孤島状態になっている。主要な道路が寸断され、南部が直って徐々に支援が繋がる状態。もしその道路が渋滞したら、食料を配布できなくなる。インフラの整備が今回の被災地支援を難しくしている」と。

今後、能登半島の特に奥能登でどのように復旧、復興をしていくのか、住民はどのように考えているのか、また長期の支援が必要となる中で、私たちがどのように応援していくことができるか、改めて考えてみたいと思います。

1.支援から協働へ

①災害被災地から学ぶ防災、応急措置、復旧

今は、どこでどのような災害が起こるか、分からない状況です。身近な行政、社協、社会福祉関係者、医療関係者も被災しており、自らの対応能力は限界があることは、阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災でも経験してきたことです。まず、身近な住民との助け合い、声かけや見守り等のネットワークの存在が不可欠で、震災前からのまちづくり、コミュニティづくりが大切になります。

確かに、地震等の自然災害が10カ所で起これば、10通り被害状況になり、地域の特性が大きな影響を与えることは言うまでもありません。しかし、それぞれの被災地で取り組まれている復旧、復興の支援を通して、自らがどのようなまちづくりをしていくのか、共通点も少なくありません。

②災害支援は、広域の視点で

災害は、被災地だけの問題ではありません。能登半島被災地支援の特徴の一つは、避難先が能登半島の領域、石川県の範囲に留まらず、被災状況によっては、一定期間、広域避難が必要になると思われます。被災地という地域に限定することなく、日本全国で被災地支援を考えるべきだと思います。福島のように、県外で生活している方々も少なくありません。避難場所の提供、避難してきた方々への支援等、支援の選択肢が増えています。

③全国各地に広がる孤立等の共通の問題に挑戦する

能登半島震災の問題は非常に深刻ですが、2月に開催されたある自治体の高齢者保健福祉計画・介護保険事業計画の最後の会議で、私は以下のように申し上げました。「人材確保、養成等に明らかな決定打を示せず、私は閉塞感を感じています。今、必要なことは3点。自らの取り組みを振り返ること、これからの地域、社会の姿を描くこと、協働した取り組みを目指すこと。委員の皆さんもその主体です。この有力な自治体でできなければ、どこの自治体でもできないと思います。」と。まちづくりの原点を学ぶ必要があります。それは、被災地の復旧、復興から学べます。

2.正確な情報のいかに迅速に、集約するかが今後も勝負です。

ニーズの統一的把握と管理を進めようと、石川県庁は取り組んでいますが、今後検証が必要に思われます。能登半島地震の被害状況、支援活動の情報は、市川が把握した限られたものですが、市川一宏研究室に掲載しています。把握がとても難しかったと実感しています。今後の課題です。

3.問題を共有し、それぞれの役割を合意し、計画として取り組みを明確化する。

私は現在、複数の都県行政、市町村行政や社協と関わりをもっています。いずれも、能登半島の被災地と共通の問題をもっており、被災地支援と各地域の孤立予防、災害対応のまちづくりの取り組みを互いに学びながら、まちづくりを進めていく必要があると考えています。

具体的には、地域福祉計画、地域福祉活動計画の策定において、被災地支援、被災地との具体的連携を検討すること。また高齢者保健福祉計画において、高齢者の孤立予防はもちろんのこと、災害時の対応について言及することが必要ではないかと考えています。

4.援助することはもちろん、援助を受けることに踏み込む。

 三鷹市社協の地域福祉活動推進計画2023では、実践目標6として、「市民と共に備えるまちづくり」を掲げ、具体的な取り組みとして以下3点を上げている。

⑴災害時に関係団体とスムーズに連携が取れるよう、地域の自主防災組織や関係機関、団体との連携を強化する。・災害ボランティアセンター設置運営訓練への参加を呼び掛ける。

⑵災害ボランティアセンターの運営協力者の養成と市民の防災意識の向上に取り組む。

①災害ボランティアセンター運営スタッフ養成講座や講座修了生の勉強会を定期的に開催する。

②市内で開催される各種イベント等で災害ボランティアセンターの啓発を行う。

  • 平時から防災の意識を高め、災害時の助け合いにつながる取り組みを行う。

①地域ケアネットワーク※18 等と連携した防災の取り組みや、災害時の安否確認・避難等を意識したほのぼのネットの見守り活動を推進する。

三鷹市社協では、計画を策定して1年を経過したので、その評価を踏まえ、取り組みを明確化する必要がある。

また、2024年3月の『東京都災害ボランティアセンター第3期アクションプラン(5か年中期実行計画)』では、「社会福祉協議会のブロック域をベースとした多様な団体との連携・協働を掲げ、「社会福祉協議会のブロック域をベースとして、多様な団体同士がつながり、災害に関する情報交換や合同の企画を行う場を継続的に持ち続けられる提案・調整を行う。

【具体的な取組み】

・社会福祉協議会のブロック域での多様な団体との連携・協働(第2期からの継続)

・要配慮者当事者/支援団体とブロック域団体との連携・協働

各種テーマに応じた広域の要配慮者団体とブロック内の社協・VC や当事者団体との意見交換の場を設ける」としており、実績もあるので、例えば、北多摩南部ブロックに属する三鷹市社協、小金井市社協、狛江市社協、調布市社協、府中市社協が連携して、災害ボランティアセンターの協働設置や、行政と連携した災害時の避難所運営等、具体的に検証することが可能性を検討してはどうでしょうか。

5.能登半島地震被災地支援で特に着目すべき点の検証

①災害派遣福祉チームの派遣がなされました。全国派遣としては初の試みなのですが、制度が確立したのは、熊本以来です。そもそもDWATとは、被災した特別養護老人ホームなどを支援するために編成された福祉に特した災害派遣福祉チーム、Disaster Welfare Assistance Teamのことで、能登半島震災では、DWATのコーディネートは石川県庁で、全社協(法人振興部)介護施設等の箱物への派遣支援を行ったと、私は聞いています。但し、今回の方が大きい被害で、その機動性が必要とされていました。そして今回、1.5次避難所の提案がDWATに入りましたが、DWATの職員、実働者が少ない現状であり、DWATの認知度が低い ことが指摘されています。今後の検証が不可欠であると思います。

 なお、2023年3月、富士通総研が『災害福祉支援ネットワーク、DWAT の実態把握、課題分析 報告書』を公表しています。

https://www.dropbox.com/scl/fi/0a5k16acb4pqew1zyskrh/DWAT.pdf?rlkey=jof3rtzesb49va685uj87uqcf&dl=0

また、②迅速な行政職員派遣派遣、③ニーズの統一的把握(発災時のさいぼーずの資料で大規模の自衛隊の動向はつかめた、しかし、在宅に関しては?)、④支援者の役割分担(多くの家が倒壊して今回の地震では、瓦礫を片付けたりするNPO技術系の人材が、炊き出しに入らざるを得ない状況で人数が足りない等の情報もあります。https://www.facebook.com/seiji.yoshimura.73)

以上、可能な範囲で、情報を整理しました。改めて、私の思いを申し上げます。

2024年1月1日い起こった能登半島地震の被害は深刻で、日本中を震撼させました。それ以降、私は、なかなか掴めない被災状況を把握し、支援の可能性を模索するために、いろいろ関係者に問い合わせをし、多くの方にお伝えしてきました。限られた内容ですが。市川一宏研究室に掲載しています。

また、能登半島地震被災地支援を考えるために、今まで私が経験してきた東日本大震災被災地支援について整理しました。そこで確認できたことですが、今もって、何をすべきであったか、何が相応しかったか、絶対的な正解を見出しえなかったのです。試行錯誤の過程しか、お伝えできなかったことを反省するとともに、基礎的資料に関してご提示したつもりです。皆さんの参考になるなら、それはうれしい限りです。

また、被災地での経験が、今の私の実践と理論の源流にあるという事実を確認できたことは、私にとっては、有意義でした。そして、以下の結論に達しました。

今、福祉系の大学等教育機関に入学する学生が減少しています。そして社会福祉機関・団体が求人を出しても応募者が少ない傾向がみられます。しかし、ソーシャルワーカーを必要とする人々は確実に増加しています。この閉塞感を打開するために、生活課題に一緒に取り組み、学び、互いに励まし合いながら解決してきた卒業生、仲間と協働して、未曾有の危機に挑戦していきたいと思っています。その挑戦の一つの重要な手段として、能登半島地震被災地支援を行っていきたいのです。それが、私に与えられた使命です。神様に許される限り。